貴族の遊び
「貴方のことが、好きなんです……付き合っては、いただけないかしら」
勇気を振り絞ったというふうに。ハナミのことを潤んだ瞳で見上げたアモリ嬢は、それはそれは、美しかった。
庭園の一角に植わっている種々多様の花たちは、彼女の引き立て役でしかない。
さすがは、帝国随一の美姫と称されるだけある。
ハナミは、軽く拳を握り、そして開いた。自分なんぞがしていいはずがない、爽やかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。僕も、アモリ様のことが好きです。お付き合いをしましょう」
ハナミは眼鏡を外し、小机に置いた後、寝台に沈み込んだ。
「やってしまった……」
アモリ・ヨアケの告白に、頷いてしまった。それが、罠だとわかっていながら。
「あれは、本気の告白ではないと、わかっていたのに……」
ことの発端は、昨日である。
いつもなら、寄宿舎に帰り、貧乏貴族らしく勉学に励むところだが、その時のハナミは気が抜けていた。
「ああ、僕としたことが。教科書を忘れてしまっている」
ハナミは、急いで学園に戻った。
教室に着き、自分の教科書を見留めたハナミは、ほっとした。
ハナミは、本来ならこの学園にいてはならないほどに、弱い立場の貴族である。自分の持ち物を教室に置いておいたら、どんないたずらをされるかわからない。
そのときである。話し声がして、ハナミは教科書を抱えたまま、反射的に机に隠れた。
教室に入ってきたのは、数名の生徒。姦しい声が室内に響き渡った。
「名案を思いついたわ」
一番苦手な女生徒の声が聞こえた。アモリ・ヨアケの声である。
「学園中の殿方に告白をして、一番返事を多く貰えた方が勝ちというのはどう?」
机の下で、ハナミは思い切り顔を歪めた。反吐が出る。反吐が出るが、ハナミとは全く違う、権力を持った貴族は、それがまかり通るのである。
たとえば、ハナミがこれを担任に報告したとして、糾弾されるのは、なぜかハナミの方なのである。
その後、女生徒たちは、この異様な勝負の決まり事を、事細かく決めていった。
「決行は明日が良いと思うわ」
「高位貴族ほど、得点が高いことにしませんか?」
「翌日に、あれは嘘だったと言えば良いのです」
とはいっても、ほとんどアモリが取り仕切っていたのだが。
「それにしても、アモリ・ヨアケは勝負に勝つ気が無いのだろうか」
眠気の残る目を擦り、ハナミはつぶやいた。昨夜は悶々として、うまく寝付けなかった。
寝台から降りて、ハナミは伸びをした。
「僕は高位貴族ではないから、得点は低いはずなのに」
「アモリさんの勝ちですわね」
また教科書を忘れてしまったハナミは、最近の自分の腑抜け具合を呪った。意図せずして、一昨日と同じ状況に陥ってしまった。
聞きたくもない、勝負の結果を聞いている。
「皆さま、わけを話した後の、殿方の反応をご覧になりまして? ふふ、町娘相手に遊んでいるあの方は、私の家を潰すと怒ってらっしゃいましたわ」
「まあ怖い」
「帝国ごと潰す気なのかしら?」
聞けば聞くほどに、不快な会話である。ハナミは耳を覆いたくなった。
……と、ハナミは、とあることに気付いた。
「忘れられている」
綺麗さっぱりに。アモリ・ヨアケに、あれが嘘の告白だったのだと、教えてもらっていない。
ハナミは嘆息した。別に、学園中に出回っている残念な知らせを耳にすれば、自ずと自分も遊ばれたことはわかる。
「だが、それは気に入らない」
ハナミは考えていた。アモリに一泡吹かせてやりたい、と。
あの時と真逆である。
「アモリ様、お話があります」
放課後のことである。ハナミに声をかけられたアモリは、大きな目をいっそう大きく見開いた。
「ハナミ様、一体どんなお話かしら?」
……白々しい。それとも、自分が告白をしたことも忘れているのか。
それならそれで良い。好都合である。
ハナミは、アモリの手を取った。
「ここでは人が多すぎる。あそこに行きましょう」
ハナミがアモリを連れてきたのは、一昨日告白を受けた場所である。
これで、アモリはハナミにしたことを思い出してくれるだろう。
四阿の椅子に座りながら、アモリは両手で机に頬杖をつき、にこにこと向かいに座るハナミを見上げた。
「それで、ハナミ様。私にお話とは?」
「別れましょう」
「……え?」
きょとんとするアモリ。「あら、まだこの方には言ってなかったかしら?」とでも言いたげだ。
ハナミはそれを悔しく思ったが、わざと笑顔を浮かべた。
「先日、貴方は僕に告白をしてくださいました。僕はその時、付き合うことを了承しましたが、気が変わりました。貴方のことが好きではなくなったのです、別れましょう」
……言ってやった。
告白を嘘だと言われていないのをいいことに、この横暴な貴族の娘を振ってやった。
後ろ暗い、薄暗い感情が、ハナミを包んだ。当然、アモリは激怒するだろう。だが、ハナミに後悔はない。
「それでは」
ハナミは立ち上がった。そして、アモリも立ち上がった。
「お待ちなさい。私を振るだなんて、そんなこと、許しませんわ」
「貴方の赦しがなくとも結構です」
「学園にいられなくなっても良いのですか?」
「もともと、僕にこの学園は向いていなかったのです。未練はありません」
嘘だった。ハナミは、この学園の人間はともかく、勉学が好きだった。
だが、ここは、この学園は、あまりにも生き辛い。
「……それなら、賭け事をしませんか?」
低い声。振り向くと、アモリが笑っていた。
「ね、カガリ・ハナミ? 私と、本当に付き合ってみませんこと?」
「……は?」
あまりにも理解できない言葉に、思わずハナミが振り返った時だった。ふわりと甘い香りがしたかと思えば、眼前には、美しい瞳があった。
妖しく笑う彼女は、背伸びをしてーー
「なっ、なにをして!?」
ハナミは、思わず彼女を押してしまった。くすりと笑った彼女は、自分の唇をなぞった。
「なにって、私が本気だということを証明したまでですわ」
貴方にとって、悪い条件ではないでしょうと、悪魔は言う。
「貴方の退学を、一年引き伸ばしてあげると、私は言っているのです。この一年で恋人を演じ、私を落とすことができたら貴方の勝ち、勿論貴方が私に落ちたら、貴方の負けです」
「僕は、その勝負には」
「まだ、図書館の本を全て読んでいないのでしょう?」
「……わかりました、その勝負、受けて立ちます」
ああ、自分は単純である。きっと、寄宿舎の寝台で、今日も眠れぬ夜を過ごすのだろう。ハナミが額に手をやろうとした時、その手がとられた。
「何ですか、この手は」
「もう、勝負は始まっているのですよ? 恋人らしく、手を繋いで帰りましょう」
妙に楽しそうなアモリに、ハナミは辟易した。何が楽しいのだろうか、やはり、高位の貴族の考えることは、ハナミにはさっぱりわからないのだった。
……身分の差が顕著なこの国では、意中の相手と結ばれるのは難しい。
貴族社会は煩わしい。けれど、自分がその役を降りることは許されていない。
遡ること三日前。
アモリ・ヨアケは、カガリの机から引き抜いた教科書を抱きしめながら、呟いた。
「私は絶対に、カガリ・ハナミを諦めない」