第6話 マルト先生の講義、二時間目
愛おしい記憶を抱きしめるように、とても優しい声色でその始まりは語られた。
──────
彼女が目覚めたのは、灰色の草原の中だった。
「…………?」
まだ名前のなかった彼女は、あまりにも唐突にそこに居る"自分"を認識した。胎内というゆりかごから産み落とされた幼子のごとく、未知の世界を居場所として与えられた。
「……」
色彩のない空間で一番最初に彼女が感じたのは、意識の底に根付くような寂しさだった。
何もない、誰もいない。それは生命体に近似のものを得た彼女にとっては何かが足りない場所となる。
決して群れたいわけではない。それを考えられるほどの知識を彼女はまだ得ていない。だが固体として目覚めてしまった瞬間から、その衝動は生まれてしまう。
感情を得たがゆえの欲求。その日、後にマルトという名を貰う玉響は、世界に存在して初めて自分以外の何者かを願った。
マルトが目覚めてからそれなりの時間が流れた。
灰色の草原から灰色の海へ。単色の街を漂って、彼女は自分の存在する世界を知った。
しかしその旅の果てにも、彼女の隣に誰かは存在しなかった。
「どうしましょう、かね……」
経過する時の最中で言葉というものがあることに気付いたマルトはそれを流暢に操れるようになっていた。寂しさを紛らわせるためにも、誰にも伝わらない音を彼女は零す。
空中にふよふよと漂いながら今まで来た道を振り返って、マルトは終わりなき旅路を嘆いていた。
「どうして私はここに居るのかしら」
あまり考えないようにしていた答えのない問いをつい漏らしてしまう。せめて他の個体が居たならと、益体のないことを考えながら暗い空を見上げていた。
その時。
──やっと、見つけた
自分のものではない声が初めて、彼女の世界に届いた。
──────
聞いている側が切なさを感じるほどに情感のこもった言葉が途切れて、マルトがそっと息を吐き出す。それに合わせるようにひよりもまた集中し過ぎて詰まり気味だった呼吸を再開させ、深く息を吸い込んだ。
「それで、どうなったの?」
「そこからは色々あったから掻い摘んで話すわ。とりあえずこちら側に来たのは、あの時が初めてだった。それまではこちら側の存在さえ知らなかったけどね」
「そっか……、……その、寂しかったって」
「心配してくれるのね、貴女は」
気遣わしげに表情を曇らせるひよりにマルトは淡く球体を輝かせる。顔があったならばとても暖かな笑顔を浮かべていたのだろうと、そう感じさせる雰囲気がその光にはあった。
一人っ子のひよりは、こんな空気が姉というものなのだろうか、と場違いに考えてしまう。自分には辿り着けないであろう佇まいに憧れる気持ちを抱くと同時に、粗野な自分に対して忸怩とした思いを胸に抱いた。
そんな彼女の心境を知ってか知らぬか、マルトはひよりの頭を撫でる代わりのように頭頂部を往復する風を起こす。乱れた髪に慌てる声が上がった。
「わわっ」
「ごめんなさいね。でもやっと思い詰めた顔をやめてくれた」
「そ、そんな顔してた……?」
「してた。……私はあの日、あの人に会えて、寂しさを呑み込むほどの喜びを貰ったのよ。だからひよりが思い悩む必要はないの」
それに今、私の前には誰がいるかしら?
おまけのように言われた気障っぽい台詞に気が抜けて、ひよりは緩く微笑んだ。
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「すっかり止まってた説明の続きを話すわね」
「お願いします」
停滞させてしまった話を再開させるため初期位置のティッシュ座布団の上へと戻った緑光は、咳払いしてから続きを話し出した。
「こちら側に来て暫くして、あの人……私を連れて来た人ね?あの人は私達の仕組みを教えてくれたの」
「どんな?」
「まず最初に話したように玉響がエネルギー体であることと、それなのに感情を突然手に入れたこと。そして、二つの世界のこと。玉響の詳しい説明。あとは……赤目のことね」
「赤目?」
「昨日、少しだけでも嵐の隙間から見えなかったかしら?」
言われて、ひよりは鮮明に残った記憶を振り返る。割れた景色から覗く鮮やかな赤色の目を確かに見た。美しい炎を見た。そして──あの時、二つの赤色が対峙したあの光景にどうしようもなく目を奪われていた。
「見たわ。綺麗な火と一緒に」
「火……か。そっちはまた後日に話してあげる、先にさっき言ったことから」
心にしがみ付いて離れない瞬間を瞼の裏に蘇らせながら、問い掛けに答える。マルトにとってはこれは予測の範囲内の返答だったようだ。特に気にした様子もなく、必要なことだけを確認して残りを後に回し元の話題に戻していった。
「二つの世界。今いるこちら側と、私が最初にいたあちら側。性質的には鏡の裏表でしかないけれど、認識的にはガラスの……正確には色ガラスね。それの裏表に近いもの」
「……?」
「わかりにくいわよね、手鏡とか持ってるかしら?」
「部屋の荷物の中になら。ちょっと待ってて」
意味を理解しきれず首を傾げたひよりは一度部屋に戻って手のひらサイズの鏡を掴む。
そのままマルトの元に行こうとして、ガラスがどうのと言っていたことも思い出す。昨夜、荷物を少し確認していた時に壊れているのを見つけてしまったガラス細工の破片も一緒に持っていくことにした。
「はい、これ」
「ありがとう。……こっちはガラスのカケラ?」
「ガラス細工なんだけど、ちょっと壊れちゃって」
そう伝えながら、マルトの前に二つを並べて置く。
それに感謝を述べながら、緑の玉はまず手鏡の上に移動した。
「私が目覚めた世界は灰色だった、って言ったでしょう?」
「うん」
「それはこの鏡と同じ仕組みなのよ。鏡が像を映すには裏に銀が無ければいけない。ガラスでは向こう側が見えるだけでしょう?」
「そう、だね」
二つを見比べながらひよりが頷く。ガラス細工の破片はその下の机を見せていた。
少女が納得するのを待って、マルトは話を続ける。
「つまり鏡の裏側は、世界を映すためにある。そして鏡に映るということは、それらのものは現実に存在しているもの、ということ」
「……存在証明のために、あるってこと?」
「正解!あっち側……鏡の裏側自体は表側を認める、そのためだけにあるのよ」
「そうか……、うん。じゃあ認識の方の話は?」
頭を悩ませながら話についていくひよりは、なんとか順に理解して続き促した。マルトはそれを待っていたようで、促されるまま言葉を紡いでいく。
「認識の方は簡単な話で、あっちもこっちもお互いに見合ったとしても同じものは見えないの。色ガラス越しにしか見えていない」
「じゃあ、この机もあなたの世界では灰色なの?」
ガラスの下の木目を見せる机を指差して尋ねられた質問に、マルトは首を振れない代わりに上下に揺れて答えた。
「お互いに生まれた世界に見るものは依存する。私は無彩色の、貴女達は有彩色の色ガラスを視界に通しているの」
「マルトには、自分の光が緑色だってこともわかっていない……ということ?」
「ええ、今はね」
「今は?」
独りの寂しさを聞いた時と同じように顔を曇らせようとしたところで、返ってきた言葉に顔を上げる。
ひよりの疑問でいっぱいの瞳をマルトは面白そうに見つめていた。
「そこのところはその時が来たのなら話すわ。今は内緒」
「ええー……?」
「とにかく。今は灰色でしかないけど、色彩豊かに見えていた瞬間もあったのよ。じゃあ次ね」
内緒への追求を行わせないように話題を切り上げ次のものに移動させる。ひよりの不満が漏れてる顔はそのままだったが、そこからは有無を言わせぬ勢いで話は流れていった。
「玉響に関すること。玉響がエネルギー体だとは話したけれど、これはこちらの世界の自然現象のエネルギーが裏側の私のいた方の世界にまで瞬間的に流れているだけなのよ。だから本来は自我を持っていなかったのよね、勝手に消えていくものだから」
「えー、と」
「なのだけど、一部そのまま残っているものもあった。それが私やほかの玉響。だから玉響の個体数自体は多くないわ。旅の最中で会えなかったのもそれが理由」
「あー」
「残っている原因までは教えられなかったわね。じゃあ次の赤目に」
「待って!早い!話が早い!」
ひよりの口を封じるハイスピードの説明に、少女は目を回して止めに入った。その姿を見上げるマルトは「少しやりすぎたわ」と呟く。
少し前にもした思考ポーズをして、少女は話を整理していく。
気まずい無言の時間が続いた。そして数分後。
「とりあえず……ここじゃない世界があるってことだけは分かった、かな」
まだぐるぐるとした頭で、その結論だけは絞り出した。
「…………すんなり受け入れるのね?別世界のこと」
「そんなにすんなりかな」
「紫月達……昨日の子達は随分神妙な顔をしていたわ」
なんだかんだと受け入れるまでは早かった少女にマルトは驚く。ひよりはその反応を意外に思いながらも、自分の中でなんとなくの理由を見つけていた。
「そっか。でもそう感じるのなら……きっと、あたしは昔から不思議な世界に憧れていたから受け入れやすかっただけ、なんだと思うよ?」
「そういえば、オーブのことで盛り上がっていたものね」
「うん。昔からの夢を信じていたいの」
夢を思い描く少女は、無垢な笑顔を浮かべていた。
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「今日のところはこれぐらいにする?部屋の掃除もしたいんでしょう?」
「え、今何時……もう午後四時!?」
夢に微笑んだ後、再度思考に沈んでいたひよりはマルトの声に現実に戻され、見上げた先の時計の針の位置に大声を出して立ち上がった。
慌てて部屋に戻っていく少女の後ろを緑光が追いかけていく。
「私も手伝うわ」
「えっ、触れるの?」
「小さいものならね。あ、でもできればなにか食べ物を貰えると助かるかしら」
「食べ物……?食べるの?」
「玉響にもエネルギー源は必要なのよ」
食べ物と言われ、少し悩んでから荷物の中の未開封のお菓子を取り出す。小さなシューの中にクリームの入った、いわゆるプチシューの詰まった袋を開封して、その中の一つを渡す。
丸い甘味は、緑の光の玉に沈んでいった。
「不思議な光景……」
「この話も明日まとめてしてあげるから、今はお掃除しましょうか」
「うん」
プチシューを消費したマルトは部屋の中を飛び回り、唖然としていたひよりも段ボール箱を次々と開けていき荷物を出していく。
一人と一体の部屋の整理は、帰ってきた小父が一人にしては随分と騒がしい部屋に訪ねてくるまで続いた。