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 ある日、いつものように遊び疲れてばあちゃんの家の縁側に寝そべっていた僕は、庭の隅の石榴の木の下に小さな女の子がじっと立っているのを見つけた。


 見間違いかと思って何度も目をこすって見直したが、それは確かに女の子の姿をしていた。


 白くて裾の広がったワンピースからは、不似合いなくらい浅黒く細い手足がにゅっと出ていた。ふわふわと波打った黒髪が小さな顔を包み、まん丸の瞳はビー玉みたいに透き通っている。あごは細く締まり、コーラルピンクの小さな唇は、まるで泣くのを我慢しているかのようにぎゅっとへの字の形に結ばれていた。


 僕が驚いてじっと見つめている間、その子もじっと動かず何もしゃべらずただそこにいた。ばあちゃんはというと、いつものようにニコニコしながら僕の隣でさやえんどうの筋を取っている。


 全身から変な汗が出てきた。


 ばあちゃんに聞いてみようとしたが、どうしても声が出ない。

 僕はしばらくの間、身じろぎもせず、ただ口だけをパクパクさせていた。


「ん? どうした?」


 ばあちゃんがそんな僕の様子に気付いてくれた時には、もうその子は煙のようにいなくなっていた。


 僕は夢を見ていたのだろうか? 幻? それとも……幽霊?



 それからも時々、その女の子は現れた。

 ある時は納屋の入り口から、またあるときは裏庭に続く小道からひょっこりと顔を出し、最初の時と同じようにただ黙ってこっちを見ていた。

 そしてやはりいつの間にか、溶けるように姿が見えなくなるのだった。


 最初は怯えていた僕だったけれど、何度もそんなことが続くうちに不思議と怖さを感じなくなっていった。


 そしてこんな風に思い始めたのだ。


 あの子はもしかしたら、この家の守り神なのかもしれない。いつかテレビでやっていた、座敷わらしみたいなものなんじゃないだろうか?


 だからきっと僕は、あの子を見るとこんなにホッとするんだ。



 でも彼女はもちろん、座敷わらしなんかじゃなかった。



 その日も彼女はいつものようにどこからかふっと現れて、怒ったような泣きそうな顔でしばらく僕の顔をじっと見つめていた。

 ただいつもと違っていたのは、そのあとおもむろに口を開いてこう言ったことだった。


「……何で泣いてんの?」


 僕は、ぎょっとした。

 彼女が話しかけてきたせいだけじゃない。その日の僕は、涙こそ流してはいなかったけれど、まさに泣きたい気分でいっぱいだったからだ。


 前の晩、父さんと母さんはいつになく激しい口調で言い争っていた。僕はベッドにもぐりこんで階下から聞こえてくる荒々しいやりとりにただじっと身を固くしていた。


「出て行く」「いないほうが」なんて言葉が、途切れ途切れに聞こえてくる。


 どうしよう、母さんがいなくなったら。

 どうしよう、父さんがどこかへいってしまったら。


 もし目が覚めて二人ともいなかったら?


 僕は悪い子だから、捨てられるかもしれない。

 そうしたら僕は、一体どうしたらいいんだろう。


 そんなことを考えていたら胸の鼓動がどんどん大きく早くなっていって、怖くて頭がすっかり冴えてしまい、どうにも眠れなくなった。


 明け方になってやっと少しうとうとしたと思ったら、今度はいやな夢を見た。


 見渡す限りの砂浜。

 空から長いロープが下がっていて、大きなブランコになっている。

 何人かでそれを一生懸命こいでいるうち、なぜだかロープが切れてブランコもろとも砂浜に叩きつけられそうになった。


 すごいスピードで地面が迫ってくる。

 ああ、もうだめだ!


 砂浜に激突する直前で目が覚め、飛び起きた。

 パジャマは汗でびっしょりで、しばらくの間、心臓の音がバクバクいっていた。



 その日は、授業中も休み時間もばあちゃんの家に来てからも、ずっとその夢が頭から離れなかった。


 そして、


 『……何で泣いてんの?』


 そう彼女に話しかけられたときにようやくわかったんだ、自分が本当はすごく不安で心細くて、そして泣きたくてたまらなかったということが。

 そう思ったら、まるで氷が溶けていくかのように自然に涙がこぼれ落ちてきた。



 ビー玉みたいな瞳に見守られながら、僕はそのままひとしきり静かに泣いた。

 涙が頬に温かく流れるほどに心が落ち着いていく。



「……ありがとう」


 すっかり穏やかな気持ちになってそう言うと、彼女はほんのちょっとだけ小首を傾げ、またすーっと姿を消してしまった。



 ちょうどそれと入れ替わるかのように、ひとりの女性が青い顔で辺りを見回しながら入ってきた。そして僕を見つけると、か細い声で驚いたようにこう言った。


「……青慈君……よね? ああ、本当にお父さんそっくりね」


 嬉しそうに笑うその顔に、なんとなく見覚えがあるような気がする――考え込んでいる僕の後ろでばあちゃんの声がした。


「ああ千恵子、来てたのかい」


 なんとその女性は写真で見たあの千恵子おばさんで、女の子はいとこのぱせりだったのだ。


 そのとき僕は初めて知った。

 ぱせりが僕と同い年で、町内のもう一つの小学校に通っていること、いつも千恵子おばさんが夕飯の準備にかかりきりになっている間に、こっそり抜け出してここに来ていたということ。

 ばあちゃんも年のせいで目がよく見えず、今までずっとぱせりが来ていることに気付いていなかったという。


「なんだい青慈。知ってたなら、ばあちゃんに言えばよかったじゃないか」


「そりゃそうだけど……ずっと幽霊か座敷わらしだと思ってたんだもの」


 ばあちゃんは腹を抱えて大笑いした。

 千恵子おばさんは、可笑しいような困ったような複雑な顔で微笑んでいた。

 ぱせりは相変わらず口をへの字にして、ずっと黙っていた。



 学校でも何も話さないから、先生がほとほと困り果てているの、それを聞いてあの人怒っちゃって……とおばさんが消え入りそうな声を震わせ、深いため息をついた。

 細い指で押さえた左の目の下には青い痣ができていて、それを見た瞬間、僕の心臓は止まりそうになった。


 ばあちゃんは、おばさんを慈しむようにじーっと見つめてからこう言った。


「大丈夫だよ。この子はね、自分に必要なことをちゃぁんと知っているよ。私らにはよくわからない何かがあるのさ、大丈夫」


 そう、これなんだ。

 ばあちゃんはいつもそうやって、誰のことも僕のことも信じてくれている。

 だからばあちゃんといると、自分がいい子になったような気がするんだ。

 僕は僕を好きでいていいと、そう思えるんだ。


 ばあちゃんの深いシワに刻まれたぬくもりが僕らを包み込む。

 またひとつ、胸の奥にぽっと灯りがともったような気がした。

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