第9話 戸惑い、二つ
── ひより、紫月と共に赤目と戦って
一言で停滞した時間は、椅子が床の上を滑る音で動き出した。
ひよりは音の発生源に自然と目を向ける。目の前のマルトの向こう側で、紫月が泣きだしそうな顔をして立ち上がっていた。
「……ごめん、少し、出てくる」
「紫月!」
紫月は集まる視線に対して短い言葉を投げかけてから、部屋を出ていった。それを追いかけようと立ち上がった祈里は、ひよりに目を向けて困ったように眉を下げる。僅かな逡巡の後、「ごめんなさい」と一言残した祈里は、マルトに目配せしてから紫月を追って出ていった。
住人が揃って居なくなった家に残ったのは、住人でないひよりと玉響のみ。
「……マルト、あたしはどうすれば」
「任されたみたいだし……とりあえずここで待ってましょう?」
途方に暮れるひよりに声を掛けるマルト。
その近くて浮遊しているアグニは、相変わらず沈黙を守ったままだった。
────
織辺の家から出た紫月は、そのはす向かいにある家の前に立っていた。
外に出る前に掴んで持ってきたジャケットの内ポケットを探り鍵を取り出すと、閉じられたままの扉の鍵穴に差し込みひねって解錠する。
「…………ただいま」
おかえりの言葉が返ってくることはない。それが分かっていながらも、紫月は一言こぼしてから人の気配のない冷たい室内に入っていった。
モノトーンを基調とした外観の、住宅街の中では少しだけ馴染まない一軒家。そこが、安彦紫月が住むべき、本当の家だった。
「よいしょ……っと」
家に入るとそのままリビングへ向かった紫月は、三人がけの白いソファに座り天井を仰ぎ見る。シミひとつない白い天井が視界に広がった。
「…………ん、祈里?」
「そうだよ。……大丈夫?」
「体調不良とかじゃないから大丈夫。……どうぞ」
目の中に無駄なものが入らない環境でぼんやりとしている紫月の耳に、扉が開けられた音が届く。音の発生源に顔を向けながら名前を呼べば、気遣わしげな顔をした祈里が廊下に立っていた。
気怠げに全身を預けていたソファを座り直し、端に寄って祈里の座る部分を確保した紫月は空いた空間を手で軽く叩いて座るように促す。
「ありがとう」
「いいよ」
「…………」
「…………、……」
促されるままに祈里はソファに座り、一人分の隙間が空いた空間を静寂が満たす。
今日何回目かの沈黙。居心地が悪いわけではないが、このままなにも話さないでいるわけにもいかない。そう思いながらもお互いなにを話すべきか考えて、口を開けない。
そんな状況を保った後、先に話を見つけたのは祈里の方だった。
「どうしても、ひよりちゃんには戦わせたくない?」
「……祈里は、戦ってほしいの?」
「私は、まだ悩み中……かな」
なんのクッションもおかず本題に入った祈里は紫月の横顔を見つめ、表情の変化を確認しながら話を続ける。
「だけど、ひよりちゃんやマルトの言うことは正しい。このまま二人で同じことを続けたって、限界があるもの」
「それは、分かってるんだ……僕も」
「なら、どうして?」
「……危険なことには、巻き込みたくないんだ」
遠い記憶を掘り起こすように目を伏せながら、紫月は言った。
「僕一人で対処できる間は、誰も巻き込まれて欲しくない。……もう、なくすのは嫌なんだ」
本当なら、祈里だって。
搔き消えそうなほどに小さく呟いた言葉を拾った祈里は、泣きそうなのに涙の流れない頬に手を伸ばす。ありもしない涙の跡を指先で撫でて、力なく放り出されたままの右手に手を重ねる。手袋越しのそれでもほんのりと血の通った温かさを感じて、少女は安心したように目を細める。
「私が巻き込まれにいくのは我慢して?約束だもの」
「わかってるよ」
「ふふっ。……だけどね、さっきも言った通りに、二人で出来ることには限界がある。それに、実際に戦えるのは紫月だけ。いつかきっと、守れるはずの人を取りこぼす日が来る。……そうなってから後悔したって、現実は変わらない。私はその時、きっと耐えられない」
たとえそれが相手を想うが故に出した結論であろうと、意地を張った先にある問題に対しての理由にはならない。その時になって、あの日に別の答えを出していたなら、と苦悩するだけだ。
それが重くのしかかり立っていられなくなった時のことを思い浮かべ、可能性に怯える祈里は、重ねたままになっている紫月の手をきゅっと握る。
「…………いのり」
「うん、それだけ。もうそろそろ、お昼ご飯作るね」
そしてほんの数秒。震えた手は、紫月が握り返すより先に放された。余韻も残さずに立ち上がり、家の外に向かって歩く。
「祈里」
「なに?」
「ご飯までには、ちゃんと考え終わるから」
「……うん、頑張ってね」
昼食まで。それが答えを出すために与えられた時間。
落ち着いて会話した事に効果はあったようだ。小さな笑みを取り戻した紫月は、笑みを浮かべながら手を振って祈里を見送った。
──────
一方その頃。祈里が安彦の家に向かっていた時分に、ひよりはあまり話したことのない玉響アグニと会話を試みていた。
「あー、えっと……アグニ?」
「んー?なんだー」
「アグニは、あたしが戦うの、どう思うの?」
机の上に居る赤い玉の方へ身体を向けたひよりは、間延びした返事に質問を投げかける。
紫月、祈里、マルトがそれぞれに反応を見せていた会話の中にひとつとして関与しなかったアグニがどう思っているのかを、ひよりは知りたかった。
「んー……」
「話しにくいなら、今はいいけど」
「いや、別に。どうだっていいことだし」
「え?」
しかし、質問に対して返ってきたものは、彼女が予測していたものとは全く別の答えだった。
興味ないと言わんばかりの無気力な声で、話すアグニ。
「で、でも、自分に関わることでもあるよ?」
「オレは、オレの邪魔さえされなければどうだっていいんだよ」
「そ、そう、なんだ?」
「ひより、やめときなさい。話したって意味ないわよ」
マルトしか玉響を知らないひよりにとっては、アグニの反応は意外としか言いようがなかった。
止めるなり、応援するなり、それなりの答えがあると思っていたものがなくなったことで戸惑うひよりをマルトが止める。
「アグニのことより、ほかのことを知っておいたほうがいいわ」
「えーっと……?」
「呼んでくるから待ってて」
言うだけ言って、勢いよく飛んで移動するマルトを見送り、余計に困惑する。どうしてこんなに対応が冷たいのだろうか。公園から今この瞬間まで、マルトの違う側面を見せられてばかりだ。
おろおろとしながらも、マルトが戻ってくるのを待っているひよりは、アグニが見つめている事に気付かない。
「おまたせ、ひより」
「あ、おかえりマルト……、……?」
そして数秒後、戻ってきたマルトの方へ目を向けたひよりは、見たことのないものに小首を傾げる。
そこにいたのは、マルトやアグニと同じような光の玉。しかしまだ見たことのない色をしている個体だった。
「紹介するわ。玉響のアムリタとティヴィよ」
「よろしくー」
「はじめまして。君が、ひよりかい?」
「よろしく……。ひより、です」
空色の光の玉、マルトがアムリタと呼んだ方の玉響がのんびりとした挨拶をした。
黄色の光の玉、マルトがティヴィと呼んだ方の玉響は、礼儀正しく話しかけてきた。
突然の出現に驚くひよりは、なんとか挨拶を返す。
「マルトとアグニ以外にも……居たんだ?」
「まあ、……居るわよ」
「そっかー……」
勝手に二体だけしか居ないと思い込んでいたところへと飛び込んできた二つの色に、ひよりは気の抜けた声を上げることしかできなかった。