プロローグ~あの夕暮れ~
あの日、私は母に手を曳かれ、祖父の家の門の前に立っていました。
夏の終わり、でした。カナカナと寂しげなひぐらしの鳴き声が、どこかから途切れ途切れに聞こえていました。日が落ち始める時間帯でしたが、うだるような暑さは続いていて、ぬるい夕風が頬を撫でていきました。夕日の照り返しでオレンジ色に輝くうろこ雲が空いっぱいに広がっていました。
私は少し疲れて、そして退屈していました。門を出るところで偶然出くわした近所の女性の長話は、終わる気配を見せなかったのです。私はそのときまだ背丈も低く、腕をうんと上に伸ばし、引っ張り上げられるようにして母と手がつないでいました。そんな幼い子どもにとって、知らない大人のおしゃべりなんて、文字通り背の届かない頭上をツラツラ流れるだけのもので、興味もなく理解もできませんでした。その女性の香水が汗の湿度を含んだ生臭さとなって時折風に乗って運ばれてくるのも不快で、私はぼんやり遠くを見ながら、早く終わらないかと、そればかり考えていました。
ふと脇の地面を見ると、五、六歩ほど離れた地面に蝉が落ちています。白く濁った色の腹を上にしてひっくり返っており、カラカラにかさついた無機質さはアルミニウムかなにかのようでした。微動だにしないその姿を無感動に少し見つめ、目をそらした瞬間でした。
バツッ
耳障りな低い振動が思いがけず間近で耳を打ち、私は反射的にその耳を押さえました。
バツッバツっ
蝉の体が滅茶苦茶に跳ね回り始めたのです。小さく紙のように干からびた薄い体から剥き出しのエネルギーが放たれる様は意外な程不気味で、私は思わず母の腕を強く引きました。
バツッ・・・ババッ
蝉は不規則なリズムで八方に跳ね回っていましたが、突然勢いよく指先で弾かれたような横っ飛びをし、パサと私の足元に落ちたのです。
私はぞっとし、夢中で飛びずさりました。しかし、走って逃げようにも、母はしっかりと私の腕を捉えられていて、いとも簡単に私を元の位置に引きずり戻します。
「母さん……っ」
母は、目線の遥か下の足元で起こっていることには目も向けず、相手の女性に相槌を打ちながらぞんざいに私の腕を掴んでいます。私は手を振りほどこうともがきはしたものの無駄に終わり、おそるおそる足元に目を戻しました。蝉の体が再びビクリと跳ね、私は悲鳴を上げようと息を吸い込んだ、
その時でした。
ずっ・・・と体全体に走る、重い衝撃。一気に音が遠のき、くぐもり、全てがスローになった感覚。まるで突然水の中に入ったような。そして、視界に映る色が突然濃くなったのです。正確には、視界に映る赤と、黒が。元々夕日で染まっていた世界は一気に血のような極端に濃い赤で塗りつぶされ、わずかな濃淡で物のシルエットがつかめます。そして、私、母の、近所の女性の足元から伸びる夕暮れ時の長い影法師は、赤の世界に黒々と流し込んだ墨のようで。庭の植え込みや塀の下にうずくまる闇も同じく、まるで赤い景色に穴でも開いたように、途端に濃く存在を主張していました。私が直前まで恐怖した死にかけの蝉も、私自身の影の中に飲み込まれ、消えてしまっていたように思います。音の分からなくなった世界のなか、母と女性の赤いシルエットだけが、ぬるぬると変わらず雑談する動きを繰り返しているのでした。
首筋に、誰かが笑って吐き出した息のような風があたりました。はっと首の後ろを押さえながら振り向くと、私と同じくらいの子供を象った影が、真後ろに立っています。驚きと混乱で眩暈を起こしたのか、私はふらふらと腰が砕けそのまましりもちをつき、その時初めて、自分の腕が母の手から解放されていることに気がつきました。目の前に伸びる二本の黒い脚にそって上を見上げると、その影が、私に成り代わって母と手をつないでいます。
笑った。
その人物の目鼻も分からない真っ黒な顔を見て、私は何故かそう思いました。
キイ・・・とか細く高い音が、くぐもった空気を震わせました。後ろを振り向くと、先ほど母と私が出てきた祖父の家の玄関の扉が、半分程開いています。何かの生き物の口のように開いた扉の奥も、底知れない闇で黒くつぶされていました。
その奥の奥に、ひらひらと動く白い影を見つけ、「あ、」と小さく息を飲みました。玄関のたたきを上がったあたりでしょうか、たたずみ、手招きしている、白い人影。顔かたちが分からずとも、その背格好は、祖父のものでした。その日の明け方、家のなかで倒れ救急車で運ばれ、今は病院のベッドで治療を受けているはずの、祖父のものでした。
幼い頃の奇妙な記憶。後に思い出して、あれは何だったのだろうと思える記憶を持つことは、そう珍しくないでしょう。時が経つにつれ薄くなった部分は脚色され、事実とは全く異なる姿となることも。
ただ、母がふとこぼしたことがあります。「祖父の家を訪れた時、しっかり手をつないでいたはずなのに、あなたはいつの間にかすり抜けて、姿が見えなくなったことがある。」と。