1.三年前:火葬場にて①
火葬場の庭園に面したガラス張りの広いロビーを、真新しいセーラー服を着た木ノ下澄雨は、端から端まで行ったり来たりしていた。別に手持ち無沙汰だったわけではない。父親の骨が焼けるのを、待っていたのだ。
澄雨の小さな背中では、役目を終えたランドセルの代わりに青いカバーオールに包まれた赤ん坊の足がぷらぷら揺れている。
他家の骨揚げ待ちの遺族達が一服入れているソファーの横をすり抜け、
「げんこつやーまのー、たーぬきーさん。おっぱいのんでー、ねんねしてー」
小さな声で口ずさみながら、一歳六ヶ月になる弟の幹也をあやしてた。
控え室では大泣きして親戚一同に微妙な顔をされていたのに、何往復かする頃には澄雨のセミロングの髪をしゃぶってすっかりご機嫌になっている。
――これで色が抜けて茶髪になったら、学校の頭髪検査に引っ掛かるんじゃ。
中学の職員会議で、あの生徒は子守をしているからと、大目に見て貰えるだろうか。そう思いながら窓ガラスの向こうに目をやれば、庭園に置かれた石のモニュメントも新緑の木々も、すっかり雨に濡れて濃い色になっていた。
まだ梅雨入りには間があったが、まるで父親を焼く煙が空へと昇り厚い雲となって地上に降り注ぎ、ロビーにいる自分の心の奥までじっとりと湿らせるみたいだと思った。澄雨はまた、思い出したように背の幼い弟を揺すり上げる。
「だっこしーておんぶしーて、まーたあしたー。げんこつやーまの……」
わらべ歌みたいにいつまでも続くと思っていた日々が、ぷつりと途切れた。
父親の人生はこれで終わりだけれど、残された自分達はこの先も生きていかなければ――言い知れない不安と背負った弟の重さに、澄雨は思わずよろめく。
その時だった。澄雨の髪をご機嫌でしゃぶり倒していたはずの弟が、急にまたぐずり出したのだ。
「なになにっ? どうしたのみーたん? ほらっ、げんこつやーまのー」
周囲の目を気にしつつ、お腹が減ったかオムツが濡れたのかと後ろ手に回すが、
「――その歌、ずっと繰り返しているね。歌詞はそれだけで終わりかな?」
高めのハスキーな男性の声に、反射的に振り向く。こちらに向かってやたらと広いロビーをランウェイみたいに歩いてくるのは、見覚えのない若い男だった。
ひと目見るなり、澄雨は両目を瞬かせてしまう。
居並ぶ人は皆、なんらかのフォーマルに身を包んでいたが、その男はホストでさえ二の足を踏むような、色鮮やかな深緋色のスーツを纏っていたのだ。
しかも甘いマスクに挑発的な笑みを浮かべ、何故か澄雨を見詰めている。
骨揚げ待ちの遺族はもちろん、葬儀会社の社員にも火葬場の従業員にもまるで見えない。隣近所の住人なら無愛想な澄雨もさすがに挨拶ぐらい返しもするがここは火葬場のロビー、明らかに場違いだった。
「そっ、そうよ、終わらない歌なの」
見知らぬ男は、緊張して固まってしまった澄雨の見下ろし、
「へぇ。君、けっこう可愛いね。こんなところを、ふらふら歩いていていいの?」
まるで値踏みするような、あからさまな男の視線に晒される。
それには隠し切れない感嘆が含まれていたのだが、中学生になったばかりの澄雨には不快としか思えない。澄雨は男を真っ向から睨み返した。
「弟がむずがるからお母さんがあやしてこいって。骨が焼けたら戻るけど」
険しい顔の親戚達と母親が対峙する危うい雰囲気に晒されるぐらいなら、子守でもしていた方がましだった。そんな澄雨の気持ちを男が知るはずもないのに、
「それはまた、難儀だねぇ……よしよし」
そう言いながら、男が澄雨の背負ったぽやぽやの毛の生えた弟の頭に手を伸ばした瞬間、なぜかぐずりがぴたりと止まった。そう簡単に泣き止むような子じゃないのに――澄雨は無意識のうちに一歩引いてしまう。
あやして貰ったお礼を言うより先に、澄雨はふと、違和感に気付いた。
「アナタは誰? 納棺の時にいました? お父さんの会社の人ですか?」
しかも、周囲の人間が誰も自分達を見ていないのだ。正確には、よくも悪くも人目を引く存在の男に、誰も注意を向けようとしないのである。ほかの人達が男を無視しているというより、まるで姿が見えていないとでもいうように。
「僕? 僕は……そう、仕事だよ」
――君のお父さんを、迎えに来たんだ。
そう囁いてにっこり笑った口の端から、人間にしては随分と長い八重歯が覗く。
まるで牙みたい、でもなにを噛み切るための牙なんだろう。そう思った澄雨の前で切れ長の瞳が金色に輝き、あり得ないはずの縦長の虹彩が煌いた。