4.駅のホームが見渡せるスロープで
「――アンタはちょっと、落ち着きなさいっ」
しつけのなってない犬のようにぐんぐん手を引く弟を窘めながら、澄雨は自宅のあるマンションの前を通り越し、駅前のスーパーへと向かう歩道を下っていた。
駅前ロータリーまで続く緩やかに弧を描いた下り坂は、途中で駅のホームの端に接している。駅の入り口は五十メートルほど先にあるのだが、ホームとの合流地点には車椅子専用スロープ――と言っても三方を金網に囲まれた二畳ほどの四角い空間で、開いた面が歩道へじかに接している――があった。
幹也はそのスロープの金網にしがみ付き、ピタリと動かなくなってしまう。
「みーたん、早くスーパーに行こうよ。百円までならなんか買ってあげるから」
十五分おきにホームへ入る電車の車掌へ手を振るのを、幹也は日課にしているのだ。専用スロープは、知る人ぞ知る――子供と電車マニアと母親達のみが知る――絶好の電車観察スポットだったのである。
だが、澄雨としてはぶっちゃけ早いところ夕飯の買い物をして家に帰り幹也に夕飯を食べさせ、風呂に突っ込んで早々に寝かし付けてしまいたい。
午後四時前後とはいえ、日の暮れに伴い薄っぺらなコートを通して寒さが染み込んでくる。半ズボンから細い足を覗かせた幹也は身体が小さい分、もっと寒いに違いない。澄雨は次第に色を濃くしていく空を仰ぎ見て、はぁと嘆息した。
「……もうっ、しょうがないなー。本当に本当にっ、一回だけだからねっ!」
遮る物のない線路を吹き渡ってくる風は酷く冷たい。
寒さのあまり歯をカチカチ鳴らしながら、幹也の後ろにしゃがみ込んだ澄雨は、小さな身体を寒風から遮るためにそっと抱き込んだ。
遠くの踏切の警報音が風に乗って流れてきて、澄雨は顔を顰める。
何を隠そう、澄雨はあの甲高くて耳障りな警報音が大の苦手なのだ。
好きな人はあまりいないだろうが、澄雨の場合は警報音が鳴っている間、心を平静に保つためにとある儀式が必要なほどで、
「――げんこつやまの、たぬきさん。おっぱいのんで、ねんねして――」
警報が鳴り止むまで、エンドレスで歌うのだ。かつて、むずがった赤ん坊の幹也を背負い、家の中や外を歩きながら歌ったわらべ歌だった。
そして、何回か口ずさんだあとのことである。
「だっこしておんぶして……ん?」
急に幹也がくるりと後ろ――こちらに向き直る。まだ電車が来ていないのに、金網がたわむほど背を押し付けて、動画の三倍速みたいに手を振っていた。
しかも、誰もいないはずのスロープ内の反対側の金網に向かって、である。お手振りに誘われるように澄雨が振り仰ぐと――。
「確か、だっこして、おんぶして、またあした……だっけ?」
少し鼻に掛かる高めのハスキーな声。
いつの間に入ってきていたのか、反対側の金網に背の高い男が凭れている。
鮮やかな深緋色をした細身のスーツを身に着けたその男は、端正な顔にいたずらっぽい笑みを浮べて澄雨を見下ろしていた。
このシチュエーション、どこかで――?
「君はまだ、その歌を口ずさんでいるんだね」
「あっ、あの、ええっと、その……」
「久しぶりだね、元気にしてたかい?」
澄雨は必死で記憶を探るが、少しも思い浮かばない。
箱ひだスカートの乱れを直しつつ立ち上がった澄雨の戸惑いなどお構いなしに、見覚えのない男はなんのためらいもなく腕を伸ばしてきた。思わず身を竦めた澄雨の頬は、真冬なのに不思議と温かな指先に捉えられてしまう。
「もっとよく顔を見せて。髪、短くしたんだね……ちょっと、もったいないかな」
「えっ、えええっ?」
「――でも、綺麗になった」
笑み崩れる顔を見ているとなにかを思い出せそうなのに、記憶はまるで繋がらない。確かに中学の頃は髪を長くしていたが、誰かと勘違いしているのだろうか。
男は戸惑う澄雨の頬に顔を寄せ、まるで獣のように鼻を蠢かせ、
「君、全然匂いがしないんだね」
「にっ、ニオイ!?」
何のニオイだと内心突っ込む澄雨も、同時にその男から入浴剤に似た香りをふんわり嗅ぎ取る。温泉の元に近い香りがした。そんな思考を巡らせていた澄雨の目に、男の薄い茶色の瞳が一瞬、夕日を受けて縦に光ったように見え、
「あの時の、溢れんばかりだった怒りや悲しみは、まだ君の中に残っているかい?」
そう問われ、澄雨は思わず息を飲んだ。図太さが取り柄のおさんどん女子高生に、そんな子供染みた感情などあるはずもない。けれど、なにもかも知っているような男の笑みが澄雨を不安にさせた。動揺した澄雨は目を瞬かせながら、
「あのっ……どちらさまでしたっけ?」
それまでマイペースだった男は急にがっくりとうな垂れ、金網に凭れて頭を掻いてみせる。とにかく良い顔が離れてひと安心の澄雨は、身の守りとばかりに幹也をぎゅっと抱き寄せた。幹也は不満げにジタバタと藻掻いている。
「いや、僕も覚えてないだろうと思ってはいたけどね。なにせ三年振りだから」
三年と言われ、記憶の扉がわずかに開く。
「……あ、ひょっとして、父の葬儀に来て下さった方ですか? すいません、すっかり忘れてしまって。ええっと、お名前をちょうだいしても?」
やっと澄雨は緊張を緩めたが、三年前に葬儀で出会っただけの人物を覚えていろというのは、どだい無理な話だった。
「僕の名前? あー……赤猫だよ」
「赤猫さん……変わったお名前ですね」
「そういえば、僕は君の名も知らなかったよ。なんていう名前だい?」
「えっ、澄雨。木ノ下澄雨、ですけど……」
澄雨は言葉に詰まる。なぜだろう、自分の名前を知らないという一言で、澄雨に掛けられた非日常の魔法が瞬く間に霧散してしまった。やはり新手のナンパか、淫行条例違反なのか。急に澄雨の心の中にむくむくと暗雲が湧いてきて、
「――みーたんっ、スーパーに行くよっ!」
まだ手を振ってないと無言で主張する弟を引き摺り、澄雨は逃げるようにスロープをあとにする。よく考えれば、自分達の父親が死んでいることなど簡単に分かる。近隣住人なら、子供でも知っていることなのだから。
――本当に弔問に来てくれた人かもしれないけど……でも、慣れ慣れし過ぎる。
一気に二十メートルほど下ってきて、澄雨は背後を盗み見る。十数秒目を離しただけなのに、スロープの中に誰の姿もなかった。