19.すべての運転手に愛を込めて
小雪のちらつく中、駅前ロータリーを埋め尽くすのは色合いの異なるランプ群――パトカーと救急車と消防車のランプが点滅し、辺りは騒然としていた。帰宅途中の人々が足を止め、駅前ビル周囲に人垣が出来ている。
その野次馬達を掻き分け掻き分け駅前周辺から逃げ出してきた澄雨姉弟は、プラットホーム沿いの緩やかな上り坂をのろのろと進んでいた。
幻視の通り事故――エレベーター落下事故――は起きたが、死傷者はひとりもでなかった。けれど、人知れず買物客の命を救った功績や辺りの騒がしさとは反比例して、澄雨の心は空っぽだった。もう何も、考えたくない。
落ちて壊れたエレベーターと同じように、自分を支えていた何か――あるいは心の外側を鎧っていた何かが、一緒にへしゃげてしまったような気さえする。
澄雨は剥き出しになった心を抱えたまま、実際のところ幹也の手を引くというより、幹也に手を引かれてどうにか歩いていたのである。
ちなみに幹也は六階エレベーター前で放心状態だった姉を探しに、非常階段をひたすら上がって来てくれたのだ。そんなよれよれになっている姉を気遣い、懸命に引っ張ってくれる弟の気持ちはありがたいが、澄雨は少しも元気が出ない。
――なんでだろう、赤猫さんに勝ったのに。たくさんの人の命を助けたのに。
もちろん澄雨だけの力ではない。幹也はその目で、美緒は占いで、亡き父親でさえも血の池地獄から母親に警告し続けていたのだ。結果的に総力戦の勝利だった。
騒ぎのせいで半額ケーキを買い損なったことを思い出しつつ、いつもの車椅子専用スロープまでやってきた時、幹也が金網に張り付いてしまった。
早く帰ろうと告げる気力さえ沸かなくて、澄雨も金網にぎしりと寄り掛かる。そこは赤猫がいつも凭れていて、駅のホームが一望出来る場所だった。
エレベーターは赤猫を乗せたまま落ちたけれど、この世の存在ではない彼が死ぬはずはない。けれど、仕事が終わって赤猫は去った。このスロープに来ることは二度とない。少なくとも、澄雨ひとりでは見ることさえも――。
「あっ!」
声を出すこと自体非常に珍しい弟に、澄雨は顔を上げた。電車が来たのか?
しかし、耳を澄ませても踏切の警報も地鳴りもしない。
青い手袋をした弟の指は、白っぽい雪雲に覆われた夜空の底を指していた。澄雨もつられて空を見上げるが、せいぜい高度の低い飛行機が飛んで……いや、何かが翔けている。それは四角を核にして光って……ではなく燃え盛っていた。
――しん、と静まり返った夜空の彼方。トゥインクル、トゥインクル。
いつか読み損なった絵本の冒頭が、澄雨の頭に浮かぶ。
天上を行くのはサンタクロースにあらず、地獄の業火を両輪に宿した牛車だ。
二本の長柄を引くのはトナカイならぬ真っ赤な化け猫で、その荷もプレゼントなどではない。かつては父が、今度は自分の魂が乗せられる予定だったはずで――空を翔けるのは硫黄の息を吐く地獄の住人、妖怪火車だった。
弟の隣で金網にしがみ付き、炎を噴き出す牛車を食い入るように見詰めた。
「――どっ、どうして私を助けてくれたのっ?」
澄雨の叫びに答えるように、雪に紛れて想いが降ってくる。
澄雨に触れて、意味をなす。
『僕と一緒に来る気のない君が命を落としたら管轄外になる。それだけは我慢できないからね』
「相変わらず、身勝手な言い草ですね!」
『君には長生きして、飛び切り悪い女になって死んで欲しいな。そうしたらまた、僕が迎えに来られるから』
いつも通りの憎まれ口を聞くと、澄雨は妙に安心した。もう会えないとしても。
「死ぬまで品行方正に生きてやるんだから。赤猫さんなんて知りません!」
『君は酷いな。酷く……可愛いよ。まったく』
情けない声を出して夜空を翔け去る赤猫に、幹也が手を振っていた。
それは嫌悪のお手振りではなく、すべての車掌に捧げる親愛のお手振りだった。
だが、真っ赤な化け猫は、決して幹也に手を振り返そうとはしない。これが最後の嫌がらせとばかりに、二人の間で静かなる攻防が繰り広げられていたことを、澄雨は知らなかった。幹也は腹いせのように姉の手を引っ張り、
「お姉ちゃん、早く帰ろ」
「うん、お母さんが帰ってきたら大目玉だよ……って、みーたん喋ってる!?」
幹也がまともに会話をしたのは、これが初めてだった。
思わず澄雨がぎゅぎゅっと幹也を抱き竦めると、苦しがってもがく。
そして、火車が彼方へ飛び去り雪の一粒に過ぎなくなっても、二人はしばらくの間、専用スロープから離れずに夜空を見上げていた。




