18.本当の気持ち
※残虐な表現や性的に感じられる箇所があります。苦手な方はご注意下さい。
無情にも、エレベーターはすぐに上昇を始める。
「あああっ、ウソウソッ!」
買物客達のパニックが遅れて乗り移ったように、澄雨は操作盤のボタンを滅茶苦茶に押しまくった。しかし、上の階をあっさり通過した暴走エレベーターは、さらに上昇し続ける。非常用の呼び出しボタンも通じない。
「無駄だよ。君ひとりぐらい閉じ込めるだけのシノニオイは残っていたらしい」
背後からは事実のみを告げるような淡々とした赤猫の声。
「君は酷い子だ。見えないだろうけど、集まってきていた同業者達が、悪態を付きながら退散しているよ。人が大勢、死に損なったから」
「いっ、いい気味だわっ!」
――どうしよう、幹也がまだ地下に残ってるのに。本当に連れてくるんじゃなかった! 幹也に何かあったら、お母さんが泣いちゃう! っていうかその前に、私が死んじゃう。歯の根も合わない、膝も震えている。自発的に死のうと思ったことなど一度もないが、自分は思ったよりも往生際が悪いらしい。
「僕のために、残ってくれたんだね」
それだけは、絶対に違う! そんなつもりなんて、これっぽっちもなかった!
「何も怖いことなんてないよ――」
赤猫はうっとりしたような声で、後ろから澄雨を抱き竦める。
澄雨はうなじに、硫黄の匂いのする熱い吐息がふいごのような勢いで吹き付けられるのを感じた。背筋がゾクゾクと震える。
「痛いなんて思う間もない。ああ、君を乗せて車を曳けるなんて、夢みたいだ」
「…………」
「それとも、僕と一緒に行くのがそんなに嫌なのかい?」
自分を抱くスーツの袖が、みるみるうちにごわごわした赤毛の生えたごつい獣の腕に変化するのを目の当たりにし、澄雨は一瞬息を詰める。
けれど不思議と、怖いとか気味が悪いなどとは思わなかった。ただ、赤い皮毛が炎のように綺麗だと思った。そんな澄雨の口をついて出たのは、
「何でもっと早く……出会ったあの時に、私を連れて行ってくれなかったの?」
「……それはどういうことだい?」
言ってしまえ、恥ずかしい私。いまさら隠してどうなる?
「あの時……火葬場のロビーで出会ったあの瞬間だったら、心の真っ黒な私が好きだと言ってくれた赤猫さんに、ノコノコついて行ったよ。でも私はもう、新品のセーラー服を着ていた心細げな女の子じゃない……」
私には支えなきゃならない、守らなきゃならない連中がうぞうぞいるんだから――言いながら澄雨は泣いていた。赤猫と初めて出会った中学生の時のように。化け猫の腕が、フィルムの逆回転のように元のスーツの袖に戻る。
「……そうか、遅過ぎたのは僕の方か」
あの時の君は、確かに僕のものだったのに――赤猫は独りごちた。
赤猫はまだ認めたくないという表情のまま僅かに首を振り、澄雨の薄い肩に初めて触れるようにおずおずと手を掛け、正面に向き直させる。
「ねぇ、気になっていたんだけど、ひとつ聞いていいかい?」
「……何を?」
「君らの婚姻可能年齢って、確か十六歳だったよね。昔も今も」
少し考えてから、澄雨は首を横に振る。
「え、違った?」
「最近、民法が改正されて、婚姻可能年齢は十八歳に引き上げされたの」
十六歳は社会的には子供扱いだけど、私のおさんどん生活は大人と同じだけどね、と澄雨は続けた。
「あちゃー。僕はてっきり……」
「てっきり?」
「僕は十六歳になったら、大人になった君を浚っていいものだと思っていたよ」
社会的には二年早いし本質的には遅過ぎたねぇと、澄雨のおでこに額をくっ付け、赤猫は溜め息を付いた。
そして、まだしゃくり上げている澄雨の真っ赤な耳に、そっと唇を寄せ、
「そういえば、この間は悪かったね。君はどんなのがいい?」
「どっ、どんなのって……ふっ、普通の……じゃなくて、何言わせん」
それは、唇が離れてから勘違いだったかなと思うほどの、淡い淡い口付けだった。目を閉じる余裕もなかった澄雨に、
「でも僕は、君に会う口実が欲しかっただけなのかもしれない――じゃあ、ね」
一瞬のことだった。あれだけ叩いても反応しなかったエレベーターの扉が突然開き、澄雨は背中から外へ転がり出ていたのである。
そこは六階、次は最上階の屋上だった。
なおも上昇するエレベーターのランプを、澄雨は立ち上がって呆然と見上げた。
赤猫がなぜか、自分をエレベーターの外に押し出したのだ。そうでなければ、いまも赤猫と一緒にエレベーターに閉じ込められているはずだった。
澄雨が見ている前で、急にランプが一斉に点灯し、消えた。
次いでキリキリと、限界まで引っ張られた何かが引き千切れる音が、エレベーターの扉の向こうから聞こえた。一瞬、澄雨の心臓が捻り上げられたように痛んだのち、扉の向こうを何かが通り過ぎていくのが分かった。上から下に向かって。
すぐに腹の底にどんとくる、ビル中を揺るがす重低音が響き渡った。
「いや……赤猫さんがまだ乗って……」
澄雨は悲鳴にならない声を上げ、六階エレベーターホールの床に崩れ落ちる。




