16.赤猫を探せ
「みーたんは危ないから、お家に帰りなさい!」
ダッフルコートで着膨れる弟の手を引いた澄雨は、傘に積もる湿った雪を振り落としながら駅のホームに近接した歩道を下っていた。
目と鼻の先、スーパーの入った駅前ビルからはベッドタウンながら二十時でも灯りが漏れ、今夜限りと思うと妙に感慨深いクリスマスソングが流れてくる。歩道ですれ違う人はみな、ケーキの箱や買い物袋を下げていて足早だ。
そう、今日はクリスマスの夜だった。
昼頃から降り始めた雪が、いつか見た幻のように積もりだしていた。
長靴でシャーベット状の雪を踏み付けている幹也は、いつになくご機嫌だ。それとは対照的に、白い息を吐く澄雨の表情は硬い。
幹也を寝かし付けてからこっそり家を出ようとしたのに、気付かれてしまった。
「おうちの鍵を開けられるんでしょ? 戻ってお留守番しててよ、みーたん」
澄雨がコートのポケットから鍵を摘み出すが、幹也は何もかも分かっている、俺がいないと困るんだろ? とばかりに妙に大人びた風に肩を竦めて見せるのだ。
弟よ、そんな仕草どこで覚えた。奴か、あの男のせいなのか。
澄雨はため息をつき、鍵をポケットに戻す。押し問答をしていて事故に間に合わなければ本末転倒だし、また自分だけで赤猫を探し出せるという確証もない。
幻を見させられた日以降も毎日、幹也と一緒に車椅子専用スロープへ通っていたが、赤猫にはとうとう出会えずじまいだった。
――幹也が反応しないのは、もうあそこには赤猫さんがいないってこと?
獲るもの――自殺者の魂――獲ったら『はい、さようなら』かと内心悪態をつきながら、澄雨はすっかり葉の落ちた欅の立つ駅前広場のファーストフード店、そしてスーパーとは別系列のケーキ屋を横目で眺めながら通り過ぎる。
クリスマスケーキの箱が高々と積み上げられた店舗の前では、ミニスカサンタ姿の女子高生アルバイトが、半ば喧嘩腰で半額ですよと叫んでいた。帰りに買って帰ろうと思いながら傘を畳み、スーパーのあるビルに入る。すぐさまエレベーターホールへ直行しようとする幹也を、澄雨は首根っこを引っ掴んで捕まえた。
「みーたん駄目だよっ、買い物でも遊びに来たわけでもないんだからねっ!」
現時点で二十時。二十一時になると地下の食料品売り場以外は閉まって、それ以外の客は締め出されてしまうのだ。
事件が起こる前に、効率良く赤猫の姿を探し出さなければならなかった。
――とにかく、赤猫さんを見付けなきゃ。
あの男は、何かが起こる現場にいるはずだ。専用スロープで澄雨をからかいながら、シノニオイに惹かれる誰かを待っていたように。
「みーたんは私の『目』なんだから。留守番しない以上は、しっかり働いてよ」
昇降ボタンに未練たっぷりの幹也は、決意に燃える姉を困り顔で見上げていた。
* * *
とりあえず、エスカレーターを使って地下食料品売り場に降り、そこから一階衣料品売り場、二階の百円ショップと本屋とゲームセンターからテナントの入った三階へ上がり、さらに非常階段で四階から七階屋上までの駐車場を片っ端から調べて回ることにする。
エレベーターを使わないのは、人目を避けるためと待ち時間が惜しいからだ。
幹也が反応した場所がすなわち事故予定現場、という読み……なのだが。
「えー、こっち? どこどこっ?」
最初に地下食料品売り場へ手を引かれて行けば、半額セールの平台の前だった。
平台には商品入れ替えのために撤去された商品が積まれていて、幹也は五体合体で変形する玩具付き菓子を四体まで探し出し、それらを抱えて澄雨を見上げる。
「お菓子なんか買わないし……っていうか、合体させるにも一個足りないよ」
そして次に一階衣料品売り場へ上がってくると、エスカレーター付近で群れをなすのはカプセルトイの自販機である。コートの端をツンツン引っ張られるが、
「いや、お姉ちゃん小銭持ってないから」
それ以降、二階の本屋では絵本を三冊読み倒し、同階ですでに営業を終えたゲームセンターの、天井から吊り下げられ下部で固定された防犯用の網にしがみ付き、クレーンゲームでお菓子の詰合わせを取ってくれとつぶらな瞳で訴えてくる。
「やっぱ五歳児には無理だったか」
百円ショップでなぜかお絵描き帳を買わされながら、澄雨は呟いた。幹也が自分の意図を察しているように思えたのだけれど、どうやら気のせいだったらしい。
だが、時間は無常にも過ぎて行く。疲れて愚図り始めた幹也を背負い、澄雨は暗くて湿った雪の吹き込む駐車場を見て回った。車上荒しと思われたのか買物客達からは不審な眼差しを、すれ違う警備員達からは事務所につれて行かれそうな雰囲気を感じ、澄雨は内心気が気でない。そしてついに、恐れていた事態が起きた。
「ちょっ、みーたんってば、しっかりしてよ!」
幹也が急に重たくなったと思ったら、背中で眠ってしまったのだ。
それもそのはず、幹也は二十時半寝かし付けが基本だからである。右へ左へと重たい頭がずり落ちそうになる幹也を背負い直しながら、
「だから連れてきたくなかったのにっ!」
澄雨はだだっ広い駐車場でひとり叫んだ。
これでは赤猫探知機どころか、文字通りただのお荷物だ。時間はすでに二十一時、地下食料品売り場以外はシャッターが下りて客が閉め出される時間帯である。
エレベーターに乗った澄雨は、とりあえず人のいる地下食料品売り場まで移動することにした。背中に背負った弟は、すっかり夢の住人である。
――最初から、考え直してみなきゃ。
澄雨は降下するエレベーターの壁に、疲れた身体の側面と頭を凭せ掛ける。
ある程度の人数が一斉に危険な目に会うのだ。クリスマスの夜、家で家族と祝うか恋人とラブラブに過ごすか、仲間内で楽しくパーティか。あるいはため息交じりで仕事に勤しむぐらいの選択肢しかない。この時間まで事故が起こらないとすると、人が残っている場所は地下の食料品売り場しかなかった。
スーパー裏の調理場で火事や、ガス爆発事故でも起きるというのだろうか。
「え?」
ふいに、エレベーターの箱の外からガリガリと嫌な振動がして、澄雨の思考が妨げられる。だがすぐに収まった。胸を撫で下ろしつつ、澄雨は気付く。
徒歩の客なら、地下の食料品売り場にはエスカレーターで出入りできる。だが、近辺で深夜まで営業しているスーパーはここだけなので車で来る客も多い。エスカレーターはテナントの入っている三階までしか無く、車の買物客達は駐車場のある四階以上と地下の食料品売り場を、エレベーターのみを使って移動するのだ。
「四階以上の駐車場まで行くのに、非常階段は使わない」
――エスカレーターを使えなくなった買い物客達が向かう先と言えば。
ちょうど地下に着いたエレベーターがゆっくりと扉を開く。
エレベーターホールの前には結構な人だかりが出来ていて、どの買物客達もイライラしたように顔を顰め、さっさと出ろとばかりに澄雨達を睨み付けていた。
追い立てられるようにホールへ出ると、寝ていたはずの幹也が背から滑り降りる。そして人波の向こうに向かって激しく手を降り始めた。
それはまるで、動画の三倍速視聴に似ていて――。
「待ちくたびれたよ、澄雨」
小さな青い手袋が振られる延長線上で、派手な深緋色のスーツ姿の男が微笑んで立っていた。




