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 夢を見ていた。

 僕は暖かな液体の中で、膝を抱えてたぷたぷと漂っていた。


 どこからか、柔らかな声が聞こえてくる。


『もう何も心配しなくていいよ。大丈夫だから』


 声の主は、ばあちゃんのようにもぱせりのようにも思えた。

 僕はうとうととまどろみながら、そのささやきに耳を傾ける。


 そう、僕はずっと、赤ん坊になりたかった。

 母さんのお腹の中に戻って、何の心配もなく守られていたかった。


 いつまでも、いつまでも。



 ぷかぷかと羊水の中に浮かんでいた僕は、けれどもそれが流れ始めるのを感じた。


 遠くに小さな光が見える。

 水流はそこに向かって勢いを増していくようだった。


 抗いようもなく押し流されていく僕。


 いやだ、いやだ、外になんか行きたくない。

 生まれたくなんかない。


 だってこの世界は苦しみばかりじゃないか。

 寂しくて辛いことばかりじゃないか。


 夢の中でそう言って僕は泣いていた。 




 目を覚ますと本当に頬が濡れていて、どこまでが夢でどこからが現実なのかしばらくはわからなかった。


 四角い白い部屋の中。

 目の前では母さんが怒ったように口をぎゅっと結び、目を潤ませている。

 その肩越しに、心配そうな千恵子おばさんとぱせりの顔がのぞいていた。


「猫……子猫は?」


「大丈夫よ、おばさんの車の中にいるから。無事だから」


 千恵子おばさんが慌てて答えた。


「僕……生きてるの?」


 干からびたような声で僕は尋ねる。


「そうよ、たまたま通りがかった人が気付いてね、助けてくれたの……本当に、間に合ってよかった……」


 そう言ってさめざめと泣くおばさんの目元は、少しだけばあちゃんに似ていた。



 その時母さんが、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てるようにつぶやいた。


「……一体、どうしろっていうのよ!」


 おばさんがぎょっとした顔で凍り付く。


「私にどうして欲しいわけ? あんた、そんなに死にたいの?」


「姉さん、何も今そんなこと言わなくても……」


「わからないのよ、あんたの考えてること。

 わかってやらなきゃって思うのに、情けないけどわたしには見当がつかないのよ」


 母さんは、ほう、と深いため息をついて、視線を天井のほうに向けた。



「ずっとそう、あんたが小さい頃から、ずっとそうだった。


 精一杯いい母親になろうと思ってるのに、いざあんたを目の前にすると、叱ったらいいのか放っておいたらいいのか、優しくしたらいいのか全然わからなくて、そんな自分にイライラして……気がつくといつもあんたを怒鳴りつけてたわ。


 なんでだろう、そうやって一度怒り始めると、あんたがどんなに泣いて謝ろうが、自分ではもうどうにも止められないのよね。


 不思議でしょうがなかった。

 どうしてみんな、当たり前のように母親らしくなっていけるんだろうって。

 なんで私だけ、そんな普通のことができないんだろうって。


 そんな自分にひどく失望して、何度も、もう消えてしまいたいと思ったわ……」



 かすかに上を向いたままの母さんの目は見る見るうちに赤く潤んでいった。

 僕もおばさんもぱせりも呆気にとられ、何も言えずにただそれをじっと見ていた。



「青慈、あんたが言うとおり、私のせいであの人はあんなことになったのよ。

 その通りよ。


 今だって、あんたをこんなに苦しめてる。

 わかってる、わかってるのにどうしようもないの。


 私はできそこないなのよ。

 本当は、私みたいな人間が、子供なんて産んじゃいけなかったのよ。


 せめて、私じゃなくてあの人が生きてればよかった。

 そのほうがよっぽど、あんたは幸せだったはずなのに。


 ごめんね、本当にごめんね。

 あんたは何も悪くないの、私が悪いの、何もかも……くっ……!」



 途中から母さんは大粒の涙をぼろぼろ流し始め、切ない声を上げて泣いた。

 僕は身動きひとつできないまま、母さんのその姿をただ見つめていた。



 考えてみたこともなかった、母さんがそんな風に思っていたなんて。


 それでは母さんも、何もかもが自分のせいだと、そう思い続けていたのだろうか。

 心にたくさんの傷を刻みつけながら、ここまで必死に生き延びてきたのだろうか。


 そう、まるで僕たちのように。


 母さんの中で、傷ついた小さいままの女の子が、しくしくと泣いている。

 いつしかそれは、あの夜のぱせりの姿と重なって見えた。



 ああ、どうして、こんな風に悲しみはいつまでも続いていくのだろう。


 誰もが幸せを願っているのに。

 そして誰もが、本当は誰かを思い切り愛したいのに。


 どうしてその気持ちはこんなにも空回りして、大切な人を容赦なく傷つけてしまうのだろう。



 悲しみが波のようにひたひたと、僕らの周りに押し寄せてくる。


 僕もまた泣いていた。


 そして泣きじゃくる母さんの肩に、生まれて初めてそっと手を触れた。 

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