32話:スフィアの悩み〈2〉
32話目です。
「待って」
静かな部屋に響いた震えた声。
掴まれた俺の袖口は、
少し引っ張ればすぐに取れてしまうくらい弱々しいものだった。
「どうしたんだ」
俺は振り返ることはせずそのまま耳を傾けた。
「私は…私は男の人が怖いです…」
彼女は俺の背中に顔を押し当て、
目に溜まっていた涙をあふれさせた。
「俺も男だけどな…」
俺は彼女がその言葉にどんな意味を込めているのか分からなかった。
「アーグは…私をいつも助けてくれています。
私だけではありません、カエラやリスタ、
メルビーにも、皆に優しくて…
アーグは…」
俺は優しく彼女の頭を撫でた。
「あの人が怖いんです…」
「あの人…?」
男と言ってもある一人のようだ。
「どうすればいいのかわからないんです…
もう嫌なんです!」
スフィアの顔は既に涙でくしゃくしゃになっていた。
「そうか…今は泣いていいぞ」
俺は自分の胸をスフィアに貸した。
誰なんだ…スフィアを怖がらせる奴は…
「うぐ…うわああぁああん!」
「よしよし」
扉を一つ隔てた廊下。
そこには一人の少女がいた。
「なんで…私じゃないの…
何で私を頼ってくれないの…
お兄ちゃんもこんな私じゃダメなのかな…」
スフィアは日が暮れるまで泣き続けた。
もう目は赤く腫れあがってる。
「ありがとう…もう大丈夫…」
「それじゃあ聞いてもいいか?」
涙はまだ溢れ、
声には嗚咽が混じっていたが、
さっきまでのしゃべることもままらなかった時に比べれば落ち着いただろう。
「うん…あのね」
ある貴族のパーティーにて、
「ねえ君、名前は?」
スフィアは一人の男に話しかけられた。
「…えーっと」
スフィアはあまり人と話すことが得意ではなく、
今はあの5人としか同世代の人としか話していない。
一人だけ見た目と年齢が違う人も混ざっているが。
「ん?ここでは人が多くて話しずらいかな?
ではあちらに行こうか」
「っ!あの、手をどけてもらってもよろしいですか?
私は一人でも歩けますので…」
その男はスフィアの腰に手をまわし、
自分の方へ引き寄せるようにした。
「恥ずかしいのかな?大丈夫、誰も見ていないよ」
そんなスフィアの言葉もお構いなしに、
二人は一つの部屋へと入っていった。
スフィアは離そうとしたが、
その男は力を強め、
離すことができなかった。
「そこに座ってくれ」
その部屋はベッドにソファー、それに装飾品が少しと、
造りは簡素だったが、到底そこらへんの貴族には買えないようなものも置いてあった。
「改めて名前を聞いてもいいか?」
男はスフィアの横に座ると、
必要に近づいてきた。
「スフィアです」
名前だけ告げた。
スフィアは心の中で早く帰りたいとしか思っていなかった。
「スフィアというのか、
いい名前だね。
私はこの家の長男の者だ。
名前は分かるだろ?」
そう、スフィアはこの男のことを知っていた。
このパーティーを開いたのはこの男の父親だからだ。
貴族としても侯爵と、自分よりも上の位だ。
「はい、存じております」
「それならいい、もうちょっとこっちに来たらどうだ?」
「っ!」
またも男はスフィア残しに手をまわし、
今度は反対の手で腿を撫でてきた。
「君は本当に美しい、
実はパーティーの始めに君を見つけてね、
ぜひ話してみたかったんだ」
スフィアは止めてもらいたかった。
それでも、貴族として立場が上の男に逆らうと、
自分の家に迷惑がかかるかもしれないと思い、
その思いを胸に押し込んだ。
「そうですか、光栄です」
ここにカエラがいたら止めることもできたのだろうが、
生憎彼女は今日来ていなかった。
「そこでなんだが、
ぜひ私の許嫁になってもらえないか」
多分そんな話だろうと分かっていた。
貴族が自分のパーティーで部屋に誘うのはそれくらいしかないからだ。
「それは…お断りさせていただきます」
スフィアは勿論断った。
今まで何回かそんなことがあったが、
一つとしてその申し出を受け入れたことはなかった。
「どうしてかな」
「今は、試験やほかのことがありますので」
理由は何でもよかった。
ただ断ることができればそれで。
「うん、知ってるよ」
「え…」
「さっきの今日初めて見たって言ったのは嘘だ。
ずっと前から君のことを見ていたよ!
今日のパーティーはそのためにあるんだから!」
スフィアは鳥肌が立った。
なんで自分のことを見ているのか、
それはどこまで見られているのか、
外?それとも家の中まで…?
スフィアは思考を巡らせた。
どこにいた…?
「あぁ、体とかは見てないからね、
それはあとに取っておきたいからね!」
怖い…今までも異性のことが苦手だったスフィアが、
自分のプライバシーまで筒抜けになっているなんて、
精神的に耐えられなかった。
男の手はお腹のあたりに上り、
「やめてください!」
スフィアはその手を払いのけた。
「大丈夫だよ、僕に任せて、
何しろ許嫁は7人もいるからね。
君で8人目だ。
でも僕は君のことを気に入っているから、
僕のところに来てくれれば正妻にしてあげるよ!」
何を言ってるんだ…。
私は受け入れるなど一言も言っていないのに。
男は絶対に自分の物になると確信しているような顔をしていた。
「お断りさせていただきますと先ほども言いましたが…」
「はぁー、皆最初はそんなことを言うけど、
最後は僕の物になるんだよ。
とりあえず、そっちに行こうよ」
男はベッドの方を指さした。
「無理です!やめてください!
私には心に決めている人がいるので!」
スフィアはその場しのぎの嘘で乗り切ろうとした。
ただ、頭の中に一瞬黒髪の少年の顔が浮かんだが…。
「それはあの男か…?」
貴族の男は顔頬をぴくぴくと震わせながら言った。
「…はい」
スフィアはアーグとしか一緒にいる男の人がいないので、
そうだとわかったが、そこも見られていたなんて…。
「あいつ…!」
男は拳を握りしめ、歯をしばった。
まるで気に入らないとでもいうように・
「まあいい、僕は寛大だからね、
他にどんな男といようが許そう」
スフィアは胸をほっとさせた。
助かった…。
「では…」
「これから僕だけを見てくれればそれでいい」
スフィアはまた血の気が引いて行くような感覚になった。
「君は僕の物だ!ほかの誰にも渡さない!」
「きゃっ!」
スフィアはベッドに押し倒された。
流石にこのままでは危ないと思い、
抵抗したが、少女の体では、
男の子の力に対抗できなかった。
メルビーだったら逆に押し倒すことができたかもしれないけど、
スフィアは魔法専門なのだ。
それも水魔法だけの。
「離して!やめて!そんなことしたらどうなるか分かってるんですかっ!?」
この国には許嫁を断っているのに強要することは禁止されているのだ。
それに背いたら貴族だとしてもその地位を剥奪される。
「君はそんなことが言えるような人ではない。
例えあの王女様と友達でも、友達に迷惑かけるようなことはできないよな?」
図星だった。何も言い返せることができなかった。
それでも抵抗は続ける。
「はぁ、分かった。
そこまで言うなら一か月だけ待ってやろう。
その間に考えるんだ。
まあ、断ったら君の家族がどうなっても知らないがな、
あの男が消えても知らないぞ?」
あぁ、今までの許嫁もこうやって手に入れてきたんだ。
ようやく理解した。
この男の容姿はよくない。
はっきり言って悪いともいえる。
普段から食べまくっているのか、体は太り、
性格も見ての通りだ。
「…分かりました」
今はその要求を呑むしかなかった。
アーグは闘技場でも見ているだけで、
基本何もしない。
だからアーグは弱いとでも思われたのだろう。
断ったら多分…殺しに来る。
「そうだ、代えとして、
あの男と一緒にいる二人を連れてくれば諦めてもいいよ?」
「それはダメ!」
それだけは…アーグの大切な人を奪いたくない。
アーグの大切な人にかける思いは知っているのだ。
「とりあえず考えておいてくれ」
その日はその場を後にした。
それから2週間後、
それが今だ。
「ということです」
スフィアは途中途中止まりながらも、
必死に俺に伝えてくれた。
俺は怒りが抑えられなくなった。
今すぐにでも殴りに行きたい。
でも今の俺が言ったところでできることは何もない。
そんなことは分かっていた。
だから…
「ごめんな、気づいてやれなくて、
辛かったよな…」
俺はスフィアを優しく撫で、
「いいんです。わたしが臆病だったのがいけないんです。
こんなこと言ってごめんなさい。
少し気持ちが楽になりました。
私はあの人のところに行きます。
他の人には言わないでくださいね、
試験に集中してもらいたいですし、
特にカエラには、迷惑かけたくない」
「それでいいのか?」
「え?」
スフィア最後の決意を話したところで涙を流した。
「なんで…涙が止まんないよ…」
自分では気づかないうちに流していたようだ。
今のスフィアが本当に言いたいことはそんなことじゃないだろ。
ただその言葉を言うことをためらっている。
「俺に迷惑をかけたくないから?
だから言いたくないのか?」
だが、俺にはその続きを言う事ができなかった。
“助けて欲しいんだろ?“
そんなことを言える自分はここにはいない。
今の俺にはなんも地位がない。
権力がない。
スフィアを…
助けることができない。
読んでくださりありがとうございました。
アーグは助けることができない。
じゃあどうすれば…
次回をお楽しみに。




