3.放課後の教室~お迎え
ホームルームを終えた教室の窓際でオレンジの西日を浴びながら、澄雨はスポーツバッグの中へ教科書やノートを手早く放り込んでいた。
教室内では帰りそびれた女子生徒らがお喋りに興じ、
「谷川ってば、木ノ下さんに文句言いたいのに証拠がないから言えなくて」
「唇がプルプル震えちゃって?」
「今頃、家庭科準備室で悔し泣きだよー」
あるいは、数人の女子生徒達に囲まれた親友の美緒が、机の上に並べたタロットカードを手慣れた仕草で捲っている。
また、恋占いでも頼まれたのだろう――そんなことを考えていたはずが、
「――はっ?」
気付いた時には膝からスポーツバッグが滑り落ち、中身が床に散乱していた。
「どうしたの木ノ下さん、ぼーっとして」
女子生徒らの裏返った笑い声が脳天に突き刺さるようで、澄雨は軽く頭を振る。
「一瞬、意識が飛んだみたい。最近寝覚めが悪くて」
――理由は分かっているんだけどね。
そう心の中で呟きながら、澄雨は床に散らばった文房具類を拾い集めた。
「それ、マイクロスリープってヤツ? 車とか運転してたら事故っちゃう?」
お年寄りじゃあるまいしと誰かが言い、周囲がどっと沸く。
家庭科でのぼんやり擬態がすっかり身に付いたと苦笑しながら、澄雨はスポーツバックを肩に掛け立ち上がった。
「まぁ、必要に迫られれば誰だって調理するわけだし、わざわざ優劣つける必要ないよ。大体、料理なんて口に入ればなんでもいいんだよ」
「でた、木ノ下さんの口癖がっ」
再びリミッターが解除されたような甲高い笑い声で教室が沸き立つ。
そんな中、ひとり教室を後にしようとする澄雨の背中を、向こうから小走りにやってきた美緒が呼び止め、
「澄雨ちん、駅前に新しいファーストフード店が出来たじゃない? テスト一週間前で部活もないし、新聞に入ってた割引券があるから寄って行こうよー」
澄雨の耳元に唇を寄せ、占いで気になることがあるのと囁いた。正真正銘のおっとりさんの癖に、美緒の占いはよく当たると評判なのだ。
――また美緒ってば、私のこと勝手に占って、良くない結果でも出したかな。
よくあることなので、澄雨は特に気に留めず、
「ゴメン、迎えに行ってやらなきゃ」
「あ、そっかぁ。幹也君が待ってるもんね。こっちこそ、呼び止めてゴメンねー」
「謝る必要ないし。それより、ほら」
澄雨が指し示す先には、美緒の席の周りにいた女子生徒らがまだ占い足りないとばかりに、こちらの様子を伺っている。
慌てて戻る美緒の背に軽く手を上げ、澄雨は教室を後にした。
美緒が隠し持っていたカードを、澄雨は見ることがなかった。
*
通っている高校から徒歩十五分の位置に、弟の幹也が待つ公立保育園がある。
学校指定の薄っぺらな紺のコートを羽織った澄雨は、パート帰りで子供を引き取りに来た母親達に会釈をした。
声を掛けてくる顔見知りの子供らに手を振りながら保育室に向かうと、
「――ああ、幹也君。お姉さんが迎えに来たわよー、お片づけしましょうねー」
すでに上着を着て肩掛けカバンをたすきに掛けた幹也が、部屋の隅で一心不乱にブロックを積んでいた。母親の迎えを待つほかの心細げな子供らとは違い、澄雨が迎えに来ても来なくても、どうでもいいように見える。
「分かり辛いけど、お姉さんが来るのをずっと待ってたのよねぇ、幹也君?」
三時間前にお着替え済ませちゃったのと言って、若い保育士は澄雨に微笑んだ。
「そっ、そうなんですか」
何年か前までは確かに自分も子供だったはずなのに、もはや澄雨には弟の気持ちがよく分からなかった。
「澄雨ちゃんは本当に偉いわねぇ。すっかり幹也君のお母さん代わりだもんねぇ」
「そうそう、うちのバカ息子なんてきっと今頃、カラオケで絶叫してるわ」
そう言って笑う母親達に、澄雨はそんなことないですよーと愛想笑いを返す。
三年前に父親を亡くして以来、澄雨は母親と弟の三人暮らしだった。
母親がフルタイムで働き、その代わりに澄雨が家事育児を一手に担っている。幹也を登校時に保育園へ預け、学校帰りに迎えに寄るのが日課なのだ。
こんな風に誰かに褒められるたびに、澄雨はひどく落ち着かない気分になる。澄雨にとっては家事も育児も当たり前のことで、偉くも立派でもないからだ。社交辞令かもしれないけど、大人達は皆大げさだなと澄雨は思っている。
「みーたん、帰ろ……あれ?」
いつの間にか靴を履いていた幹也が、ひとりで弾丸のように外へ走り出す。
「ちょっと、待って! 車に轢かれちゃ――ええっと、お世話さまでしたー!」
一分一秒でも早く行こうとする小さな背中を、澄雨は慌てて追い掛けた。




