6.スロープ内はニューノーマル
いつも通りの、買い物からの帰り道。
いつも通りに暮れ行く夕日を浴び、ホーム端の車椅子専用スロープとは名ばかりの囲いの中で、車掌に手を振りたがる弟に悪態をつく……はずだったが。
「君はいつも急いでいるんだね、澄雨」
「……呼び捨てはやめて下さい」
「いいじゃない、君と僕の仲なんだもの」
夕日に赤く染まる男は腕を組み、金網に背を預けて満面の笑みを浮かべていた。
まともに話をしたのはつい一週間前のことなのに、一体どんな仲だというのだろう。名前なんか教えるんじゃなかったと、澄雨はこっそり溜め息をつく。
買い物の行き帰りのスロープで赤猫と会うことが、半ば日常化しつつあった。
――赤猫さんがこの場所にいるからしょうがないじゃんと、澄雨は自分自身に言い訳する。無意識に唇を尖らせてしまいながら、
「だって、早くご飯作って幹也に食べさせないと、お母さんに怒られちゃう。頑固にお手振りに執着しなかったら、こんなところで一秒だってロスしたくないのに」
暗に馴れ馴れしくするなと言ったつもりだったが、赤猫は別段気を悪くするわけでもなく、
「僕はそのおかげで君とお喋りが出来るから幸せだな。ありがとう、幹也君」
そう言ってあの華やかな笑みを振りまくのだが、当の幹也は金網にしがみ付いたまま振り返りもしない。澄雨より早く赤猫の姿を見付けては猛烈なお手振りの洗礼を浴びせかけ、以降はなぜかスルーを決め込んでいるのだ。
――それにしても、非常に気まずい。
澄雨は人知れず目蓋を痙攣させる。近親者以外の男性と親しげにしている姿を学校関係者やマンション住人に目撃されたら、いったい何を言われるやら。誰かが脇の歩道を通るたびに、澄雨は神経を尖らせていた。
とはいえ、自分が思うほど他人のことなど気にしないようだ。学生も親子も年寄りも、誰ひとりとして澄雨達に一瞥も向けない。
そんな澄雨の不安など察する気もない赤猫もまた、赤猫なりに妙に思案顔で、
「父親亡き後、フルタイムで働く母親を支えて家事全般を担い、幼い弟の世話をする健気な女子高生……か。参ったな、付け入る隙のない立派な生活態度だね」
「いっ、いたって普通ですよ。なんでそんな話してもないことを知ってるんですか? どうして赤猫さんが参っちゃうんですか? 関係なくないですか?」
赤猫は矢継ぎ早の質問には答えず、
「いろんなこと面倒臭くなってない? ほら、家事とか育児とか学校とか、生きることそのものとか」
「そっ、そんなことないですよー」
この男、何を言うかと突っ込みを我慢する澄雨の笑みも、思わず引き攣る。
「あ、赤猫さんこそ、こんな場所で油売ってていいんですかっ? お仕事とかお仕事とかお仕事とかしなくてもいいんですかっ?」
自ら話題を振るのは嫌だが、赤猫から可及的速やかに情報を収集する必要があった。生前の父親とどれだけ親しかったのかは不明だが、これまでの雑談で父親の仕事先から木ノ下家の家族構成、経済状況に至るまで筒抜けなことが判明している。
「こう見えても仕事中なんだけどな」
「へー、こんな場所で女子高生をからかってひなたぼっこしながら出来るお仕事って、一体何ですか?」
「それはナイショ」
「えー、どうしてですかっ!」
澄雨が猛然と食って掛かると、
「というより、君には前に全部話してあるんだから、頑張って思い出してごらん」
「もーっ、赤猫さんのケチっ」
思わず頬を膨らませて拗ねそうになり、なにやってんのと自分を叱咤する。
このスロープ内に漂うくすぐったい雰囲気はなんだろう。担任やクラスの男子とさえ砕けた会話などしたこともないのに、これではまるで。
「わっ、私帰らなくちゃ。失礼しま――」
逃げるように踵を返そうとする澄雨の腕を、赤猫が掴んで引き止める。
細いわりに力強い。手が妙に温かいのは、筋肉量の多い男性ならではなのかと澄雨は思った。なぜか顔が酷く熱い。
「またおいで。僕はここにいるから」
光の加減か、目が縦に光って見えた。
からかわれていると思い、澄雨は反射的に手を振り払う。
「じっ、女子高生相手に何やってるんですか? 淫行条例に引っ掛かって通報されても知らないっ、ほっ、本当に、助けてあげないんだからっ」
父親の葬儀に来てくれた人を通報するつもりなど毛頭ないが、思わず社交辞令の枷が外れて怒鳴ってしまった澄雨に対し、
「僕が君に初めて出会った時、君はまだ可憐なセーラー服姿だったよ。とても愛らしかった」
赤猫は笑みを絶やさずそう答える。どこまでも口の減らない男だった。
「気を付けておかえり、澄雨」
そして今日もまた筆舌に尽しがたい敗北感に打ちのめされた澄雨は、まだ手を振っていないと首を振る不完全燃焼の幹也を引き摺り帰路に着くのが、ここ一週間のパターンなのであった。