10.君よりも、知ってる
※残虐な表現や性的に感じられる箇所があります。苦手な方はご注意下さい。
台所の鍋の中には煮崩れた肉ジャガが残っているばかりで、クリスマスまであと四日と迫った十二月も第三週となっていた。重く厚い雲で覆われた空は夕暮れを早め、まるで自分の心を反映しているみたいと澄雨はごちる。
例によって、車椅子専用スロープにふらっと姿を現したところを、幹也の激烈なお手ふりでもって迎え入れられた赤猫は、
「イライラしているね、澄雨。テストも終って、気分爽快だと思うんだけど?」
誰のせいですかと、澄雨はこめかみに青筋が浮きそうになるのを堪える。
「眠りが浅くて、睡眠不足なんですっ!」
そう無難に答えておいたが、澄雨はまったく別の事柄に気を取られていた。
先ほどから歩道や車道の様子を観察していたが、やはり自分達を気に止める通行人はいない。まるでこのスロープごと、世界から切り離されてしまったように。
よく考えるまでもなく、赤猫は最初からなにもかも怪しい。父親の葬儀に来たことしか分からず、赤猫という名前自体も偽名かも知れないのだ。澄雨の疑惑はいやが上にも増すが、自分達以外の誰かに赤猫の姿が見えているのかどうか、家でも学校でも気になって仕方がないなんて言えるわけがなかった。
――私ってば、どうしちゃったんだろ。
幹也の隣で金網に凭れて電車を待ちながら、澄雨は溜め息をついた。
この男がスロープに姿を現してから、自分の生活リズムが乱されまくりだ。悶々と悩んでいるなんて自分らしくない。思い切って、全部ぶちまけてしまおうか。
どうして友達に赤猫さんの姿が見えないんですか。
なんの目的で、ずっとここにいるんですか。
赤猫さんは、いったい何者なんですか――――。
しかし、澄雨のぶっちゃけは不発に終わる。
赤猫の方が先に、口を開いたからだ。
「お父さんの、夢かい?」
突然言われ、思わず夢想も吹っ飛ぶ。その問いは睡眠不足……の続きだと気付く。けれど赤猫が知るはずもない、美緒にだって話したことのない親子の会話だ。きっとかまをかけているに違いない、本当に嫌な男だ。
「ちっ、違います。三年も前のことだし」
でも、声に動揺が滲んでしまった。母親の夢に現れたという、血の池地獄で浮き沈みしている父親。妖怪大図鑑の挿絵で、燃え尽きることのない暗い地獄の業火を纏った牛車に乗せられた父親の幻――。どちらも、何かを叫んでいる。
葬式も済んだお墓も建てた、三回忌もすでに終わっているのだ。この期に及んで、まだ供養が足りないとでもいうのだろうか。
それまで腕を組んで様子を伺っていた赤猫が、澄雨に向かって両腕を広げる。
「顔色が真っ青だよ。こちらにおいで」
「だからっ、赤猫さんは知人の娘の女子高生をからかって、どうしようっていうんですかっ! もう行きますっ! 夕飯の買い物がっ」
澄雨が喚き終わる前に、温かな何かにすっぽり包まれていた。
まるでインフルエンザの幹也を背負って病院に駆け込んだ時みたいにホカホカだ。毛を逆立てた子猫を宥めるように、背をゆっくりと擦られる。一瞬ぼおっとしてしまい、意識を混濁させる澄雨の鼻先に香るのは、温泉に似た匂いで――。
「やっ、やめて下さ……!」
澄雨は赤猫の腕の中でもがいた。自分は何をされているのか。公衆の面前、しかもホームからも歩道を歩く通行人からも丸見え――見えるのならば――である。
おまけに弟の目の前でもあり、教育上大変宜しくない。
案の定、幹也は難しい顔で見上げている。
「澄雨。思い詰めないで言ってごらん。話せば楽になるかもしれないよ」
だが、温かな腕から無理矢理自身を引き剥がした澄雨は、息を荒げて金網に背を押し付ける。背中でぎしりと金網がたわんだ。
「優しい言葉なんて掛けないで下さいっ! 赤猫さんは私をからかってばかりだし、私は赤猫さんの顔だって覚えていないのにっ!」
「一目惚れじゃ、駄目かい?」
「私のことよく知りもしないくせにっ!」
「知ってるよ」
「え?」
「君よりもよく、分かってる」
赤猫の端正な顔をまじまじと見ると、口元は笑みを絶やさないのに涼しげな目元が少しも笑っていなかった。駅のホームの灯りを反射し、縦長に光って見える虹彩。そして空気の匂いを嗅ぐように、若干顔を仰向かせている。
澄雨の凝視に気付いた赤猫は、なぜか居心地悪そうに顔を背け、
「君ら姉弟の居場所を奪って悪かった。そろそろ、ここを離れられると思う」
「どっ、どういうことですかっ?」
「欲しい物が、手に入りそうだからね」
いつになく鋭い眼差しでホームを見据えている。そこにはまばらな乗客達が電車を待っているばかりだが、一体なにが気になるというのか。
その時、どん、と大容量の空気が動いた。
踏切の警報はまだ鳴らないが、澄雨はその道――お手ふり道を極めんとする幼児の保護者――の専門家なので電車が線路の上を近付いてくる兆候はすぐに分かった。警報音をやり過ごそうと、心の中で儀式の準備を始めた澄雨に、
「幹也君を連れて、ここを立ち去ってくれ。ちょうど仕事になりそうだから」
「……はあっ!? さっきまで口説いていたくせに、仕事だからどこかに行けとかここを離れろとか、いくらなんでも勝手なんじゃないっ?」
思わず敬語も忘れて怒鳴る澄雨に、赤猫はニヤリと片頬を上げて見せた。口の端から、やけに尖った犬歯がのぞく。
「君らは見ない方がいい――行くんだ」
そう言い捨て、赤猫は二メートルほどの高さの金網に手を掛けたと思いきや、澄雨達の見ている前でひらりと飛び越した。
助走もなければ、金網をよじ登った素振りもない。
赤猫の予想を上回る身体能力を目の前で見た澄雨も、これまたどういうわけか足が勝手に動きだしていて、抵抗する幹也の手を引きホームに沿った歩道を下っていることに気付いた。まるで自分の身体が、自分のものではないみたいだ。
意識だけが妙に鮮明で、駅の手前にある踏切の警報音が流れてくるのを捉える。
すぐに、ギギーッともギューッともつかない擦れ合った金属が悲鳴を上げる高音と、何度もしつこく鳴らされる警笛が金網と壁を隔てたホームから響き渡った。
「なんで、警報音が止まらな……」
間延びした警報が、やり過ごすのに失敗した澄雨の身の内に入り込んで暴れ回る。急速に視界が失われ、身体が前に傾いでいることに気付く。巻き添えにするわけにはいかないと、澄雨は自ら幹也の手を離した。
意識を失う寸前、澄雨は自分の脇腹に差し込まれた何かが強く支えるのを感じる。今回は特別だからね、と耳元で囁く声。
かすかに漂うのは、温泉の香り。
だが、澄雨の脳裏を過ぎったのはなぜか、炎を噴き出す牛車に乗った父親の横顔だった。




