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 ばあちゃんの家で過ごすひとときの幸福感とは裏腹に、僕たち家族はもはや崩壊寸前の状態だった。


 深夜まで帰ってこない父さんの帰りを待ち構える母さんの怒鳴り声。僕は毎晩頭から布団をかぶって息を潜め、身を固くして嵐が過ぎ去るのをじっと待った。


 目を閉じ耳をふさいでいれば、何もかもがただの夢になる気がした。

 そうであってほしかった。


 けれど朝陽に浮かぶ割れた食器や乱れたテーブルクロスや母さんのこれ見よがしのため息が、昨夜のことは夢ではないと耳元でささやくのだ。僕は家の中の重苦しい空気から逃れるために、てきぱきと支度を済ませて誰よりも早く登校した。

 

 とにかく夕方まで我慢すれば、ばあちゃんの家に行ける。

 それだけが毎日の心の支えだった。



 そんな風に僕の子供時代は過ぎて行き、そして残念なことにある日突然終わりを迎えた。


 きっかけは2学期最初の国語の授業、「夏休みの思い出」という作文の発表だった。

 休み中に一緒にばあちゃんの家に泊まり込んで虫取りをした友達がそのことを書き、クラスのみんなが行ってみたいと騒ぎ出したのだ。


「いいよ。でも、いっぺんにあまりたくさんだとばあちゃんが大変だから、そうだな、一日4人ずつにしよう」


 じゃあ今日は俺、いや俺が先だとクラス中が争う様子に僕はすっかりいい気分になり、ひどく勿体ぶった態度でその日のメンバーを選んだ。


 その日ばあちゃんは、ランドセルを背負ったまま我先にと目を輝かせながら庭に駆け込んできた小さな乱入者たちを見て最初こそ目を丸くしていたが、すぐいつものようにニコニコしながら鍋一杯のふかし芋を用意してくれた。

 みんなは以前の僕と同じように夢中で庭を走り回り、木に登り、そこらじゅうを探検して回った。その様子を見ているうちに自分もいつしか興奮状態に陥っていたのだろう、いつもなら絶対しでかさない、してはならないミスを犯してしまったのだ。


 日が傾いてくるとばあちゃんは、帰らなくてもいいのかと何度も声をかけてくれた。でもすっかり気が大きくなっていた僕はそれを「大丈夫、大丈夫」と聞き流した。

 いや本当は、クラスメートの前で「遅くなると母さんに怒られるからもう帰ろう」なんて口が裂けても言いたくなかったんだ。


 結局ばあちゃんの家を出る頃には、すっかり日が暮れていた。



 薄暗い川べりの道をばあちゃんと歩きながら、僕はひたすらに祈り続けていた。


 どうか母さんがまだ帰っていませんように。


 けれども、そんな僕の願いを嘲笑うかのように、玄関の明かりは煌々とあたりを照らしていた。背中を一筋の冷たい汗が流れる。


 身を固くして玄関に足を踏み入れた瞬間、予想通り母さんが鬼の様な形相で怒鳴り始めた。


「青慈、今何時だと思ってるの、もう真っ暗じゃないの!」


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 謝る声が、体中が震える。


「お母さん、暗くなる前に帰してって、お願いしてあったわよね? 私、言ったわよね? ねえ、青慈まであの人みたいになったらどうするの? 母さんが責任取ってくれるっていうの?」


 そのときになって僕はようやく、自分が犯した致命的な間違いに気が付いた。

 『遅くまで帰ってこない』ということは、今の母さんにとって決して踏んではいけない地雷だったのだ。


 母さんの額の傷が、ほのかに赤みを帯びてくる。


 違う、ばあちゃんは何度も時間だよって声をかけてくれてたんだ。僕がもうちょっともうちょっとって……

 でも僕はうつむいたまま、声を出すどころか身動きひとつできなくなっていた。


 ばあちゃんは何の言い訳もせず、ただ背中を丸めて、


「済まんかったねぇ、悪かったねぇ」


 そう言って何度も頭を下げている。


「そんなにぺこぺこ謝られると まるで私のほうが悪いみたいじゃない。私、そんなに変なこと言ってる?」


 母さんは、口元をゆがめ、握ったこぶしで下駄箱をせわしなくコツコツと叩き続けた。 


「世話になっておいてこんなこというのもなんだけど、母さんの所に行くようになってから、青慈はものすごくわがままになったわ。

 こっちが疲れて帰ってきて急いでご飯の支度してるときに、どうでもいいような学校の話をしつこくしてくるし、この間だって、いきなり甘い卵焼きが食べたいとか言い出すのよ! 今まで一度も、そんなことなかったのに……

 困るのよ、こんな風に甘やかされると。私はこの子をこれ以上わがままにしたくないの、相手の事情を考えずに人に迷惑かけるような子になってほしくないのよ!」


 その瞬間、穏やかな様子で文句を聞いているだけだったばあちゃんが、顔を上げ凛とした表情で母さんの目を見つめた。


「青慈はわがままなんかじゃないよ。この子は、いつも周りのことちゃあんと考えてるよ。

 おまえこそ、この子がいつも見えないところでどれだけいろんなことを我慢しているか、考えてみたことあるのかい?」


 母さんは一瞬たじろいだように見えたが、すぐさま食って掛かった。


「何? じゃあ、私が青慈のことちゃんとわかってないって言いたいわけ? 

 これだけふらふらになりながらがんばっても、まだ足りないんだ?

 それなら青慈、このままばあちゃんとこの子供になっちゃえばいいじゃない、そしたら時間が守れないくらいでこんなに怒られなくてすむわ。そうでしょう?私だってそのほうが楽だし、あんたもそれがいいんでしょう? そうよ、私が嫌ならいっそのことばあちゃんに育ててもらいなさいよ!」


 最初は抑え気味だった母さんの口調が激しくなるにつれ、額の傷跡がさらにくっきりと浮き上がってくる。


 僕の目からは、いつの間にか涙がぽろぽろこぼれていた。


「泣かんでいい、泣かんでいいよ。あんたが悪いわけじゃないんだから」


 ばあちゃんがそっと肩をさすってくれた。

 母さんはそんな僕を見て、冷たく言い放つ。


「ちょっと怒られたくらいで泣くんじゃないの、まったく、情けない」


 違う、そんなんじゃない! 


 でも僕はその気持ちをうまく言葉にできなかった。ただこれ以上泣いてはいけないと、眉間に力を入れてギュッと唇を噛んだ。


 だが、そんな僕にまたも母さんは追い打ちをかける。


「何、その反抗的な目は。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよっ」


 ああ、そうじゃない、そんなつもりじゃないのに……!


 でも、こうなったらもう何を言っても無駄なのだ。


 いつもそうだ、母さんは自分が信じるようにしか見ようとしない。

 母さんの周りにはものすごく頑丈な壁があって、どんなにがんばってみたところでそのままの言葉なんて届きはしないのだ。


 ごめんなさい、ばあちゃん。

 ばあちゃんは少しも悪くないのに、ぼくのせいでこんなにもいやな想いをさせてしまった。


 そう、ぼくのせいで……。




 その日僕はベッドに入る前に、両手を組んで神様にお祈りした。


「今まで、僕だけあんなに楽しい時間を過ごしてごめんなさい。もうしません。これからはいい子でいます。お手伝いも、勉強もします。だからどうか、許してください。

 どうかもうこれ以上、母さんが恐ろしい鬼になりませんように。ばあちゃんのことを怒りませんように。

 できることなら、僕たちがまた仲のいい家族に戻れますように――」



 そして僕は次の日から、その誓い通りばあちゃんの家に行くことを一切やめてしまった。

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