レンタルビデオ店の彼女
それは、ファミリー向けコーナーの中央に、でかでかとPOPをかかげて並んでいた。パッケージを手に取ると、青い髪の女の子が魔法のステッキをどや顔で振りかざしている。
俺は、ケースを握る手に汗を滲ませ、客足が途切れたところを見計らってレジに向かった。果たして、カウンター向こうの彼女は、どこまで客の買い物かごの中身を覚えているだろうか。
頭頂部で髪を結わえる眼鏡っ娘。マッハでレジを叩き、袋に入れたDVDを表情ひとつ動かさず無言で押し付ける。通った鼻筋に小さな顎。光が反射してレンズの内側までうかがい知ることはできないが、期待は高まるばかり。歳は、同じくらいだろうか。胸元のネームプレートには中浦とあった。
「山田さん、さっきから中浦さんの話で持ち切りですね。ぼく焼いちゃいますよ」
彼は、するめいかを噛んで、しまりのない顔をした。むき出しの上半身にうっすらと筋肉が浮かび上がっている。風呂上りの黒髪から水滴が落ちるのを見て、俺は、カーテンレールにかかっているタオルを投げつけた。
「うちは、火気厳禁だ。もちろん、俺以外」
俺は、加え煙草の先を赤く燃やした。川嶌が枕元の灰皿を厭味ったらしく、中央のローテーブルに音を立てて置く。
ワンルームの四角い部屋は、貰い物の大型テレビに、アパートのごみ集積場から拾ってきたテーブル、格安で手に入れた中古の二段ベッド。それに加えて、一向に片づけられることのないごみの山で埋め尽くされていた。
そばに落ちていたファッション雑誌に舌打ちする。目の前の長い手足が、いやに腹立たしく思えた。本来、彼は俺と縁のない人種なのだ。顔が取り柄のファッションモデル。それが、どういうわけか、凡庸な大学生の日常に興味を持ったらしい。
「川嶌くん。それは、なんだろうか。それだよ、君が今、手にしているその缶。俺の記憶が正しければ、確かそれは、家の冷蔵庫にあった最後の一本だったような気がするのだが。おかしいな」
川嶌は、右手に持っている発泡酒のラベルをちらと見ると、一口味わってから差し出した。
「飲みます?」
ごみ屋敷のモデルは、また、ぐびりと酒を喉に流し込む。
「それにつけても、レンタルビデオ店の彼女、面白そうな子ですね」
そもそも、どうして、俺が、店員にまで詳しくなるほどビデオ店に通いつめることになったかというと、それは、川嶌が元凶だった。
「川嶌。いい加減DVDくらい自分で借りたらどうだ」
「だって、ぼく学生じゃないし」
この店、最大の利点は、学割制度である。学生証を提示すると最大半額の割引サービスが受けられるのだ。
「それに、なんだかんだ、山田さんが店に通う口実を提供しているわけじゃないですか」
翌日も俺はビデオ店の前にいた。自転車を止めてから、腕で汗をぬぐい、ガラス扉に急いだ。ドアを押し開くと同時に冷気が溢れだし、けたたましいばかりの蝉の声は、店内に流れていた流行りの曲に遠くなった。慣れた手つきで、レジ横の返却ボックスに、借りていたアニメをバッグごと滑り入れる。そういえば、この店を利用するようになって数ヶ月、客もスタッフも見かけなかったのは、この日がはじめてだ。コンビニサイズの小型店舗は、大通りを挟んで大学の向かいに立地している。店内は、常に、暇を持て余した学生寮の連中どものたまり場になっていた。ところが、今日は、どうしたものだろう。とくに気になるのは、スタッフオンリーの赤文字の暖簾の先だった。ふとカウンター前のバラエティーコーナーで中浦さんを待って時間をつぶすことも考えたが、頭上の監視カメラを見て出口に向かうことを選んだ。重いドアを引くと、一瞬光に目がくらみ、たちまちのうちに熱風と蝉の声に引き戻された。
今日は厄日か。アパートを睨み煙草を加える。Tシャツが身体に貼りついて離れない。どうやら、俺が店から出てくるまでのわずかな時間に自転車を盗まれたようだ。おかげで、ビデオ店から自宅までの40分、灼熱地獄を味わうことになった。
それにもかかわらず、俺は、まだ部屋で涼むことができないでいる。というのも、家に入れないのだ。厳密に言えば、入ることはできるのだが、どうも室内の様子がおかしい。
玄関を開けたときからすでに、違和感はあった。何だ、この甘ったるい匂い。ワンルームの細い廊下を通って引き戸を開け、声が出た。なっ、なんじゃこれは。フローリングの床を見たのは、ここに引っ越してきて以来のことだった。衣類は、ラックにかけられ、教科書は買った覚えのない本棚に整頓されている。おまけに、中古の二段ベッドが、清潔に用意された折り畳み式ベッドに変わっているのだ。どっきりにしては、なんてスペクタクル。さらに、デスクに乗っている郵便物が、俺の心をかき乱した。光熱費の請求書だ。見ると、身に覚えのない世帯主の名前が印字されている。“田島のりお”
もしや部屋を間違えたかと、あわてて外に飛び出し表札を確認したが、俺の住んでいる部屋号であることは、パネルの103の数字が証明している。
川嶌が現れたのは、俺が駐輪スペースで3本目の煙草に火をつけた時だった。バイクでさっそうと現れた彼は、エンジンを止めるなり、俺に目もくれず、アパートに入ろうとした。
「まさか、それはないだろう、川嶌くん」
足を止めて振り返った彼は、間の抜けた顔をした。俺は、続ける。
「俺の知っている限り、こんなことを思いつくのは、きみくらいのものだ」
彼は、ますます、あほな顔をした。
「…誰?」
からかっているのか。
「部屋。俺の部屋をどうしてくれたんだ」
「きみの部屋?」
往生際の悪いやつだ。
「ああ。川嶌くん、きみが毎日のように、押しかけてくるあの103号室だよ」
「103号室なら、のりさんの部屋だ。よくわからないけど、一緒に来るかい?」
何度、見渡しても、懐かしい我が家の面影がよみがえることはない。部屋の中心で立ち尽くす俺を見て、何を思ったか、川嶌が、真顔で妙なことを聞いた。
「きみの名前は?」
とことん、馬鹿にしてやがる。俺は、キャスターチェアの川嶌に、尻ポケットの財布から学生証を投げつけてやった。川嶌は、食い入るように、そいつをむさぼり見ながら言った。
「同じ大学だ。ぼくものりさんも、ここの2年生なんだよ。でも、この学生証には、君の名前がないね」
「ん、お前、学業とは無縁の専業モデルだろ?」
「休業中。……なるほど、だったら、はじめから、そう言えばいいものを。きみ、ぼくのファンだろう」
締めるぞ、川嶌。いや、今はそれどころじゃない。
「ちょっと、それ返せ」
川嶌から学生証をぶんどると、片頬が痙攣するのが分かった。名前どころかあらゆる項目が空欄になっている。慌てて、出した運転免許証も、顔写真、名前、住所の個人情報がすべて空白になっていた。
動転したまま、もう片方の手でスマフォの電源を入れる。反応しない。
川嶌の携帯で問い合わせたところ、アパートの管理会社から、賃貸契約者の名義が“山田”ではないことを知らされた。そして、俺を貶めたのは、次に掛けた番号で聞いた『うちに息子はおりません』という母親の抑揚のない声だった。
ベッドに腰掛け、廊下に通じる木製の戸口を見る。酔った勢いで、凹ませた跡がなくなっていた。
「それはパラレルワールドですね」
川嶌が、ふむ。と顎をさする。
「川嶌くん。どうして、そうなるのかな」
「記憶障害や、政府の陰謀説より、夢があって楽しいじゃないですか」
持つべきものは、馬鹿な友人かもしれない。この状況でまだ正気を保っていられるのは、彼のおかげだと思えるからだ。
「だって、山田さんの視点からすると、まさに、どこぞのアニメーション的展開じゃないですか。ポイント高いですよ。異世界もの」
「知るか、お前のアニメ好きに付き合ってられるかよ」
「とにかく、すごいことです。ビデオ店から平行世界に出かけるだなんて、誰しも、経験できることじゃありませんよ」
「なら、代わってみるか。俺は、一向に構わんぞ」
気が付くと、カーテンの隙間から、西日が差し込んでいる。
「きっと、事情を話せば、のりさんも力になってくれますよ」
「お前、その“のりさん”は、いつ戻ってくるんだ」
「もう帰っていてもおかしくない時間なんですけどね。アルバイトが伸びているのかもしれないな……」
「ふうん。どこで働いてるの?」
「大学向かいのレンタルビデオ店ですよ」
川嶌は、はっと息をもらした。
「もしかして、山田さんの言っていたビデオ店って、そこですか?」
川嶌、それを早く言わないか。
「ああ、半日で店が増えていない限り、おそらくな」
「じゃあ、のりさんのバイト先が異世界への入り口だったわけですか?これって、偶然にしちゃあ、出来過ぎた話ですね」
「俺もそう思う」
「山田さん、ぼく付き合いますよ」
「まだ、なにも言ってないぞ」
「だって、もう目が玄関に向かっているじゃないですか」
ドアノブを回したところで、足が止まった。見覚えのある女の子がその場に立っているのだ。
「遅いじゃないですか、のりさん。危うくスペシャル大イベントを見逃すところでしたよ。何を隠そう、こちらの山田さん、もうひとつの地球から本日、ワープしていらしたのです」
川嶌の声を背中で聞きながら、アパートの共用部に立っている彼女をまじまじと見つめた。髪を解いた彼女は、店で見るより、あどけない。ずばり、好みだ。
「川嶌。彼女……」
「はい。のりさんですよ。中浦紀子さん。103号室の住人です」
なんと、川嶌のいう“のりさん”とは、あのレンタルビデオ店の彼女であった。
「じゃあ、田島のりおって言うのは……」
中浦さんが口を開いた。
「母方の祖父よ」
俺たちは、彼女と一緒に、とっぷり日の暮れた道端から、ビデオ店の中を眺め見ている。期待は裏切られてしまったようだ。帰れない。絶望の淵にいる俺とは対照に、両脇のふたりは、生き生きした会話を繰り広げていた。
「それだけ、彼の元居た世界と、ここが似通っているなら、もうひとりの山田さんだけが存在しないのは妙だと思わない?探してみましょうよ」
「いいね、のりさん。何か手がかりがあるかもしれない」
川嶌の歯が店明かりで一層輝いた。レンタルビデオ店の彼女は、想像していたより、ずっと柔軟な考えの持ち主らしい。
アパートの最寄駅から電車で約2時間。気乗りはしなかったが、今日は、川嶌に付き添われて、もうひとりの俺の存在を確かめることになった。生憎、提案者の中浦さんはアルバイトだ。正直、今、俺は、彼女がクローゼットから出してくれた男物の着替えの方が気になっている。
久しぶりに見る2階建て住宅は、俺の知っている実家のままだ。表札には、山田の文字。足元には、家庭菜園のプチトマトがなっていた。俺を探すなら、まず、ここを訪れないわけにはいくまい。
「出ませんね」
ふたり同時に建物を見上げる。留守か。俺は、プランターの前にしゃがみ込んだ。
「山田さん、何するつもりですか」
本当に俺の家と、うり二つなら、この鉢植えの中に合鍵が埋まっているかもしれない。しっとりした土に手を入れる。
――俺が、まだ小学生の頃、首に鍵をぶら下げて、遊びに出かけたことがあった。泥まみれになって家に戻ると、鍵がどこにもない。母さんは出かけていて、父さんも夜になるまで帰らない。夕焼けが沈んでいくのが、妙に心細く思えて、膝を抱えて泣いたのを覚えている。それからだ。母さんがここに鍵を隠すようになったのは。
俺は、砂まみれの透明袋を川嶌に掲げた。中の鍵が、太陽光をはね返して二人の目を細くさせる。
玄関を開けて階段を上がったところが俺の部屋だ。扉の先は、中央の蒲団を囲うように、食べかけのカップ麺や空き缶、ダイレクトメールの束で散らかっていた。入り口付近に掛けられたカレンダーには、7月13日に○がついている。
「昨日に印があるぞ」
「山田さん、それは、先月のカレンダーですよ」
「なんだって。……おい、今日は、何月何日だ?」
「8月8日です」
確か、昨日、DVDを返却する直前に見た俺のスマフォの待ち受けは、7月13日13時40分だった。
『今、着いたわ』
階下から、鍵穴の音に続いて、女の声が聞こえてきた。慌てて、川嶌に無言で合図する。“静かに“
叔母さんの声だ。携帯電話で誰かと話しているらしい。叔母は、母の妹で、顔を合わせるたび、彼女はできたかと、囃し立てるような、正直、苦手な人だけれど、いつも俺のことを気にかけてくれていた。
『あら、スニーカー』
しまった。後悔しても、もう遅い。俺たちは大胆にも玄関に靴を脱いで上がってきたのだ。
『ケンイチくんのね。ううん、なんでもないのよ、こっちの話』
“ケンイチ”俺の名前だ。やはり、もうひとりの山田ケンイチは存在したのか。
動揺した俺は、彼女の気配がすぐ近くまで迫っているのに気が付かなかった。
「山田さん、煙草の吸いすぎはよくないですよ」
「ああ、俺の隣にいたら、お前のイケメンも衰えるぞ」
この公園は、街から一段小高いところにあって、地元では、ちょっとした夜景スポットとして知れている。俺は、ベンチに反って、日の傾きはじめた空に煙を吹きかけた。川嶌は、それなりに気を遣っているようで、他に何も話しかけてこようとはしなかった。
あの後、叔母さんは俺と目が合うなり、携帯を床に落として、逆さまにすっ転んでしまったのだ。そういうわけで、俺は、川嶌を連れ、自分の家から逃げ出さなければならなくなった。殺人鬼を見るような叔母さんのあの真っ青な顔が頭を離れない。
暗くなる考えを遮ったのは、スマフォの電子音だった。条件反射で手を後ろに回したが、もちろん、俺ではない。
「ちょっと出てきます」
携帯を耳に当てる川嶌を手で払いながら、俺は、ベンチを立って、柵によりかかった。背後から男女の声が聞こえる。夕焼けが街のバカップルを呼び寄せはじめたようだ。俺は、一人、紫煙と戯れる。
「……また鍵なくしたかな」
灰が手の甲に当たり、煙草が指の隙間を滑り落ちた。あつっ。
「山田?」
声のする方を見ると、そこに図体のでかい男が立っていた。
「牧瀬、お前、牧瀬か」
ベンチに座りなおすと、久しぶりに顔を合わせた高校のクラスメイトは、相変わらず、とろくさい顔で笑った。当時からたいして仲がよかったわけでもないのに、それが、どうして、彼といると、こんなに、安心するのだろう。
「牧瀬、お前またこんなに太りやがって」
俺は、ご機嫌で肉厚の肩を叩いた。
「ああ。嫁さんにいつも叱られるよ」
「お前、結婚したのか」
彼は、照れたように、こくりとだけうなずいた。そうかそうか、とまた叩く。
「山田も元気そうだな。やっぱり、あれはただの噂か」
牧瀬を見送るころには、街頭に明かりが灯っていた。
「山田さん、帰りましょうか」
暗闇から川嶌が顔を出す。
「先に戻ってるかと思ったよ」
「今のあなたを一人にできるわけないでしょう。それより、山田さん、どうかしましたか?」
俺は、半ば放心状態だった。
「牧瀬が言うんだ。どこかの“山田ケンイチ”が死んだとか」
へっくしょい。自分のくしゃみに驚いて、鼻を啜る。
「いくら夏だからって、夜に半袖Tシャツだけじゃ、冷えますよ」
川嶌は、自分の着ている薄手のジャンパーを脱いでよこした。
「すまん。なんだか、俺、かっこわりぃな」
「ぼくと山田さんの仲じゃないですか」
「あったわ。川嶌くんの言った通りね」
中浦さんは、キャスターチェアをぐっと机に寄せて前のめりになる。俺は、彼女の背後からパソコンを覗き込んだ。画面には、新聞の記事が表示されている。川嶌は、顔の広いのをいいことに、もうひとりの“山田”の身元を別ルートで探っていたらしい。公園にかかってきた電話が、まさに、調査の結果を知らせるものだったという。隣でけろっとしている横顔を見るとなぜか腹立たしくも思えてくるが、こいつが、この世界の“山田ケンイチ”の正体をはっきりさせることになった。
『7月13日13時59分××大学から男が人を切り付けたと通報が入った。14時2分、同校内Bホールにて、田中たけし(21)が刃物を振り回しているところを駆けつけた常駐の警備員2名が取り押さえた。職員数名が切り付けられ、一般の山田ケンイチさん(21)は、病院に搬送された後、死亡が確認された。その日、××大学では、2年前の入学試験に大規模な採点ミスが発覚した不祥事から、対象受験者に向けて、謝罪と今後の対応についての説明会がなされていた。男は、その参加者であるとみられている。事件は、説明会開始から5分ほどで発生し、わずか数分の出来事であったという』
これで、叔母さんの尻もちにもうなずけた。母さんの『息子はおりません』とは、“もう”おりませんということだったのか。
「ぼくが電話で聞いた話では、こちらの山田さんは、大学受験の後、契約社員として自宅近くの工場で働いていたらしい。そして、2年前の不合格通知が誤りだと知った彼は、今回の説明会に参加して事件に巻き込まれてしまったようだ」
中浦さんは、我慢できないとばかりにしゃべりはじめた。
「不謹慎であることはわかっているけれど、それでも、私、驚きを隠しきれないわ。山田くんの話を裏付けるように、ひとりの人物を探し当てたのよ。本当にもうひとつの地球が実在するだなんて、ミステリアスだわ。あなたの世界にも私は居るのかしら。そういえば、私たちって不思議なくらい同じね。同じ大学、同じアパート、それに川嶌くんね。向こうでも、接点がありそうじゃない?」
“同じ”か。確かに。もし、彼女もこの世界の山田ケンイチと同様に、2年前の大学入学試験の被害者のひとりだったとしたら、彼女が殺害されたもう一人の俺と同じ運命を辿ることになるのだとしたら、このトリップには意味があるのではないか。俺の仮説を証明するものはないが否定する根拠もまた、ないのだ。
「川嶌、バイクの鍵かせ」
「運転するつもりだったら、渡せませんよ。山田さん、こっちじゃ無免許なこと忘れてませんよね」
歩けばよかったと、今なら思う。いや、男にしがみつくのが嫌だって言うわけじゃない。まあ、それも、多少の抵抗はあるが。こちらの川嶌の心には赤信号の文字はないらしい。
「見えてきましたよ」
大通りの先に、小さく古ぼけた店舗。あれだ。
「川嶌、こっちのビデオ店は24時間営業じゃないのか」
「どうしてだろう、電気が消えていますね」
やはり、何か変化があったのだ。
「山田さん、落ち着いて聞いてください」
川嶌が声のトーンを落とした。嫌な予感。
「さっきから、ブレーキがきかないんです」
彼は、空気を掴むようにブレーキレバーをカチカチ握ってみせた。
「ばっ、だから、日頃から点検しておけとあれほど言っただろうが」
「初耳です」
くそう。このままじゃ、まずい。
「山田さん。いっそビデオ店にバイクごと乗り込みましょう。ほら、雷に打たれて、入れ替わった魂が元に戻ったりするじゃないですか。あれですよ。駄目でも、幸い上り坂でスピードは落ちてます」
「だあほ。そんなことしてみろ。もし、俺が帰れたとしても、お前、明日のワイドショーの餌食になるぞ。仮にも芸能人だろうが」
「もうひとりの“のりさん”の次は、ぼくの心配ですか。あなたが男でよかった。帰したくなくなるところです。山田さん、もし戻ることができたら、覚えていてください。過ぎてしまったことはどうもできませんが、未来は必ず変えられます。……歯食いしばってくださいね。行きますよ」
「ああ、わかった」
「お客様、大丈夫ですか」
薄目を開けると、黒いエプロンの男が俺を見下ろしていた。上半身を起こして、自分の腹にかけられた毛布に気付く。流れてきた店内アナウンスで、ここが、ビデオ店のスタッフルームであるとわかった。どうやら、俺は、店の入口で倒れて、このソファに寝かされていたらしい。
彼は、簡易式冷蔵庫から水の入った500ミリリットルのペットボトルを差し出した。
「きっと、日射病じゃないでしょうかね」
水を受け取るために腕を上げると、公園で川嶌に借りたままになっていた派手なジャンパーの袖口が光った。
冷蔵庫の上に置かれたデジタル時計が、7月13日13時55分を表示している。
大通りに面した大学の正門前には、会場案内の立て看板が出ていた。
『平成○○年度入学試験追加合格対象者および保護者様 説明会 Bホール』
エントランスを駆け抜け、中庭を横切る。
「山田さん、何慌ててるんですか」
ベンチから這い上がった川嶌に呼びかけられた。よくまあ、いつも他人の学校で寝られるものだ。
「川嶌。警察だ。警察呼べ」
「ふあん?」
「今、話してる時間がないんだ。俺を信じろ」
俺が走り去る時、奴は、寝ぼけ眼で頭を掻いていた。
B棟の東階段を上がった突き当りに、120人を収容するホールがある。廊下の向こうに扉が見えたとき、手元のスマフォが13時56分に変わった。あの新聞記事だと、もう誰かが切り付けられるころだ。立ち止まったそばに、防災用の赤い箱があった。
「火事だ!」
俺は、勢いよく、ホールの取っ手を引き、場内の視線を一手に集めた。前方のスクリーンに向けて設置された椅子の数は、定員人数をはるかに超えている。けたたましい火災報知器が響く中、みな一同に、疑問符を頭上に掲げたまま誰ひとり動こうとはしなかった。その時。
「何してるんだ。もう、この校舎に残っているのはあなたたちだけだぞ!」
振り返ると、青筋を立てて声を張り上げる川嶌の姿があった。ひとりが立ち上がり、あとからあとから人々が出口になだれ込んだ。
「山田さん、助けにきましたよ」
川嶌の演技力に感心する間もなく場内から一際甲高い声がした。目を凝らし、逃げ惑う人の中から声の持ち主を探し出す。その男を視界に捉えたとき、やつは、ぎらりと光るものを振りかざした。サバイバルナイフだ。そばに、中浦さんの姿。やっぱり、参加していたのか。
『火事なんかで死なせてたまるか。今日は、俺が主役なんだ!』
中浦さん。中浦さん。俺は、川嶌を振りほどき、たくさんの肩にぶつかって、彼女のもとに走った。
『あああああああああああああああああ』
男の奇声。あいつの矛先は、まっすぐ中浦さんに向かった。
俺が彼女に手を伸ばすと、レンタルビデオ店のその人は、長い髪をなびかせて、こちらを向いた。彼女の髪があまりにゆっくりと揺れるものだから、俺は、その毛先をずっと目で追い続けていた。そして、ついには、抱き付くような恰好で中浦さんに被さり、男のナイフをまともに食らった。左わき腹に衝撃。気になる彼女の甘い香りを嗅ぎながら、俺は、その場に崩れ落ちた。誰かの悲鳴と警察車両のサイレンが、小さくなっていく。
「そっちは、どう?もう慣れてきた?」
『そう簡単にはいかないわよ』
ノートパソコンの中の中浦さんが笑う。彼女は、大学が提示した進学を選ぶことなく、例のビデオ店に就職した。東南アジアでは名の知れた企業だったらしく、中浦さんは、インドネシアの本社で研修を受けている。国際科の講義で、欠伸してるよか、よっぽど、勉強になるだろう。
『便利な世の中ね。クリックひとつで山田くんの部屋と繋がれる。そうだわ、あれから傷口はどう?』
川嶌が後から俺のスエットをまくりあげた。「ほら、この通り」
『大事に至らなくて、よかったわ』
「もうひとりのぼくのおかげですよね、山田さん」
『川嶌くんのジャンパーに入っていたDVDケースがクッションになってくれたのよね。確か、なんだったか、アニメーションの』
川嶌のアニメ好きに救われることになるとは、皮肉なものだ。
物語の矛盾点や内容が理解できないなど、知らせていただけましたら幸いです。最後までお読みくださりありがとうございました。