生まれるもの
歩き始めて、どのくらい経ったかは分からないが、太陽が真上へと登っていることから、もうお昼頃だとは分かる。
道を知らないはずなのに、知っているようなこの感覚になるのは、やはり竜が自分に見せた光景とそのまま同じだからだろう。獣道も小川もあの時見た景色と同じで、自分はそれをただ辿るように歩いていた。
「……ふぅ……」
少しだけ立ち止まり、ティオは深く息を吐く。
「どうした? 疲れたか?」
「う、ううん。大丈夫だよ!」
このくらいで、体力が尽きてしまう自分が本当に情けないと思う。シオンは疲れた表情どころか、息一つ荒げていない。
「まぁ、休憩なしでここまで来たからな。そろそろ昼食でも摂るか」
「あっ……ま、まだ大丈夫だよ」
ここで、甘えてはいけないとつい、思ってしまいティオは無理やり笑って元気そうに答える。
「……全く、無理をしては元も子もないと言っているだろう」
シオンは困ったような表情でポンッとティオの頭の上に手を置く。
「お前の空元気は分かりやすいんだ」
さすがは、今まで親代わりとして自分の面倒を見ていてくれただけのことはある。
でも、弱音を吐かないようにしなければ。
シオンはいつだって、自分に合わせてくれているのだから。
「でも、本当に大丈夫なんだ。……あ! あの大きな木まで歩こうよ! あの場所まで行ったら、ご飯にしよう?」
ティオは少し登った先に、他の木とは一回り程大きく聳え立っている木を指差す。ずしんとしているその木はまるで目印のようだった。
「……今日は随分と頑張るんだな」
「え?」
「まぁ、いいさ。よしっ! あの木まで競争だ」
「えっ? ちょ……っと、待ってよぉ!!」
突然走り始めるシオンにティオは驚いて一瞬遅れをとる。
しかも疲れているので、足がそんなに上がらない。シオンはあっという間にティオと大きく距離を開けて行き、とうとう大きな木の所まで到達してしまう。
それをティオは必死に追いかけ、息を盛大に切らしながら木の根元まで辿り着く。
「も、もう……おばさん、速いよ……」
木に手を着きながらティオは息を整えようと何度も呼吸する。
しかし、シオンから反応はなく、ティオは思わず顔を上げた。シオンが呆然としながら何かを見つめている。その先を追うようにティオも視線を向ける。
それは、大きな岩だった。頭の中に流れてきた風景と同じで、苔に覆われている洞窟の真ん中にぽっかりと大きな穴が風を吸い込んでいるように見えた。
「……あれだ」
ティオがしっかりとそれを見定めながら、告げる。そして、まるで何かに引き寄せられるかのように、その足が洞窟へと向かい始める。
疲れがどこかへ行ってしまったのか、ただ洞窟に行くことだけが頭の中で浮かんでいた。
「おい、ティオ! 気をつけろ!」
ハッとしたようにシオンもその後に続く。
「間違いないよ。だって、これと同じ……そのままだ」
見えた光景を思い出すように、一つ一つ今、見ているものと当てはめていく。
「本当に……ここに、住んでいたんだ」
自分の手が最後に触れたあの感覚。それは儚いものだった。
でも、確かにあの竜は生きて来たのだ。
洞窟までごろごろと大きい石が転がっているため、歩きにくいにも関わらずティオは必死に洞窟へ近づこうと手当たり次第に岩に手をかけて登っていく。
動くことは、得意ではない。それでも、今の自分をここまで動かしているのは、約束を叶えるためだ。
岩を登り上がり、ティオは洞窟の入口へと向かう。地面は何か重いものを引きずった跡が深く、洞窟の奥まで続いているようだった。
入口の前に立つと、背中から吹く風が洞窟の奥へと吸い込まれ、不思議な音を作る。普段の自分ならば、怖いという気持ちが生まれて先に進めなくなっていただろう。
でも、今は違った。
「ティオ! あまり、無闇に進むな! 奥に子竜の卵があるとは言え、用心するに越した事はないぞ」
追いついたシオンはティオの腕を軽く引いて止める。
「大丈夫だよ」
洞窟の真っ暗な先を見つめたまま、ティオははっきりと告げる。
「行かなくちゃ……。向こうで、呼んでる気がするんだ」
風の音色と一緒に、聞こえるこの声。それは、自分に願いを託したあの竜の声なのかは分からない。ただ、悲しい気持ちが少しずつ湧き上がってくるのは分かる。
この気持ちを自分は味わった事がある。
「……仕方ないな。だが、こんな暗闇を歩くには火が必要だろう?」
そう言って、シオンは鞄の中からランプとマッチを取り出す。
「マッチが湿気ってないといいんだが……おっ、点いた」
ほんわりと優しい灯りが洞窟の暗闇を照らしていく。
「これなら、歩けるだろう?」
少しだけ得意げな表情でシオンは笑う。どうやら、自分は突っ走っていたらしい。それを後悔するようにティオは肩を竦めた。
「そうだね。ありがとう、おばさん」
「だから、おばさんって言うなっ!」
二人のその声は洞窟の中で反響していく。本当に空っぽのようだ。
「……行くか」
「うん」
先を照らしつつ、二人はゆっくりと前へ進んでいく。ランプで照らされるその空間は、ただ闇が続くだけで、何もない。
……こんなにも真っ暗な場所で、あの竜は過ごしていたんだ。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。この場所で生きることを強いられているわけではないのに、どうしてこんなにも寂しい場所に住んでいるのか。
「……竜って何を食べて生きているの?」
「ん? ……昔読んだ古い書物によると、大体のものは何でも食べるらしい」
「何でもっ?」
もしや、人間も食べることがあるのだろうかと驚いたティオはすぐさまシオンの方へと振り返る。
「あぁ。だが、殆どの竜は綺麗な水と空気さえあれば生きていけるんだそうだ」
「えぇ? でも、それって体に悪くないかなぁ」
「元々、竜は自然が生み出した生物だからな。自然の中に漂ってるエネルギーを摂取することで、彼らは何百年も食い物を食わずに生きることが出来る……と、書いてあったが本当のことかどうかは分からないな」
何か胡散臭そうなものを思い出すようにシオンは遠くを見つめながら答える。
「そっか……」
本当に、彼らは何も知らずにただ「大地の竜」としてこの場所にいたのだ。
「ん? なんだ、あれ……」
シオンの言葉にティオははっとして、前を向く。ランプの灯りの先に見えたのは天井から差し込む一筋の光。
それは暗闇の中に灯る唯一の光だった。
「あれって……!」
それを見つけたティオはすぐさま走り出す。地面の上は柔らかく、全て葉っぱで埋め尽くされていた。 その上を蹴り上げるたびに、地面から葉が舞い上がっては再び落ちていく。
近づけば近づくほど、その光の下で白く輝いているものが露になった。
「やっぱり……」
その光ものの前でティオは立ち止まり、一呼吸する。
丸く、白く、輝くそれは本当に美しいものだった。それはまるで宝石のように光り、そこに佇んでいた。
「これが、竜の卵……」
「あの竜の子ども、か」
追いついたシオンが身を屈めながら、その卵をじっくりと眺める。
「うん、同じものを見せてもらったんだ。……でも、卵って温めなきゃ生まれてこないんだよね? もしかして、この卵の子……死んだりしてないかな」
泣きそうな表情でティオはシオンに振り返る。
「そうだな……だが、この場所は外に比べて暖かい気がしないか?」
「そういえば、そうかも」
もしかすると、この洞窟は卵を守るために、暗く狭いのかもしれないとふと思った。
ティオは卵の方へと再び視線を向ける。卵は自分の頭の大きさほどあった。暗闇の中にぽつんと浮かぶたった一つの卵。
あぁ、そうか。
この寂しさと悲しさをあの時、感じた理由が分かった。
この卵の子は生まれたとしても、独りなのだ。親もいない。兄弟もいない。自分の肉親がこの世界に居ないまま、生まれてくる。
愛というものを知らずにこの子は生まれてこなければならない。
あの時、感じたあれは「孤独感」だ。
目の奥に熱いものが伝わってくるのが分かったが、ティオはそれを留めようと我慢した。今は、泣いている時ではない。
この子が生まれて来た時、どうしたら寂しくないか、どうすれば幸せだと感じてくれるのか考えなければならないと思った。
ティオは手を伸ばし、卵をそっと撫でる。
「大丈夫だよ。……だから、生まれておいでよ」
今度こそ、守る。大切な存在を。遺してくれた希望を。
その時、何か小枝を踏んだような軽い音がした。ティオは今、触っていた卵の肌触りが先ほどまでと違って、滑らかではないことにすぐ気付く。
「お、おばさん、卵を照らして!」
「え? お、おう」
シオンは卵のすぐ傍にランプを持って行き、照らしてみせる。綺麗で凹凸の無かったはずの表面には上から下にかけて、小さなひびがいつのまにか浮かんでいた。
「っ! ……ひ、ひびが……」
「なに!?」
「で、でも、僕触っただけでそんな乱暴には扱って……」
ペキッと、皿が簡単に割れてしまったような音が響いた。シオンに弁解していたティオが卵の方へ振り返る。
音はひびと共に少しずつ増えていく。そして、卵の頂点の部分から、白い何かがひょっこりと顔を出したのだ。
「ピィ」
ひと鳴きしたそれは、目が見えていないのか頭を横にゆらゆらと振っては、どうにかしてこの硬く狭い殻から出ようともがいている。
やがて、卵には大きな亀裂が生まれ、それが全体へと伝わり、あんなにも硬そうだった殻はコロコロと小さく音を立てながら、その場に落ちていく。
「ピィ?」
殻が破れ、全体を見せたそれは、紛れもなくあの竜の子どもだった。ぶるぶると一度身体を震わせて、ぺたん、と尻餅ついたようにその場に座り込む。
白い身体に光る鱗。
まだ、目はちゃんと見えていないようだが、それでも、背中に生えている小さな羽は竜である証拠だ。
「お、おば、さん……」
呼吸することさえ忘れていたティオは思わずシオンの袖を握る。
「私も……竜の子どもを見るのは初めてだよ。しかし、驚いたな……」
目を逸らせないまま、シオンが声を少し掠れさせながら答える。
「ピィ……ピィ、ピィ……」
小さく鳴き続ける子竜の姿はまるで、親を求めるようだった。
抱きしめたいと思った。小さな身体を使って縋るように親を求めて、ただ鳴く。それは人間も竜も同じなのだ。
ティオは鞄の中から、防寒具として持ってきていた一枚の布を取り出す。それを目が見えないまま鳴き続ける竜の身体にそっと纏わせて、震える手でその竜を優しく、ゆっくりと抱きかかえる。
「ティオ……」
「生まれてすぐに、触ったらこの子の皮膚を傷つけてしまうかもしれないし、温かくしてあげないと風邪をひいてしまうかもしれないから」
小さな腕にうずくまるのは、小さな身体。
温かい。軟らかい。
身体が上下に揺れるのは、息をしているからで、それは生きているからだ。
そうだ、この子は生きている。生まれて来たのだ。
親の顔を知らぬまま、たった独りで知らない世界に。
強く抱きしめすぎないように気をつけながら、ティオは竜の顔を見る。
先ほどまで、鳴いていたはずの竜はいつの間にか泣き止み、大人しくティオの腕の中でもぞもぞと動いてから、ひょこっと布の中から顔を出す。
つぶらな瞳は真っ直ぐティオを見つめていた。
「あぁ、やっぱりだ」
ティオは嬉しそうに呟く。
「おばさん、この子を見て。……ほら、やっぱりあの竜の子だよ。こんなにも瞳がそっくりだもの」
そう言って、竜の顔を見せるティオは泣いていた。とても、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、ただ、嬉しそうに泣いていた。
「……本当だ。そっくりだな」
竜の顔を見たシオンも笑みを浮かべる。
この子は一人ぼっちだ。
愛も寂しさも分からないまま生まれて来た、小さな命だ。
でも、知らないならば、自分が教えてあげればいい。この子の親が、どんな竜で、どれ程優しく気高く美しい心を持った竜なのかを。
そして、たくさんの優しさを教えてあげたい。愛情を伝えてあげたい。色んな事を感じて、生きて欲しい。
「ねぇ、おばさん」
ティオはシオンへ真っ直ぐ顔を向ける。あどけなさの残るその表情が一瞬だけ、大人のものへと変わった。
「僕、この子の親になりたいんだ」