第3話 炎を纏う
吹き荒れる風、砂埃の向こう側。目を細めて小さな嵐に抗うひよりは、ヒビ割れた景色とその先にある不自然なほどに鮮やかな赤の目を見た。そして、それに立ち向かう一つの炎の美しき揺らめきを、見ていた。
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掴まれた赤い光は、握り込む力に合わせて小さなスーパーボールほどの大きさに姿を変える。黒い革手袋に包まれた右手の上にいる緑の光は、見下ろした紫月の目を見上げ頷くような揺れ方をした後、瞬きの間にひよりと祈里の前へ移動すると自分を中心にして二人を取り囲むように風を起こした。
「な、なにこれっ!」
「危ないから出ようとしないで!」
背後で二人の少女が騒ぐ声を聞き、紫月は苦笑する。祈里は本当は人見知りだ。それでも被害を大きくしないために、苦手な見ず知らずを相手に避難勧告をする役目を自ら買って出てくれた。そんな彼女に、ここまで威勢の良い女性の相手をさせていたとなると──
「よしっ、いくよ!」
「いつでもいいぞー!」
戦いを終わらせた後のことを考えて頬を緩ませた紫月は、右手で顔を叩いて気合いを入れる。世界にできた亀裂から出てきた赤目の化け物──今回は兎に似た形だ。体長は五メートルほどあり、体毛が禿げた表面には血管のようなものが蠢いている。──が誰かに手を伸ばすより先に、倒さなくてはいけない。
「『境界突破』アグニ!」
小さなアグニを口の中に放り込み、飲み込む。赤目兎を凝視していた目のうち左側の瞳には、複雑な紋様が浮き上がっていた。
そして紫月が叫んだその瞬間、身体は炎に包まれた。
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世界に産み落とされたばかりの赤目兎は、眼下の炎を不思議そうに眺めていた。
「ゥ、ウ……?」
先程まで、こちら側へ出ようとするたびに邪魔してきた生き物が居たはずの場所に炎の塊がある。
まだ知性の足りない赤目は情報を関連付けられず小首を傾げると、火に前脚を伸ばし触れようとした。
「ぐ、プギュゥ……っ」
ジジッ
火に焼かれた脚先を引っ込めた赤目兎は痛みに悲鳴を上げる。炎に怯えた顔をし無意識に逃げ出そうとした身体は、その前に火柱に捕らえられた。
「キュゥゥゥッ!ギュァァア!」
「早めに、終わらせてやるから」
苦痛に絶叫する間に、伸びてきた炎だったものはいつの間にか見知らぬ生き物に変わっていた。
黒鉄の外殻を纏ったその生き物は、赤い獣の如き爪を後脚に突き刺して地面に縫い止めながら、反対の爪を振り上げていた。その動きを認識した兎もどきは咄嗟に前脚で生き物を叩き飛ばそうとしたが、それが届くより先に身体がバランスを崩して倒れ込んでしまう。
両方の後脚は刎ね飛ばされて地面を転がった後、黒い粒子となって消えていった。
「ガァァァァアアアッ!」
前脚だけを残された獣は咆哮をあげる。
害となる生物を屠ろうと黒鉄の塊に左前脚を振り下ろし叩き潰そうとするが、手負いの巨大から繰り出される重い一撃に速さはなく、避ける事は簡単だった。
黒き鎧は風圧で土埃を巻き上げた脚を登る。身体が捻られるたびに脈打つ血管のようなものに爪を引っ掛け、上へ上へと、兎もどきの額を目指す。這い上がる生き物をはたき落とそうとした兎の右前脚の爪が背中を掠っても、駆け上がる足が止まる事はない。
黒鉄の外殻の下から覗いた肌を流れた液体は、赤目兎の体毛のない表皮に赤黒い線を引いていた。
「終わりだ……っ!」
額に辿り着いた頃には、外殻は三分の一ほど剥がされていた。顔を覆っていたものも剥がれており、紋様の浮かんだ左目が覗く。
兎を見下ろしながら、鋭い爪は額に振り下ろされる。
「ギッ、キュゥ……!」
脳天を貫かれ、赤目兎は悲鳴をあげる。逃れられぬ死の予感に支配され、今まで以上に激しく暴れようとした。
しかしそれよりも先に、兎は産まれ落ちてすぐに得た恐怖を、思い出すことになる。
突き刺された爪を起点に、高温が体内を駆け巡った。肉体を焼く炎が、巨体を飲み込んでいった──
────
公園の空を黒い粒子が舞う。
血に濡れた身体のまま、紫月はそれを見上げていた。
「紫月……っ!」
「祈里、怪我はない?」
「マルトがいたから安心して。それよりも紫月の方が……」
駆け寄ってきた祈里が汚れないようにと距離を取ろうとするも、その前に手を握られて行動を先に封じられる。
怪我の程度を確認する間に、祈里のスカートの端には赤黒いシミが出来ていた。紫月の眉間に皺が寄る。
「……あんまり汚しちゃダメだよ」
「え?……今はそういうこと気にしてる場合じゃないでしょ!」
「誰が洗濯すると思ってるの」
「は、はぁ……っ!?」
呆れた顔をする祈里に対して、紫月はどこまでも真面目な顔で血液が付着した衣類の洗濯の大変さを伝えようとする。
この少年が先程まで巨大な兎の化け物と戦っていたとは、とても思えない光景だった。
「漫才みたいな会話してないで、そろそろ逃げない?」
「ま、漫才……?」
「マルトの風、そろそろ止まるから早いことトンズラしないとすっげえ質問責めされると思うぞ」
変身を解いて、元の大きさに戻っていたアグニは、紫月と祈里の周りをくるくると回ると、公園の出口へ向けて飛んでいく。
アグニの言葉に十数分前の黒髪の女性とのやりとりを思い出したのか、祈里も紫月と繋いだままの手を引いて急ぎ足で歩き出した。
「祈里」
「何?」
「いつもありがとう」
「……?どういたし、まして?」
引かれるままに歩いている紫月は、ふと戦いの前に考えていたことを口にする。
それに不思議そうな顔をしながらも、はにかんだ少女の顔を見て、少年は柔らかく笑った。
「今日は僕が料理作るよ」
「ねえ、怪我のこと忘れてない……?」
──────
少年と少女が去った後、ひよりは一人ぽつんと公園の中央で立っていた。
「な、なんだったのアレ……?」
夢の中の出来事が、現実に存在した。その事実に対しての喜びは、とても大きかった。
しかし、その後に続いたのは、嵐の中で聞こえてきた声は。とても、子供の夢物語とはかけ離れていて──
「ひよりちゃん、お待たせ。カフェ入ってなかったんだね?ごめんね」
「あ、……小父、さん」
「?」
唖然とした少女は、迎えにきた小父の顔を見て現実に引き戻される。
とにかく今日は、ゆっくり休んで明日また考えよう。ひよりは脳の処理が追い付いていない今日の出来事を頭の片隅に置いて、小父の背中に続いて車に乗り込むと、目を閉じて思考をカットした。
「…………」
そのため、荷物に紛れ込んでいた緑の光の存在に気付いたのは、そこからずいぶん後のことだった──