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「キセキ~!」
目の前で、一人の女子高生がぶんぶんと両腕を振りながら俺の名前を叫んでいる。
上神奇跡。それが俺の名前で、それについて思わないことがないでもないけれど、とりあえず奇跡的な名前だとでも思ってほしい。
とにかく、名前を呼ばれたという事は俺に用事があるという事だ。俺は少し速足で、校門の横で手を振り続けている女の下へと向かった。
「遅いよキセキ。私、四時ごろからずっと待ってたんだから」
黒に近い茶髪が印象的な彼女――清水冬実は腰に拳を当てて怒っているようなポーズを取っている。実際は大して怒っていないのだろう、彼女が怒った時はもっと直接的なはずだ。
「ごめん」
俺はとりあえず謝っておいた。
でも、よく考えれば謝る必要もないんじゃないかと思う。俺は冬実と校門で待ち合わせする約束なんかしてないし、一緒に下校する約束もしていない。彼女がそこで待っていたのは、どこまでも彼女の判断によるものであり、彼女の自由意志に基づいての行動であるはずだ。だから、彼女が何時間待っていようが、それは俺を待っていることにはならないんじゃないだろうか。
まぁ、でもそれは詭弁かな、と。そうも思う。
冬実と俺の関係性を最もよく表す言葉は幼馴染、本当に便利な言葉が存在するもので、それ一言で全て説明できた気がする。そして幼馴染である俺たちは、特に約束を交わすまでもなく行動を共にすることが多く、共に下校するのもそのうちの一つだと言えた。
俺に友人が少ないのも、もしかしたら原因の一つであると、認めなくもなくもなくもない。
「今日はなんで遅かったの? どうせまた人助けとか言ってやってたんでしょ」
帰路に着きながら、冬実はそんな事を聞いてきた。分かってるなら聞かなくてもいいのに。
「まぁそんなところだよ、今日は小林さんの落とし物を探すのを手伝ってた」
「小林さんって二年の? むむむ……後輩の女子……」
冬実は不満げな表情でこちらを見上げてくる。そんな顔をしなくてもいいじゃないか。人を助けるという行いは正しく、そして正しい事をするというのは俺の性分のような物なんだから。
だから、俺は含蓄のある言葉を授けてやろうと思った。
「落ち着いてくれよ冬実。『正しく――』」
「『義を貫くこと、それが正義』でしょ。もう聞き飽きたよ」
言われてしまった。
そんなに言っているだろうか。聞き飽きたと言う事は言っているのかもしれない。
「そうしないと俺は前に歩いていけないような気がするんだよ、冬実も待つくらいなら先に帰っててくれればいいのに」
「いーの!」
「さいですか」
いいと言われてしまってはそう答えるしかなかった。たとえ冬実がどれだけふくれっ面をしていたとしても、どれだけ強く俺の脇腹を小突こうとも。かなり直接的だ、なぜかは分からないがきっと怒っているのだろう、ちょっと痛い。
「キセキは人助け人助けってさー。正義の味方を目指してるのは知ってるし、それは責められる事じゃないかもしれないけどさ」
いや、そんな物を目指していると言った覚えはない。
「人の心配ばっかして自分の事は大丈夫なの? この間の数学のテストとか何点だったのさ」
耳の痛い――いや、耳が遠いという事にしておこう。冬実が何を言っているのかよくわからない。今日も空は青く、鳥はさえずり、下校中の小学生たちの笑顔も明るかった。俺は日々の平穏に感謝すると共に、明日へのささやかな希望を持って――
「キセキ!」
俺の名前が叫ばれたのは本日二度目だった。俺は現実に引き戻される。
「ま、まぁ数学の出来はそこまで悪くなかったさ。平均点より少し違うくらいだよ」
下に。
「下に。でしょどうせ。はぁ~、キセキがそんなんじゃ家族の人も心配しちゃうよ」
「いや、父さんはどこに行ったかも分からないし、母さんは楽観的だし、兄さんが人の心配するはずないし、妹は自己中心的だし」
「そこはほら! み、未来の家族とか」
冬実の顔が少し赤くなる。大丈夫だろうか、病気かもしれない。
「わ、私はキセキの事を心配してるよ!」
「お前は俺の家族じゃないだろ」
全く、話のすり替えの上手いやつだ。だが、冬実のそんな詐術に慣れている俺は、今日も華麗に言葉のほころびを見つけて――
「バカ!」
脇腹が痛い。冬実は少し暴力的なんじゃないだろうか、病気かもしれない。
「まぁ考えてみれば、冬実が家族っていうのも間違ってはいないのかもな」
「えっ、えっ、どうしたの急に」
「長い間(幼馴染として)一緒にすごしてるし、家族(という定義)に(便宜上)加えるのも(例えとして)変な話じゃないかもしれない」
「~~ッ!」
腹が痛い。神よ、俺が何を間違えたのか教えてほしい。
「じゃぁ、勉強会しよっ! 今日はキセキの家に行くからね!」
「わ、わかったって」
かなりテンションが高くなってる冬実に、半ば無理やり押し切られてしまった。彼女は頭が良いし教え方が上手いので、悪いことじゃないのかもしれない。というか、俺が平均点近い点数を取れてるのは殆ど彼女のおかげなんじゃないだろうか。
そんな事を考えていた時、俺は気が付いた。
気が付いてしまった。
遠くに見えるトラックの運転手がスマホをいじりながら運転していることに、そしてまだ信号が赤色の横断歩道を子供が渡ろうとしている事に。
「――ッ!」
体は既に動いていた。
持っていたカバンを投げ出し、ただ真っ直ぐに走る。
車と速度を競い合うような無謀な行動だというのは理解している、だが止まる事は出来ないし許されない。
放っておいたらあの子は死んでしまうだろう。俺が助けに入っても死んでしまうかもしれない。それでも、俺はその子を助けるために全力で前進する。
今前進しなくちゃ、俺は一生前に進むことが出来ないから。
「止まれぇええええーー!!」
俺が横断歩道にたどり着いたとき、その子供は既に数メートル道路の中へ進んでいた。
だから、トラックのブレーキ音すら覆い潰すような俺の叫びは、その子供に対してだったかもしれないし、ブレーキをかけても進み続けるトラックに対してだったかもしれないし、冷淡に進み続ける時という概念に対してだったかもしれない。
だけどそんな俺の願いが叶うはずもなく、すべてはゆっくりと動き続けていた。
ゆっくりと、確実に。
ならば――
ならば、俺がそれを追い越すしかない。
「うおおおおおお!!」
俺は前方に跳躍した。
足にあらん限りの力を込め、右手を目の前の子供に向かって真っすぐに伸ばす。
その手は――届いた。
宙に浮いた状態のまま、俺はその子供の服をつかみ、後方へと投げるように引っ張った。後ろに転んで多少のけがはするかもしれないが、トラックにはねられるよりはましだろう。
俺は安堵し、そして声を聴いた。
「キセキーーーー!!!」
本日三度目のその声は、叫びよりも悲鳴に近かった。
まるで、トラックにはねられる寸前の人間を見るような。