17.父親の声
地下のエレベーターホールで、澄雨は立ち姿も様になる赤猫を睨み付けた。
「待ちくたびれたって、どういうことよっ!」
幹也は最初から気付いていたのだ。このビルに入ってきた時から、エレベーターに反応していたではないか。完全に自分の読み間違えだと、澄雨は下唇を噛む。
だがそんな不穏な空気の二人にかまうことなく、買物を終えた客達は我先にと争うようにエレベーターへ乗り込んでいく。隣に小さなサイズのエレベーターがあるが、そちらは途中の階で止まっていた。いつもの通りのおかしさだ。
「力のある、良い目だね」
しばらく澄雨を眺めてから、赤猫は仕留めた獲物に満足している狩人みたいな口調で言った。
「だけど、どうして僕を犯罪者みたいな目で睨むんだい? 確かに人ではないが」
「赤猫さんは、みんなが死んじゃうのを、傍で黙って見てるだけじゃないっ!」
「だって、それが僕の仕事だからね」
しれっと答える赤猫を見て、澄雨は頭を振った。分かっている、この男とは住む世界が違うのだ。抱き締めて優しい言葉を掛けてくれても、すこぶる顔が良くても人ではない。硫黄の息を吐く地獄の住人、化け猫火車なのだ。
「大人しくついてくる気はなさそうだね。なら、なんのためにここに来たの?」
「わっ、私は人間だし! 人間だったら、人間同士助け合うしっ! 事故が起こるって分かっていたら、助けないわけないじゃないっ!」
声を震わせて叫ぶ澄雨を、赤猫は腕を組んだまませせら笑った。
「君らをクリスマスの夜に徘徊する哀れな子供だと思いつつも、平気でエレベーターから追い立てる彼らを助ける? 君が懸命に訴えても誰一人耳を貸そうとしない。無視されるか、警備員でも呼ばれるのが関の山なのに?」
「なんでそうネガティブに取るかなっ!」
澄雨は怒鳴りながら、赤猫の背後で扉が開いたままのエレベーターに気付く。『閉まる』ボタンを押せばいいのに、みな表情がうつろで突っ立ったままだ。
――なんで? しかもこの臭いって!
そしてエレベーター内部から、強い硫黄の臭気が漂ってくる。なぜかそれが、硫黄の臭いが自分にまとわりつくような気さえするのだ。
「そう、これがシノニオイだよ」
赤猫が澄雨の背後へ視線を飛ばす。
「君の弟はとても利口だ。僕の間合い――香りの届く範囲には決して入らない」
澄雨が振り返ると、幹也が必死に手を振っていた。謎のお手ふりパワーで、シノニオイを追い払えると信じているのだ。
「だけど、君の中には僕がシノニオイをたっぷり吹き込んでおいたから――おいで、澄雨」
「い、いったい、わたしに、なっ」
赤猫の目が縦の金の虹彩に輝く。怒鳴り飛ばそうにも舌が回らず、頭の芯が痺れて考えも纏まらない。抵抗する意識とは裏腹に、澄雨は赤猫の手を取っていた。
そしてこの過積載状態のエレベーターに、二人してすっぽり納まってしまう。
――この先、どうなるんだろう。
澄雨はぼんやりする頭で懸命に考える。
買物を終えた客達でぎっしりのエレベーター。途中で変な揺れ方をしたり、ボタンを押してもなかなか降りてこなかったり――。
「お父さんに会わせてあげるよ」
誰かが押していた『開く』ボタンが離されて、扉が閉まろうとした瞬間だった。
いつかの夏の日に、幹也と食べたかき氷の冷たさが頭にキーンと突き刺さるような痛みと共に、ひとつのメッセージが捻り込まれる。
『澄雨、しっかりしなさい!』
父親の声だった。ただ一度きりの。
あの日、父親が一年の療養を経て、初めて職業安定所に向かって家を出た日。
ようやくこれで普通の家族に戻れると、満面の笑みで死出の旅路へ送り出してしまった自分が、父親の声を聞き間違えるはずはなかった。
澄雨は頭の痛みを堪えながら、締まり掛けた扉にガッと肩を割り込ませる。
どうしたら、買物客達を正気に戻せるだろうか。全員にビンタして回るわけにもいかず、正直に死神が狙っていると言っても誰も信じない。自分の身に直接降り掛かる、生理的に受け付けたくないような内容は――。
「そっ、そうだっ!」
「いったいどうしたんだい、澄雨?」
にわかにシノニオイの呪縛から脱した澄雨に驚いたのか、赤猫が慌てて顔を覗き込む。その端正な甘いマスクを指差し、澄雨は大声で叫んだ。
「この人、変質者ですっ! 包丁を隠し持ってます! 脅されてエッチなことされそうに……ってか、ぶっちゃけされたっ、ファーストキスだったのに、酷いっ!」
「……変質者って、僕のことかい?」
けれど、これだけの人数がいても場が凍り付くような静けさである。
効果がないのかと諦め掛けた時、いつの間にか姿の見えなかった幹也が、アルバイトらしい若い店員を引っ張ってきた。
その店員にはシノニオイの効果が薄いようで、訝しげにこちらを見ている。
「ボク、どうしたの? 迷子?」
次の瞬間、凍り付いていた空気が床に落ちて粉々に砕けた。
買物客達が、我先にエレベーターの外へと逃げ出し始めたのだ。”刃物を持つ変質者”というパワーワードが、ようやく心に染みてきたらしい。
「ちょっと、さっさとどいてっ!」
「押さないでよっ! 誰か、助けてっ!」
誰も『開く』ボタンを押さないので何度も締まり掛ける扉に、買物客達がパニックムービーさながらに体当たりし続けている。
「なんてことだ……シノニオイが霧散してしまった。親子共々やってくれるね」
人波から逃れるためとっさに澄雨の腕を引きエレベーターの隅に逃げていた赤猫は、いつものスタイルを崩して頭を掻いている。なおも出ようとする買物客達にぐいぐい身体を押されながら、澄雨はほくそ笑んだ。
――カードを『引っ繰り返して』やった。
いつかの保健室で、拾ったタロットカードを誤って逆向きで置いてしまった時、
『逆さまだったら意味が引っ繰り返るカードがあるのよ、どのカードもってわけじゃないんだけどね。ちなみに死神の逆位置は、再生とか挫折から立ち直るとか』
最低最悪の死神のカードも、引っ繰り返せば良い意味になるという。ならば縁起の悪い事故の幻視も、他人を助けるチャンスが出来たと思えばいいのだ。そして予言の邪魔をした結果シノニオイは散り、誰も死なずに済んだ。
買物客達がみな逃げ去り、エレベーターには澄雨と赤猫以外は乗っていなかった。自分達は勝ったのだと、澄雨は確信する。
「手ぶらで地獄に帰ってね、赤猫さん……」
だが寂しげな赤猫を残して降りることに一瞬だけ、躊躇してしまった。
本当にコンマ一秒以下。けれど、それが命取りだった。
降りようとした澄雨の目と鼻の先で、扉が無情にも音を立てて閉まった。当たり前といえば当たり前だが、誰も『開ける』ボタンを押していないからである。




