第8話 理由
「…………マルト、理由を話して」
「紫月……」
重い沈黙を破ったのは、この場に居る誰よりも厳しい顔をして、黒い手袋に覆われた右手を握り込んでいた紫月だった。
子を叱る親のようだ。少しの怒りと強い後悔とを混ぜ込んだような紫月の表情を見て、ひよりはそう思う。姉がいたならこんな感じなのだろうかと、マルトに対して漠然と考えていた少女にとっては意外な光景だった。返す言葉が見つからないのかはっきりとしない声を出すだけのマルトも、同じぐらいの年齢に見える少年が諌めようとしていることも。
「マルト」
返答を急かすようにもう一度、名前を呼ぶ。それでも答えは思いつかないのか、蝉の鳴き声だけが公園に広がる。
そんな停滞した空気を変えたのは、鈴を転がすような声だった。
「ね、紫月?とりあえず……その、マルトといる子も呼んで、一度家に戻ろう?」
「祈里……」
「公園じゃ話、しづらいでしょ?」
「…………そうだね」
祈里の提案に頑なになりかけた心を解した紫月は、困ったように微笑みながら頷いて、マルト越しにひよりに目を向けた。
「ごめん、えっと……」
「あ、あたし?橘ひより、です」
「ありがとう。僕は安彦紫月。隣にいる子が……」
「織辺祈里です」
「オレはアグニなー」
「て、丁寧にどうも」
先程まで蚊帳の外に居たため視線が向いたことに驚きながらも、呼び掛け方を迷っている紫月を見て名前を伝える。そのお返しのように紫月と祈里、そして赤い玉響のアグニは順に名乗っていった。
二人と一体に対して、ひよりがぺこりと頭を下げたところで、紫月は元々言おうとしていた言葉を切り出した。
「橘さん。一度、詳しく話をしたいから、僕たちの家に来てくれる?」
どこか儚げな印象を与える表情をした紫月の言葉に対して、元から一昨日の事を、玉響に関係する出来事を詳しく知りたかったひよりは、願ったり叶ったりだ言わんばかりに、申し出を首を勢いよく揺らして頷きながら受け入れた。
──────
二階建ての一軒家。四人暮らしならば大き過ぎることはなく小さないこともない。庭はないが車のない駐車スペースには、いくつか植木鉢とプランターがあり色鮮やかな花を咲かせている。
そこが、紫月と祈里の暮らしている場所だった。
「お邪魔しまーす……」
「家には誰も居ないから、あまりかしこまらないでね」
「え?ああ、お仕事」
「うーん、まあそうかな」
話しかけたなら返事をするものの基本は口を噤んでいた紫月に、黙ったままのマルト、そして我関せずで自由気ままに飛んでいたアグニ。一方のひよりは、無言が続く重い空気はあまり耐えられない。そんなメンバーに挟まれていればそうならざるを得なかったのだろうが、一昨日の出来事からして仲良くなるのには時間がかかるだろうと思われていた祈里は道中の間にひよりとの距離を縮めていた。
「うわー、すっごい綺麗な部屋だね」
「掃除は基本的に紫月がしてくれてるの」
「そうなんだ?」
部屋に入っても会話を続ける二人の横をすり抜けて、既に十分綺麗なテーブルをアルコールスプレーを使って拭いていく紫月。その姿を見て、先程の会話の中に含まれている意味をなんとなく理解したひよりは室内をじっくりと見渡す。どこもかしこも、生活感が薄まるほどに整理整頓された。
「潔癖症とかではないよ」
「ひゃいっ!?そ、そう……?」
「たまに、徹底的に掃除がしたくなるだけだから」
「そっかぁ……」
潔癖症なのだろうかと、そう思っていた事を見透かしたように突然口を開く紫月。それに驚いて素っ頓狂な声を上げることになったひよりは、疑り深い目を向けながら深追いはしないようにと、その言葉に納得したふりをした。演技力はそこまで高くないので、信じきっていないのは丸わかりであったが。
「まあ、とにかく座って。客間はないからここで我慢して欲しい」
「お言葉に甘えて……。ああ、全然気にしないから大丈夫!」
促されるままに、ひよりは清潔にされた席に座る。その後に続いて目の前に紫月、祈里の順で座り、玉響二体は机の上で浮いていた。
女二人で話に花を咲かせていた時とは一変して、真面目な雰囲気が室内に広がっていく。
「じゃあ、とりあえず……。今、どこまでマルトに聞いたか教えてもらえる?」
「えっと、……まず、玉響っていうのがいて……」
この家に訪れた本題に入った紫月に聞かれたまま、ひよりは一昨日から今日までの事を、話し始めた。
────
「それで、し、安彦くんが戦ってるってところまでは聞いたよ」
「…………話してくれてありがとう、橘さん」
説明の苦手なひよりの長い話を聞き終わった紫月は、眉間に皺を刻んでいた。その横に座る祈里も思案顔である。
二人の反応にあまりにも話し方が下手だったかと不安になるひよりは、マルトにこっそりと話し掛けた。
「そんなにダメだったかな……」
「纏まった話し方ではないけれど、ダメって程ではないわ。自信を持って」
「そう?」
そんな一人と一体の会話もまともに耳に入っていないのか、紫月は黙り込んだままなにかを思案する。
そして十数分ほど経った頃、彼は重い口を開いた。
「難しいとは思うけど、今までのことはほとんど忘れてくれると、助かる」
忘れてくれ
それは、ひよりにとっては最も言われたくない言葉だった。
「なんで……」
「もちろん、赤目が君を標的にした時には全身全霊で君を助けるよ」
「そうじゃなくて」
「?」
「どうして、忘れなくちゃいけないの?」
大好きな物語を失ってしまった過去がある。だからひよりは今度こそ、たとえどんな内容であろうと、この玉響とそれに関係する出来事にはついていくつもりだった。そのために、紫月と祈里に会いたかったのだ。
だが言われたのはそんな思いとは正反対の言葉である。どうしてと、疑問を投げかけずにはいられなかった。
「ずっと探していたものがやっと見つかったかもしれない。それなのに、忘れるなんてあたしにはできない」
強い意志のこもった瞳を向けられた紫月は困ったように頬を掻きながらも、なんとかひよりの考えを改めさせようとする。
「一昨日みたいなことが起こるかもしれないんだ。巻き込まれたくはないだろう?」
「そりゃあ、一昨日のは……正直、なにも見えなくたって怖いって、そう思ったけど……」
「それがきっと当たり前なんだ。だからね……?」
「だけど!」
一瞬見せた隙を突こうとした瞬間に、ひよりは声を張り上げながら、机に手をついて椅子から立ち上がった。
「怖いからって逃げる気はない!」
「危ない事だよ」
「危なくたって同じこと!それに、紫月くん達だって同じことでしょう?それなら二人より三人でやったほうがいいじゃない」
「それは……」
言いたい事を言い切って、勢いに押し負けて言葉を途切れさせた紫月にひよりは勝ち誇った笑みを浮かべる。そして、その勢い任せのままに急に馴れ馴れしく名前を呼んでしまったことも思い出して、いたたまれなくなりそっと椅子に座り直した。
そこまでを見守っていた祈里が内心でハラハラとしている中、マルトがついに紫月に対して言葉を投げかけた。
「もういいじゃない、貴方一人で頑張る事じゃないわ」
「……マルト、やっぱりそのつもりだったんだね」
「ええ。貴方だけが荷を増やされていく必要はないもの」
「ダメだ……それは、ダメだ」
そのつもりのその、とはなんなのか。重要な部分が分からないひよりは、赤い頬のまま一人と一体の会話を見守る。
一方の祈里は内容を理解しているのか、そのやりとりを止めるべきかどうかを悩んでいるようだ。
そうしてアグニは話の意味を分かっているのかいないのか、ただ沈黙を守っている。
三者三様の反応を見せる中で、マルトは紫月が伸ばしてくる手を華麗に避けるとひよりの前に移動した。
そして、誰かの邪魔が入るより先に、その言葉を投げかけた。
「ひより、紫月と共に赤目と戦って」
その言葉は、室内に重い沈黙をもたらした。