ポテナゲセットと赤く染まる世界。
紘一が松葉杖を使って登校するのは、人生で初めての体験だった。
松葉杖をついて登校しなければならなくなった理由は一つ、昨日の放課後にサッカー部の練習に向かった際、十分な柔軟運動もせず、着替えもせずに制服のまま足元に転がってきたサッカーボールを何気なく蹴とばしたら、利き足ではない左足のじん帯あたりに普段とは違う力のかかり具合を感じたのだ。蹴ったボールは紘一の狙ったところに飛んで行ったが、そのあと左足首は熱いジュースが染み出るような痛みが左足首から出てきて、神経を伝って左足全体をしびれさせてしまった。
そのあと保健室に行き、担当の教諭に痛み止めの軟膏を塗ってもらい、湿布を張って貰って包帯をしっかり巻いてもらったが、サッカー部の練習と活動に参加する事は当面禁止された。
「顧問と担任の先生には私から説明するわね。一週間は激しい運動はしない事」
紘一の母親より少し年上の女性保健教諭は事務的な口調で答えた。彼女の保健教諭の経験からして、こういう事案は珍しくないのだろう。
「わかりました」
紘一はしぶしぶと頷いた。自分の行動で失敗して負傷したのだ。怒りをぶつける事も不満を漏らす事も出来なかった。
それが昨日の放課後の事だった。小学校に入学した時から続けていたサッカーで負傷し、やり場のない憤りと、痛みを感じながら登下校するのは人生で初めての体験だった。
「あれ、紘一じゃん」
校門を抜けると、背後で自分の名前を呼ぶ女子生徒の声が聞こえた。この学校で自分の事を下の名前で呼ぶ女子生徒は、小学校の頃からの腐れ縁である四宮ユカリただ一人だった。
「何だよ」
憮然とした声で紘一は背後を振り向いた、足の痛みがまだ取れず、頭の中でストレスとなって溜まっていたから、そんな口調になってしまったのだ。
「松葉杖なんてついて、どうしたの?」
ユカリは明るい口調で紘一に訊いた。本人は秋らしい服装だと思っているのだろうか、制服の上に着たケミカルピンクの上着が紘一には強く印象として残った。
「昨日、サッカーで怪我をした」
紘一は少し憮然とした口調で答えた。適当な言い訳をして誤魔化したくなかったのだ。だから核心部分だけ答えた。
「サッカー部の練習で怪我をしたの?」
「今日はサッカー部の参加はなし。最低でも一週間は激しい運動は禁止って言われた」
「それじゃ、授業が終わったらどうするのよ?」
おどけるような表情と声で、ユカリは紘一に訊いた。
「おとなしくするよ。無理に運動もできないし」
紘一は頭の中のストレスを感じながら答えた。想定外の不都合な事が起きてそれを自分の中で処理できず、自分を落ち着かせたいという焦りが滲んでいた。その焦りの滲みを感じたのか、ユカリはおどけていた表情を少し戻してこう言った。
「ねえ、学校が終わったら何か予定ある?家に帰ること以外で」
「ないよ。家に帰る以外」
するとユカリは再びおどけた表情になった。
「もしよかったらさ、学校が終わったら駅前のマクドナルドに行かない?」
「なんでさ」
紘一が訊き返すと、ユカリは口元に笑みを浮かべてこう言った。
「あたしからのお見舞い。奢るよ」
放課後、紘一は慣れない松葉杖をつきながら、ユカリと一緒に駅前のマクドナルドに向かった。十一月になり秋も本格的になってきて、周囲の木々の葉をほんのりと色づかせている。日の入りが早くなって空が茜色になるのが早くなっているのも相まって、街全体がうっすら赤く色づいている。紘一はその光景を見て、自分のいる環境が少しずつ変化しているのではないだろうかと思った。
駅前のマクドナルドは西の方角に店が建っているせいか、夕日が差し込んで店内全体をうっすらと茜色に染めていた。秋の光が差し込むだけで、ずいぶんと店の雰囲気が変わるものだと紘一は思った。
「先に席についていて」
店に入った瞬間ユカリが紘一に告げた。てっきり一緒にレジに並んで注文を受けるものだと思っていた紘一は驚いてしまった。
「いいのか?」
「モバイルオーダーでもう注文してあるから。それに怪我をした人間に負担はさせたくないでしょ」
ユカリは当たり前のように答えたが、紘一にはそれがユカリの心遣いのように思えて、紘一は照れ臭くなった。
商品受け渡し口に向かったユカリを見送ると、紘一は空いている窓際の四人掛け席に座った。選んだ理由は彼の一番近い場所にあった空席だった事、松葉杖を立てかけられるスペースがあったからだ。席について二分もしないうちに、ユカリがモバイルオーダーで頼んだ商品を運んできてくれた。彼女がモバイルオーダーした商品は、最近マクドナルドが広告を出しているポテナゲのセットだった。
「お待たせ。飲み物はオレンジジュースでいいよね」
ユカリが笑顔でトレーに乗った商品を見せた。白い紙箱に入ったナゲットとポテト。それにドリンクが二つだった。
「オレンジジュースなの?」
「あたし炭酸とかコーヒー好きじゃないもん。たまにはいいでしょ」
ユカリは笑顔で答えて、紘一の隣に座った。対面じゃないのかと紘一は思ったが、商品を注文して席まで運んできてくれたユカリに何か話す事は出来なかった。
「新しく出てきたマックチキンっていうのがあったから、頼んでみたの。紘一も食べてみる?」
「いいよ」
紘一は反射的にそう答えた。その瞬間自分がユカリのペースに乗せられている事に気づいて、紘一は恥ずかしさを覚え、頬が赤くなるのを感じた。
「まあまあ、そう言わずに。新しい事に挑戦してみなよ」
ユカリは茶化すような口調で紘一に迫った。より恥ずかしくなった紘一は目の前のオレンジジュースのカップを掴み、ストローを咥えて飲んだ。マクドナルドのオレンジジュースなど何年も飲んでいなかったせいか、甘酸っぱい味が紘一には新鮮だった。
気まずくなって紘一は目をそらし、何気なく店内を眺めた。夕方の店内は親子連れや暇な一人客が多く、学生服で来店しているのは紘一とユカリだけのようだった。
すると、さっきまで調子に乗っていたユカリが急に大人しくなったのに紘一は気づいた。どうしたのだろうと思って視線をユカリに向けると、彼女は商品受け渡し口に立つ、母親と一緒に立つ五歳くらいの男の子に視線を向けていた。男の子も制服姿の紘一とユカリが珍しいのか、興味深く並んで座る二人を見つめていた。
小さい子どもがそんなに珍しいものだろうかと、紘一は再びストローに口を付けた。するとユカリは一瞬仏頂面になり、紘一の事を上目遣いで見た。気まずくなった紘一は思わず目を逸らした。
その仕草が面白かったのか、ユカリははにかんで紘一に顔を寄せてきた。ポニーテールにしたユカリの黒くしなやかな髪が揺れて、彼女が愛用しているシャンプーの香りが漂ってくる。また紘一は目を逸らして興味のない振りをした。
「あのさあ」
「あのさあって、何がさ」
ユカリの言葉に紘一はぼそぼそと答えた。ユカリは口元に笑みを浮かべて、紘一のさらに奥に入り込もうとする。紘一はますます気まずくなったが、ユカリから視線を逸らす事は出来なかった。
その紘一の表情が面白かったのか、ユカリは声を上げて、手を叩きながら笑った。小馬鹿にされたのかもしれないと思った紘一は、目の前にあったマックチキンを一つ手に取って食べた。
紘一がマックチキンを飲み込むと、またストローを咥えてオレンジジュースを飲んだ。ユカリはポテトを一本口にしながら、必死に冷静になろうとする紘一を上目遣いで見た。
紘一はオレンジジュースのストローから一旦口を離すと、カップを見つめた後もう一度咥えて飲んだ。もうオレンジジュースの量は半分以下になっていたが、そんな事を気にする余裕は紘一には残っていなかった。
「あの子から見たら、私たち恋人同士に見えるかな?」
急な言葉に紘一は驚いた。その反応が面白かったのか、ユカリは白い歯を出して笑った。
そのあと二人はポテナゲのセットとマックチキン、オレンジジュースを飲み干して帰宅した。紘一は松葉杖をついて帰りながら、隣に座ったユカリの息遣いと体温、そして仄かな匂いを思い返していた。
「足が全快したら、あいつにマックを奢ってやるか」
紘一は赤く染まってゆく秋の街の中で、甘酸っぱくごわごわした気持ちを抱きながら決心した。
(了)