第2話 夢物語に似た光景
「小父さん、まだかなー……」
意気揚々と歩き出して迷子になったひよりは、電話を掛けた後に公園の中をぐるぐると歩き回っていた。
彼女の小父からの指令はただ待機すること。土地勘もなく地図になるものさえ持たない少女に道案内をしても無駄だという判断だろう。ひより自身も電話越しの導きでは二度目の迷子になることは予想できていたため、大人しく従っていた。
時間を確認するために見たスマートフォンは、虚しく時を刻む。
「……折角、引っ越すからって買って貰ったんだし。うん、後で地図アプリ落とそう」
初期設定で入っていたアプリを除くとあたりにもすっからかんな画面。カバーもなく保護フィルムも貼っていない新品同様のそれを握りしめて、一大事を決意したかのような表情でひよりは頷いた。
────
日が暮れて、空は茜色に染まっている。
そんな時間になっても、ひよりはベンチに座って項垂れていた。
「仕事終わらせてから来るとは言ってたけどさー……近くのカフェに入ってていいよ、ってそういうことか……」
小父の言葉を思い出し頭を抱える。
ひよりは小父がなんの仕事をしているのか詳しくは知らなかった。どのくらい時間が掛かりそうなのかを訪ねるべきだったと後悔する。
自分の都合の良いように物事を捉える悪癖があるひよりは、引っ越しの初日ぐらいは小父も仕事を休むなり早めに上がるなりしてくれるのだろうと気楽に考えていた。
その結果がこれである。途中何度かカフェに入ろうとして、そのたびに動いた後で小父が来るかもしれないと不安になって、すっかり本当の意味でベンチウォーマーになってしまった。
「いい加減、持ってきたお茶もなくなるしね……」
ひよりは溜め息を一つ零すと、喉の渇きを自覚し今度こそカフェに行こうと立ち上がった。
しかしその時、視界の端で赤くなにかが輝いて、少女の目を光が焼いた。
「ッ……?!」
一拍おいて、振動。寂れた公園は静寂を保ったまま爆発を起こす。
爆炎も爆風も視認できないまま、衝撃を全身に叩きつけられたひよりは先程まで座っていたベンチに逆戻りした。
「はっ……ぁ、……な、に?」
痺れた指先に酸素不足を自覚して、いつの間にか止めていた呼吸を再開させる。足が震えて動けない事を自覚して初めて、ひよりは未知の出来事に恐怖しているのだと気付いた。
──────
黄昏時に差し掛かった街の中を、疾走する影があった。
「アグニ、祈里は?」
「ん?えーっと……多分同じぐらいの時間に着くんじゃないかって」
短い黒髪を風に煽られながら走る少年は、右斜め前に浮く赤い光球へと眼鏡越しに視線を送る。アグニと呼ばれた球体はその目に答えるように、ふよふよと揺れながら返事をした。
「……退避時間、ないかもしれないね」
「紫月はあの公園に人が居ると思ってるのか?」
「万一の可能性もあるだろ」
アグニに紫月と呼ばれた少年は、下唇を軽く噛んで眉間に皺を刻む。紫月にとってはこれが後悔したときの癖だった。
その表情を眺めていたアグニが何か言葉を返そうかと悩んでいると、不意に耳鳴りのような高音が一人と一体の間にだけ響き渡る。顔を顰めていた少年はその音に気付いた瞬間に意識を切り替えて、アグニに手を伸ばした。
「アグニ!」
「分かってるー!」
伸びてきた手に纏わりついた赤い光は、紫月の指先に小さな切り傷を作る。そしてそこから滲んだ血を取り込んで、アグニより濃い赤色をした炎を作り上げた。
出来上がった赤黒い炎の塊はひとりでに空中へと登っていく。三階建ての家の屋根より高い位置に来たところで一度休止したそれは、紫月の視線の先へと急降下を始めた。
そして、炎が地上から二メートルほどの高さまで降りてきた瞬間、なにもない空間が裂けて赤い目が覗く。
「目ぇ瞑れ!」
「ああ……っ」
その瞬間、レンズと目蓋越しでさえ知覚できる炎色の渦が巻き起こった。
──────
早鐘を打つ鼓動を鎮めようと、胸に手を当てながら深く息を吸って吐き出す。なんとか急な事態に対応するため、ひよりは怖気付く心を奮い立たせんとしていた。
「大丈夫、……大丈夫!うん、まだガタガタしちゃいそうだけど……動けなくはない!」
何度も呼吸を繰り返し、大丈夫だと言い聞かせて頬を叩く。
彼女なりの勇気の出し方が功を奏したのか、気を抜けば折れそうになる膝に手を当てながら少女は立ち上がった。
闘志の漲った目は、一瞬だけ見えた赤い光を探す。
「なにか、あったはず……見えなくたって何かが……」
理解の及ばない出来事だろうと、誰かが助けを求めているのなら、向けた顔をそらしてはいけない。これが、橘ひよりという少女の在り方だ。
決意の元にゆっくりと歩みを始めた少女の耳に、不意に鈴を転がすような声が届いた。
「そこの人!ここから逃げて下さい!」
「……え?」
振り返って声の出所に視線を向ける。そこに居たのは、同い年ぐらいに見える少女だった。
走っていたのか、肩まで伸びる栗色の髪を乱したその少女は、ズレた眼鏡を正しい位置に戻しながらひよりの側へと寄ってくる。
謎の登場人物に驚くひよりだったが、彼女の驚愕はそれだけでは終わらなかった。
「背後のは、なに?」
「え、え?なんで……見えてるの?」
栗色の少女の後ろに見える緑色の球体。それは、ひよりの記憶を彩った輝く光の玉と同じもののように思える。
そのようなものが現実に存在することへの疑問よりも先に、ひよりの心は歓喜に満たされた。緑の光を視認できたことに対して狼狽える少女の反応など無視で歩み寄る。すっかりと足の震えは収まっていた。
「その光は何?さっきの音のない爆発みたいなやつの正体は?逃げろってことは何か知ってるんだよね?怪我人は居るの?だったらお願い!一緒に連れて行って!」
「い、いや、待って待って……!」
矢継ぎ早に質問とお願いをされ戸惑う少女の手を握り、ひよりは期待に満ちた目を向ける。
答え待ちのひよりをどうにかしようとするものの、予測していなかった反応なのか少女は視線を彷徨わせて逡巡するだけだ。緊迫感のない空気が、一瞬だけ公園の中に混じり込む。
「と、とにかく、逃げ……」
「祈里!?」
「し、紫月ぃ……!」
ひよりへの対応を諦めたのか、少女は質問をスルーして握られた手を逆に握り返して、出口へ向けて歩き出そうとする。
ひよりがそれに対抗しようとした時、公園に新たな人物が飛び込んできた。
「貴方は、赤い光の玉……!?」
「人いたし!」
「だから言ったでしょ……ってもう間に合わない!」
突如現れた少年は焦った声で叫ぶと、赤い光の玉を掴んだ。それに合わせるように栗色の少女の背後にいた緑色の光の玉も並んで、少年の手の中に収まる。
そこまで目視した次の瞬間、ひよりの目の前に広がっていたはずの風景は擦れるような音を立ててヒビ割れた。