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7.父親の影

 

 

 ダイニングテーブルでテスト勉強をしていた澄雨がふと顔を上げた時、子供用DVDを見ていたパジャマ姿の幹也がこっくりこっくりと船を漕いでいた。

 居間の掛け時計は、すでに夜の十時半を回ろうとしている。


「いけない、もうこんな時間。ほらっ、みーたんってばおっき、おっきして!」


 自身もパジャマ姿の澄雨は、布団を三枚並べた和室へと幹也を急き立てた。

 そして電子レンジでチンするタイプの湯たんぽを真ん中の布団の足元に押し込み、半分寝ている幹也を横たえる。澄雨は本棚の絵本を手早く物色してから、


「クリスマスも近いし、これにしよう」


 トナカイの引くそりに乗った赤ら顔のサンタが、星空を駆けて行く表紙である。それは去年、母親が通販で買った絵本だった。


「ええっと。しん、と静まり返った夜空の彼方。トゥインクル、トゥインクル……」


 布団の傍らに座って澄雨が読み始めると、それまで夢の世界に片足突っ込んでいた幹也の両目がカッと開く。クリスマスの絵本をぐいと押し退け、代わりにこれを読めとばかりに枕の下から分厚い本を引っ張り出した。


「えーっ、またそれ読むのー?」


 見るからに不気味な赤黒い表紙には、おどろおどろしい文字で妖怪大図鑑、と書いてある。妖怪大図鑑は保育園の貸し出し図書で、ここ一月ほど借りては返し、返しては借りるを繰り返して毎晩読まされていたのだ。かなり食傷気味の澄雨は、こっそり保育園に返却しようと食器棚の奥に隠したはずだったのだが。


「お姉ちゃん、それ読むと寝覚めが悪いんだよねー。こっちにしようよー?」


 だが、記憶もないはずの父親に似た口元を頑固に引き結んだ幹也は、気味の悪い赤黒い本をぐいぐいと押し付けてくる。

 澄雨はつかの間、幹也の顔を眺めてから、仕方なく妖怪大図鑑を開いた。


「……どこからだっけ? もう何回も読んでるから、さすがに覚えてらんないよ」


 幹也が迷わず頁を捲った先は、カ行の『火車(かしゃ)』という名の妖怪の項目だった。


「えー、カシャ。葬式の時に大風と共に現れて、死体を攫って食べる猫の化物」


 火車という妖怪は、平安時代の貴族が乗るような二つ車輪の牛車を引いた巨大な化け猫の姿をしていた。しかも化け猫も牛車も燃え盛る炎を纏い、葬式の参列者を蹴散らして棺おけから死体を攫っていくという挿絵まで付いている。


「なになに、古くは悪人を地獄へ連れ去る獄卒――つまり鬼であったが、死体を持ち去ることと死体を盗んで食らうという別の妖怪のイメージが混同して化け猫の姿になった。極悪人は生きながら火車に地獄へ連れ去られ……って、これどう考えても子供向けじゃないでしょっ!」


 反射的に本を閉じた澄雨だが、思い直して開き、火車の挿絵をまじまと見詰める。なぜか妙な既視感があった。すでに何度も読まされているので、見覚えがあって当たり前ではあるのだが。


「うーん駄目だなぁ、最近忘れっぽくて」


 澄雨が自分の頭を小突いた、次の瞬間。

 玄関ドアの鍵が、ガチャリと音を立てて開いた。油断していた澄雨がドキドキしながら寝室から廊下を覗き込むと、玄関先に座り込んで難儀そうにパンプスを脱ぎ散らかしている母親の丸い背中があった。


「おっ、おかえり。こんなに早くどうしたの?」


 決して早いわけではないが、最終電車駆け込み常連の予期せぬ帰宅に、澄雨は眼を瞬かせる。父親が亡くなったあと、母親は結婚退職していた商社の営業に再就職していた。ブランクがあったものの、これでも営業成績は悪くないらしい。


「うーん、ちょっと具合が悪くってさー」


 酒の臭気を撒き散らしながら、母親はスーツにハーフコートを羽織ったまま寝室の布団に倒れ込んだ。隣の布団で眠り掛けていた幹也がびっくりして起き上がる。


「ちょっ、また飲み過ぎたの? あー、みーたんは起きなくていいから寝てなさい。今日シチューなんだけど、ご飯どうする?」

「いらない……そんなことより、澄雨」


 うつ伏せのまま転がっている母親のコートだけでも脱がせようと奮闘する澄雨の肩を、完全に目の据わった母親が起き上がってがっしと掴み、


()()()()()()()()は、止めなさい」

「……は?」


 酔っ払いの戯言に、澄雨の心臓が一瞬止まった。同時に、どこかの金網に背を預けて立つ男の笑顔を思い出したが、頭を振って打ち消す。振り過ぎて目眩がした。


「最近、お父さんの夢を見るのよ」


 言うだけ言って、また母親はくたっと突っ伏してしまう。澄雨はようやく理解した。母親は夢のせいで父親を思い出し、欝っているのだ。確かに父親は、顔だけは良かった。ちなみに幹也も父親の顔の良さをしっかりと受け継いでいる。


 冷静に考えれば、自分がどこで誰と会ってようと母親が知るはずはない。マンションの役員でさえ澄雨任せで、近所の誰とも交流を持つ暇などなく働き詰めなのだ。勝手に狼狽えて、自分バカみたいだと澄雨は思った。


「駄目だよ、あんまりお酒強くないのに。飲み過ぎなんじゃないの?」

「お父さんが真っ赤な池に浮いてるの。あれ、血の池地獄っていうのかしら」


 澄雨は思わず背後を見るが、幹也はとっくに夢の中である。安堵して声を潜め、


「……なんて夢見てんの、お母さんってば。三回忌だって終ってるのに」

「そうよねぇ、化けて出たいのはむしろこっちだっていうのに……あの人ったら」


 ふと、母親と父親の話をするのが三年振りであることに気付いた。ふたりの間では、父親の話題は自然と禁句になっていたのだ。

 何を思ったか母親は急に仰向けになり、


「こう、若い頃のままのイケメンを真っ赤な水面に出してね。何か、言ってるのよ」


 寝転がったまま、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせる。妙にリアルだった。


「何か言ってるって、何を?」

「それが分かれば、こんな夢見なくて済むようになると思うんだけ……ど――」


 言葉の途中で母親は寝入ってしまった。澄雨は布団を掛けてやり、放り出したままの妖怪大図鑑を片付けようと手を伸ばす。


「えっ?」


 目に止まった火車の挿絵。牛車自体が噴き出す炎に煽られ、後部の御簾が捲れ上がっていた。さっきもそうだったかなと、首を傾げる。しかもよく見ると、御簾の向こうから澄雨の見知った顔が覗いているではないか。


「……お父さ、ん?」


 背広姿の父親が、澄雨に向かって訴え掛けるように口を開いていたのだ。

 もちろん、内容までは聞き取れない。


 澄雨は思わず、妖怪大図鑑を取り落としてしまう。激しく脈打つ心臓をなだめて本を拾い上げると、挿絵の御簾は閉じたままだった。

 ――見間違い……だった?

 傍らの母親と幹也は、いつもと同じように健やかな寝息を立てて眠っている。

 澄雨は無意識に自分を抱き締めた。暖房設備のない和室は、パジャマ一枚の澄雨には寒過ぎる。


「いまさら、なんだっていうの……」


 澄雨は妖怪大図鑑をいささか乱暴に本棚の端に押し込み、寝室の灯りを消した。

 

 

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