13.お母さんには言えない①
走って走って、澄雨は車椅子専用スロープに辿り着いた。肩で息する澄雨の髪は、小雨でじっとり濡れている。何も考えずに家を出てきた。コートを着たままでいて良かったと思いつつ目を眇めると、スロープに人影がある。
「……赤猫さん」
自宅のソファーで寝苦しくて目覚めた時、眠りこけた弟が胸の上に乗っていて、付けっ放しのテレビから最寄駅で飛込み自殺があったというニュースが流れていた。歩道で気を失った自分を、誰かが家まで運んでくれたのだ。
「助けてくれて、ありがとう」
赤猫はスロープの金網に背を預け腕を組んだままで、何も言わなかった。なぜか、少しも雨に濡れているようには見えない。
「誰かが電車に飛び込んだんでしょ。どうして、事故が起こるって分かったの?」
鳴り止まない警報は、ホーム内で何らかの問題が発生して電車が入り切ることが出来ずに、近くの踏切の辺りまで車両が残っていることを意味する。父親の事故のニュースの時もそうだったのを、澄雨はまだ覚えていた。
赤猫はまだ電車が来ていない段階で、澄雨に去れと言ったのだ。誰かが飛び込む前にその労しい死を察知していたことになる。
赤猫は造作もないとばかりに肩を竦め、
「シノニオイが濃くなるから、それで時期と場所は掴める。シノニオイに誘われて、心の弱った人間共が寄ってくるんだ。僕達にはそういう場所が分かるんだよ」
だから、ホームが一望出来る車椅子専用スロープでずっと見張っていたのだ。
夢の扉を掻い潜り、心の奥底から黒い泡を撒き散らしながら、赤猫との出会いの記憶が甦る。三年前、恐らくは父親が駅のホームで飛び込んだ瞬間も、傍らで黙って見ていたに違いない。
――お父さんの魂を持って帰るために。
澄雨は奥歯を噛み締めた。もちろん赤猫が父親に悪意を持っていたわけではなく、火車とはそういう存在だと分かってはいる。
それでも澄雨は、言葉にならない憤りを必死で押さえ込んだ。
「赤猫さんは……あの時の火車なのね」
「ようやく僕のことを思い出してくれたのかい、物忘れ姫。再会の熱い抱擁は期待しても良いのかな?」
「そっ、そんなのするわけないでしょっ!」
「大人の君はつれないねぇ」
赤猫の嘆きなど一切無視して、
「教えて。なんでみんなには赤猫さんが見えないの? どうして私は赤猫さんのことを忘れてしまったの? ほんの三年前のことなのに」
「僕はこの世の存在ではないから、人の記憶に残り辛いんだ。見えないというより目に映っても気にならない仕様になっているのさ。でも特定の人間には分かる」
例えば君の弟とか――そう赤猫が呟く。
「みっ、みーたんが? どうして?」
「幼い彼は穢れなき瞳で僕を見付けてしまう。もっとも、人と関わりを持つまでのわずかな期間ではあるけれど。こういう子供は意外に多いよ」
だから幹也が赤猫を見付け初めて澄雨が気付くが、通行人には分からないのだ。
「僕から離れれば、君は自然に僕のことを忘れてしまうのさ。なかなかどうして、切ない存在だと思わないかい?」
澄雨は、はっと息を飲んだ。
「ちょっと待って。みーたんを連れていない私が、赤猫さんに話し掛けてるって」
「そうだね、よくひとりで僕を見付けられたものだと、正直驚いているよ」
それは少なからず、君が異界に片足を突っ込んでいるからだと、赤猫は意地の悪い笑みを浮かべた。君からもシノニオイがする、と。
「どっ、どういうこと? 出会った時には、ニオイがしないって言ってたのに」
「僕はシノニオイの濃い場所にいる。僕と触れ合うたびに、君は少しずつこちら側に引き寄せられているんだよ。幹也君は子供なりに僕を追い払おうと、いろいろ頑張っていたようだけどね」
「…………そんな」
「そうそう、お父さんは君の危機を知らせるために、家族へメッセージを送っていたんだよ。でも、誰とも波長が合わなくて――」
そう言って、赤猫は笑いを噛み殺した。伸びた犬歯が、口の端から僅かに覗く。
父親のメッセージとは母親が見ていた血の池地獄の夢であり、澄雨が挿絵で見た火車の幻のことなのだろうか。美緒のタロットに現れていたという死神は、赤猫の存在そのものを指し示していたのかもしれない。
幹也や美緒、父親までもが自分の危機を知らせるため、あるいは危機を退けるために何らかのアクションを起こしていたのだ。
――でも、私は全然気付かなかった。
澄雨はまつげに溜まる雨粒を拭う振りをして、口惜しさの涙を手の甲で拭った。
「で、僕が何をしに来たか思い出したかい? 自殺者の魂を狩ったのはついでさ」
一緒に行こうと、澄雨へ手を差し伸べる。
人より温度の高い温かな胸へと、硫黄の香りが誘うよう。
澄雨はつかの間、目を閉じた。




