表札のない町の名乗らないものたち
「あ、そうじゃ。こやつの餌が切れかけているのじゃが、頼めるか」
そう言いながら、『少女』はオイルライターを掲げた。
「容易き」
地金を見せているそのオイルライターは、特に、餌に対しての注文は付けなかった。
「こやつを失ったら、ワシは、煙草を呑むのをやめようとも思うておる」
胸ポケットに煙草とオイルライターをしまった『少女』は、何やら呟いた。
健康と成長に関する独り言のようだったが、聞き逃した。
「こやつが目覚めるまで、十二支一巡り。僅かな時じゃ。あの頃の、乱暴な餌でない方がありがたい」
「承知」
「あの戦さ場も思い出じゃがな」
しみじみと、回顧を嚙み締める『少女』に掛けるにしては、正解とは程遠い言葉を、私は口にした。
「では、比丘尼様。また、明日」
「せわしないことじゃ」
乱暴な餌を与えられていた頃の、オイルライターの心持ちを聞けるようになるまで、『また、明日』を積み重ねる。
地味で地道な日常を積み重ねる。
その為にも、せわしなく、町に戻らねばならない。
比丘尼が『加護の辻』と呼んだ十字路へ、まっすぐ向かう。
以前、あの十字路がなんと呼ばれているか伝えた時、比丘尼が
「どこがミニじゃ! ワシの方がミニじゃぞ!」と、主張したのを思い出した。
「小さきものは、みな、美しい! 年若の言も、腑に落ちることがあるものじゃぞ」
誰の言葉かは判らないが、比丘尼が不機嫌にならなかったのならば、よしとしよう。
何人かの早起きなものとすれ違いながら、少し、早歩きで進む。
走ればよさそうなものだが、西瓜の入ったレジパックに過度の負担を掛けるのは本意ではないし、西瓜の入ったレジパックを持って走っている姿は割と不穏だ。
私の貧弱な頭では、誰かが末期の朝餉に「盛岡冷麺を食べたい」と言い出したときの他に、早朝に西瓜を持って走る理由が思いつかない。
考えすぎかも知れないが、考えすぎるのが私の仕事だ。
件の辻の手前、比丘尼が婆様と呼んだ人物の家の前に、幸いなことに奇異の目で見られることもなく到着した。
「息災か!」
「息災だが、いきなり大声を掛けられると、たった今まで息災だったのに、ということにもなりかねん」
白髪頭にジャージ姿の年嵩の人物がゆるゆると、玄関口に現れた。
「一般論だ。今更、吃驚することも少ない。で?」
「花が枯れていたので、何かあったのかと」
「なに、こっちの花の手入れに、つい、夢中になった」
赤と青の部品に挟まれた、スマートフォンのようなものを掲げて見せた。
画面では、整頓された花畑に見えるものが揺れていた。
「この年で、オールはきつい」
「ならば、カジを取って、後進を導けばよいのでは?」
テリリテリリと、秋の蟲が沈黙を補完した。
「ふむ」
後進を導く方法を考えているようにも見えた。
「大婆様が徹夜とは、よほどの強敵でも現れたのでしょうか?」
楽しそうな表情のおかっぱの少女が現れた。
子供は、まだ、眠っていても良い時刻であるのに。
そんなに強敵を待ち望んでいるのだろうか。