14.お母さんには言えない②
※残虐な表現や性的に感じられる箇所があります。苦手な方はご注意下さい。
「……確かにあの時、私は赤猫さんの誘いに応じた。そして赤猫さんが迎えに来てくれるまで頑張ろうって思って、実際に頑張ってきた」
すべてを断ち切るように首を振る。
「でも、赤猫さんと一緒には行けないよ」
「何故?」
赤猫の手は、そのまま空しく宙に浮く。
「だって、私が急にいなくなったら家庭崩壊しちゃうもん。私はもう、母親業の代行っていう家庭の役割に組み込まれているから」
「君は役割と心中するつもりかい?」
「違う、必要とされてるってことだよ」
「現世にどんな未練があるっていうの。君が頑張ればお父さんは甦るかい? 君が良くやってるからもう莫大な損害賠償は払わないでいいなんて、どこかのお金持ちが言ってくれると思うかい?」
「そんな、都合の良い奇跡は信じてない」
澄雨はこぶしを握り締めて叫んだ。
「でも、お父さんが死んでヤケになってたあの時とは、もう違うのっ!」
大げさな身振りで天を仰いだ赤猫は、盛大なため息を付く。
「けなげな娘を演じていたはずが、本当にけなげな娘になってしまったとか?」
澄雨は答えなかった。おさんどん女子高生という、いまの姿が澄雨のすべてなのだ。始まりやその過程は、もはや重要ではない。
「君のその慎ましやかな胸の奥に、ネガティブな感情がひとかけらも残ってないと言い切れるかい?」
「それは……」
心の底から時々浮き上がる黒い泡。閉じ込めても閉じ込めても、浮き上がって表層にわだかまる。澄雨の顔に苦悶の色が表れた。
澄雨の変化を見ていた赤猫は、
「ふむ。ひとつ賭けをしよう、澄雨」
「かっ、賭けって?」
「あそこのスーパーの入っている駅前ビルで、クリスマスの晩に事故が起きる。大勢の人が死ぬけれど、僕と一緒に来る気があるなら君もおいで」
――苦しまずに死ねるだろうからと、赤猫は続けた。
まだ炯炯とネオンサインが輝くビルに、澄雨は思わず目を向ける。地下のスーパーは夜の一時まで営業だった。
「そっ、そんなの信じられない!」
澄雨の困惑などどこ吹く風とばかりに、赤猫は辺りをフンフン嗅いで見せ、
「君には分からないのかい。シノニオイが集まって、鼻を突くような強烈な臭いになっている。これだけ臭えば、鼻の利かない我が同胞達も集まり始めるだろうね。そうだ、いまの君ならもう少しだけ、シノニオイを足してやれば――」
「えっ? ちっ、ちょっ? や」
いきなり間合いに入られたと思いきや、背を金網に押し付けられて口を塞がれる。三年前の額へのキスとは違い、澄雨の何もかも、魂までも奪い去るような口付けだった。口から吹き込まれる”よくないもの”に、溺れるように気が遠くなる――
「意識を保って、ちゃんと”視て”ごらん」
みる? 目と鼻の先の、笑いながら人の生死を翻弄するこの男の顔を?
と、次の瞬間、脳髄に焼けた鉄槌を差し込まれるような激しい痛みを伴う幻影を、澄雨は確かに視た。
――小雪のちらつく夜空に黒煙を上げているのは、スーパーの入った駅前ビルだ。ロータリーにはたくさんの消防車が並び、点滅する回転灯は辺りの色彩を黒と赤に切り替える。駅から出てきた人達が大勢群がり、消防士に肩を借りた買物客が続々と助け出されるのを見守っている。片っ端から救急車で搬送されてはいるが怪我人が多過ぎて間に合わず、駅前広場に敷かれたビニールシートのあちこちには並べられたり座り込んだりした人達は黒い煙と、血に塗れ――。
激しい頭痛に顔を歪める澄雨の耳に、甘い毒のような優しい声が注ぎ込まれる。
「これが、僕の視ている未来。やがて起こる出来事……ああ、邪魔が入った」
君のお父さんも中々やるねと口惜しそうな声を最後に、澄雨の意識がつかの間途切れる。
* * *
「――ちょっと澄雨? 澄雨ってば!」
肩を揺すられ正気付いた澄雨の目の前にいたのは、あの失礼な泥棒猫ではなかった。見覚えのあるハーフコート。自分によく似た顔へ念入りに施されているのは、未開の部族の戦闘準備のような濃い目の化粧で――。
「お、お帰りなさい、お母さん」
「お帰りじゃないでしょ。なんでこんな時間に、こんな場所でぼーっとして」
母親の腕時計を覗けば二十時、まだ母親が帰宅する時間ではなかった。赤猫の姿はすでになく、スロープには母娘の影しかない。
「どっか悪いんじゃないの? 大丈夫?」
「だっ、大丈夫だよ。ちょっと眠気が」
ナルコレプシーとかあるから、病院に行った方がいいわよと母親は言ってから、
「なんか今日は朝からおかしかったのよ。ケータイは壊れるし、ヒールの踵は取れるし、挙句に取引先の人が高熱出してぶっ倒れて打ち合わせがおじゃん。あー電車止まってたんだって? 私が帰ってくる時は普通に動いてたけど」
「そっ、そうなんだ」
なぜか、母親の顔をまともに見られなかった。
頭だけでなく身体中が熱くて、腫れ上がって爛れているような気がした。
まだ身体の中に残っている、シノニオイとやらの影響だろうか。喋り続ける母親の隣を、澄雨はただ頷きながら黙って歩いた。




