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「おかえりなさい」
「……は?」
『おかえりなさい』だなんて、それほどシチュエーションの限定された言葉も珍しいだろう。特定の場所に住まう人間が、その場所から外出しかつその場所に戻ってきた時にしか使われない。俺は確かに高校に外出して、今現在『なぜか』この家に居るのだから、用途としては全く間違っては居ないのだろう。間違っているのはその他すべてだ。
俺は――はねられたはずだ。
はねられた記憶も痛みも無いけれど、あの子供を引っ張り出した直後に、すぐそばまでトラックの顔面部分が迫っているのを見た。あの状態から脱出するなんて『絶対にあり得ない』。
だがだとすれば、俺が居るのはあの世のはずだ。断じて『俺の家の居間』なんかじゃない。
「おかえりなさい」
再度、目の前からそんな声がかけられた。俺の目の前に立っている一人の女性。
断じて俺の家族ではなく
断じて俺の友人ではなく
断じて俺の知人でもない
俺はこの生涯でこの女性とすれ違ったことすらないと断ずる事が出来る、そんな奇抜な姿の女性だった。
奇抜な姿と言っても、奇天烈な服装をしているわけでも、サイケデリックな色合いの服をまとっているわけではない。どこまでも純白なワンピースに、落ち着いた茶色の長髪。大きな帽子にはバラの意匠が施されているが、それ以外はボタンもポケットも余計な物が何一つ存在しない。奇天烈ではないが、時代を大きく取り違えたと思わせる格好だった。
彼女の閉ざされたままの瞳も相まって、まるで西洋絵画の登場人物がそのまま出てきたような印象を受ける。もしこの場所が俺の家じゃなかったら、間違いなくあの世からの使いがやってきたのだと思っただろう。
いや――俺の家にいてなお、俺は目の前の人物が天使か女神だと思っている。
「混乱しているようですね」
「あ、あなたは誰ですか? それに俺はトラックにはねられたはずじゃ……。なんで俺は俺の家にいるんです?」
「あなたがトラックにはねられたのは無かった事になりました、帰宅していたのだから家にたどり着くのは当然ですよね」
「なっ……そんな事が出来るはずがない! 無かった事にしただなんてバカげた説明が――」
「無かった事にしました。そしてあなたは生きています」
俺は絶句した。
彼女の説明が説明になっていないからではなく、そんな彼女の言葉を俺が納得してしまったから。
そんなあり得ない方法で、俺は彼女の言葉を真実だと理解した。説得でも洗脳でも無く、理解。
「無かった事にしたなら、俺が助けたはずのあの子はどうなったんですか?」
「その質問を直ぐにするあたり、あなたは私が見込んだ通りの人間ですね。大丈夫です、あの子は生きていますよ、怪我もしてません」
それもまた、説明の必要が無い。
「なら……あなたは誰で、なんで俺を助けたんですか?」
「私の名前は答えられません。あなたを助けたのはやってほしい事があるからです」
やってほしい事。
目の前の彼女のように平然と人の死を無かった事に出来る存在が、俺のようなただの人間にやってほしい事など、想像する事すらできない。もしかしたらこれは悪魔の取引で、寿命を伸ばすことと引き換えに魂を求められるのではないだろうか。
そんな俺の不安を取り除くように、彼女はにっこりと微笑んだ。
「あなたに、異世界に行ってほしいのです」
「異世界って」
そこから先は、その異世界がどんな場所なのか彼女が説明してた気がするけれど、その世界が本当にこの世界と異なっているという事以外はピンとこなかった。あまりにも常識の外の話なのだ。
俺は実感できないそれらの話をとりあえずなんとか理解して、そうして一つの疑問にたどり着いた。
「で、何で俺なんかに異世界に行ってほしいんですか?」
「あなたに助けてほしい人がいるんです」
「助けてほしい人?」
「はい」
彼女は目を閉じたまま、でもはっきりとわかるくらい悲しそうな顔で言った。
「私には助けられません。きっと他の誰にも助けられません。あなたにしか助けられないんです」
そう言われてしまうと俺は弱かった。
俺にしかできないという優越感ではなく、俺に助けられる誰かがいるという使命感が俺を突き動かす。
「わかった」
そう俺が答えるのに時間はかからなかった。
「本当にありがとうございます。では――」
そう言って彼女はどこからか一本の杖を取り出した。
否――
それは筆だった。杖と見間違うほど大きいが、たしかに先端で毛が束ねられている筆。
彼女がそれを空中に絵を描くように振るうと、その場所に色が付き、やがて楕円形の穴が現れた。宙に浮かぶその穴は人一人が通れるくらいの大きさで、奥が見えないほど真っ暗だ。
「ここを通って下さい。そうすればあちらの世界にたどり着けます」
俺は恐る恐るその穴に近づき、指先でなぞるようにその面に触れてみた。
触れた感覚が無い。
手の平を押し付けると、何もない空中で手を動かすように自然に中へ手を動かすことができる。
「そういえば、俺は誰をどんな風に助ければいいんです?」
「ごめんなさい、それも答えられません」
馬鹿な。
そんな状態で、どうやってその誰かを助けられると言うのか。
焦りがふつふつと自分の中で沸き上がるのを感じる中、俺はようやく『それ』を認識する事ができた。
なぜ俺は彼女の正体をこれっぽちも気にしていなかったのか。なぜ俺は助けるべき人間について何一つ疑問に思わなかったのか。なぜ誰にも助けられない人物を俺だけが助けられる理由について考えなかったのか。
そんな考えて当然の事を考えられない程、俺は馬鹿じゃないしお人よしでもない。ならなぜ?
だが気付いた時には遅かった。
彼女はやはり悪魔なのかもしれないという疑惑が俺の脳裏に浮かんだとき、俺は謎の穴に引きずり込まれていた。