8.お手ふりの公算
踏切の警報音が、夕方の冷たい風に乗って車椅子専用スロープを通り抜ける。
「げんこつやまの……たぬきさ……ん」
幹也の隣でスロープの金網に凭れた澄雨は、電車がやってくるレールの先を眺めながらぼんやり口ずさんだ。長いようで短かったテスト期間を終え、悲喜こもごもを巻き起こす紙切れが戻り始めた十二月も第三週のことである。
今日は駅前のファーストフード店で美緒と待ち合わせをしていた。早く行きたいのだが、お手ふり好きの幹也がマイペースなのだ。
「おっぱい……飲んで、ねんねして……」
わらべ歌は踏切の警報音から気を反らすための自分ルールである。だが、いまは考え事に気を取られているので、ただの惰性に過ぎない。
澄雨の父親は、職業安定所に行く途中で電車に飛び込んで死んだ。
うつ病で会社を退職してから一年の療養を経て、ようやく回復の兆しが見え始めた矢先のことだった。うつ病は気力が戻り始めた時期が一番危険なのだと澄雨が知ったのは、大分後になってからだ。
あれから三年が経った。
当時まだ赤ん坊だった幹也は保育園児に、澄雨は中学生からおさんどん女子高生へ。そして母親は寿退社から、男性社員と肩を並べる営業職へと返り咲いた。鉄道会社に損害賠償を支払いながらも、親子三人で細々と生きてきたのだ。
なんの問題もない、家事も育児もすべてが上手く回っている。それなのに。
寒風を従えた電車が、定刻通りにホームへ進入してきた。金網にしがみ付き電車を睨む幹也のつむじを、澄雨はそっと撫でる。
――それなのに、なんでいまになってお母さんの枕元に立ったりして……。
そして自分はなぜ、あんな父親の幻覚を見たのか。実は覚えていないだけで、母親と同じように父親の夢を見ていて寝不足気味だったのだろうか。
また、どうしてあの男――赤猫は、よりによってこの時期に姿を現したのか。
そこまで考え、澄雨は思わず吹き出してしまった。関係あるはずがない。二時間サスペンスでもあるまいし、身の回りに起こった不審な出来事がすべて繋がり、岸壁で佇む犯人のところまで導いてくれることなどありえない。
澄雨が隣を見ると、最後尾の車両から降りてきて安全確認をする車掌へ必死に手を振る弟がいた。タイミングが合えば、窓から身を乗り出して前方確認をした車掌が、電車が走り去る寸前に手を振り返してくれたりするのだ。
幹也の”お手振り道”はただ黙々と手を振るだけの、ストイックなものだ。
他の子供達のように奇声を発したり金網を揺すって車掌の気を惹くのは邪道だと思っているらしい。それでも五回に一回ぐらいは成功するのだが……残念ながら、車掌はこちらを見ることもなく前方確認を終え、車両内に引っ込んでしまった。
弟と共に離れ行く電車の最後尾を見送りながら、
「残念。また今度があるよ、みーたん。帰りにも手を振ればいいし――って」
だが幹也はすぐに反対側の金網に向かって、新たなる挑戦とばかりに猛然と手を振り始める。嫌な予感に澄雨が振り返ると、
「やぁ。ぼーっとして、どうしたの」
「ってか、赤猫さんってばいつの間に? どこから湧いて出たんですかっ?」
いつもと同じように、不思議と下品に見えない深緋色のスーツ姿の男が凭れて腕を組んでいた。相変わらずの謎めいた笑みを湛えて、
「溜まり水のボウフラみたいに言わないで欲しいね。僕は最初からここにいたよ」
「えー、確かにさっきまで誰も……」
金網に囲まれた畳二畳ほどのスロープ内に一緒にいて、気付かないはずがない。
もし赤猫が新任教師として学校に赴任すれば、その日のうちに裏サイトの掲示板にスレが立ち、すぐにファンクラブが出来そうな、女受けの良い甘い容姿をしているのだ。そんな派手な存在に気付かないほど、自分が呆けているとは思えない。
「僕を目の前にしてなんの探りも入れず、突っ掛かってもこないなんて珍しいなと思いながら、可愛らしい君のことを大人しく眺めていたよ」
赤猫は意地悪くも、気付かないで歌ったり笑ったりする澄雨をずっと見ていたのだ。頭に血が登り掛けるが、三秒堪えて気持ちを落ち着かせる。この男はいつも気に触るようなことばかり言う。澄雨はぷいっと顔を背け、
「……もう行かなきゃ。友達と待ち合わせしてるんです。みーたん、行くよ」
心なしかションボリしている幹也の手を引き、スロープから歩道へと合流する寸前。赤猫に気を取られていた澄雨は、歩いてきた通行人とぶつかりそうになる。
「すいませ……って、美緒?」
「あー、澄雨ちんじゃん。こんな場所で何を……って、みーたんのお手ふりね」
赤いマフラーを巻いた女子高生は、部活動を終えて下校してきた美緒だった。
「おっ、お手ふりちょうど終わったのっ!」
赤猫と一緒にいるところを、美緒に見られてしまった。
とっさにどう言い繕おうかと頭をフル回転させる澄雨だが、予想に反して美緒は赤猫へ視線を向けない。わざと気付かない振りをしてくれているのだろうか。
「早く行こうよ、おなか減っちゃったー」
「う、うん。私も」
内心、首を捻りつつも立ち去ろうとした澄雨の耳に、赤猫の呟きが聞こえた。
「――シノニオイが濃くなった」
振り返れば、赤猫はまるで空気の匂いを嗅ぐように顔を上げて辺りを伺っている。妙にケモノ染みた仕草に思えたが、澄雨は美緒を追い掛けて歩道を下っていったので、その行動の意味を問い質すことはなかった。