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今から15年前、関東平野のはじっこの大きな川が流れる小さな町で僕は生まれた。
いまだに電車も通っていない田舎町はそれでもぎりぎり都内への通勤圏内で、小学校のクラスの半数以上はニュータウンと呼ばれる新しい住宅街から通ってきていた。
僕の一番古い記憶は、町のはずれにある大きな公園だ。
赤、黄、白、色とりどりに咲き乱れるチューリップ、子供たちの歓声、興奮して走り回る小さな僕。嬉しそうに目を細める父さんと、心配そうに見つめる母さん。
シートの上で広げたお弁当は、おにぎりとタコさんウインナーとケーキのように甘い卵焼き。うっとりするほどおいしくて、僕が夢中で頬張るのをふたりはけらけら笑って楽しそうに見ていた。
それはまるで絵に描いたように幸せな光景だった。
その記憶が間違いでなければ、僕たち家族にはそんな時代も確かにあったのだ。
なのに一体いつからあんな風になってしまったのだろう。
気がつくと、僕を取り巻く空気はすっかり変わってしまっていた。
いつもきっかり6時に保育園に僕を迎えに来る母さん。洒落たスーツを身にまとい、きっちりと明るい色の口紅をひいて、満面の笑みを浮かべながら先生に丁寧なお礼の言葉を述べる。
僕は明るく綺麗な母さんが誇らしくて嬉しくて、あいさつが終わるまでいつも周りをぴょんぴょんと跳び回っていた。
でもなぜか、保育園の門を一歩出たとたんに母さんはまるで別人のようになってしまう。こちらを振り返りもせずに肩を怒らせ、すでに暗くなった田舎道をものすごいスピードで歩いていってしまうのだ。
水色のスモックを着せられた小さな僕は、このままこの暗闇に置き去りにされるのではないかと怖くてたまらず、転びそうになりながら必死でその背中を追った。
実際に母さんは、途中で僕が転んでも立ち止まることなどなかった。ちっと短い舌打ちをして、苛立たしげな足音を響かせ続けるだけだ。
そうして家に着くと堰を切ったように「おまえはどうしてあんなに落ち着きがないの。母さんは恥ずかしくてしょうがない」と怒鳴りはじめるのだった。
母さんを誇らしく思っていた僕の心は、あっという間にぺしゃんこになった。
靴をきちんとそろえない、箸を上手に使えない、すぐに返事をしない。
母さんはそのたびに僕の手をぴしゃりと叩く。
父さんは、そんな母さんをただ悲しそうに見ている。
いつだったか、父さんが猫を拾ってきたときもそうだった。
子猫たちはびしょ濡れでおまけにひどく痩せていたけれど、真っ黒な瞳でみゃあみゃあと元気に鳴いていた。
「この猫、僕を見てるよ」
嬉しくなって、僕は言った。
「そうさ、目が合うっていうのは、青慈に興味を持ってる証拠だ。だから、きっと仲良くなれるよ」
僕はそぉっと手を出して、ドキドキしながら優しく子猫の頭を撫でた。
が、その瞬間、母さんの怒鳴り声が響いた。
「誰も飼っていいなんて言ってない!」
その語調の激しさに僕はビクッとして、そのまま動けなくなってしまった。
「可哀想だからって……そりゃあんたが優しいのは結構だけどね、一体誰が面倒見るの。私は嫌だからね。家族の世話だけでもう精一杯だわ、私だって働いてるんだから!」
母さんが怒り出すと、額にあるひきつったような傷跡がすーっと赤くなる。それを見るといつも僕は体がぶるっと震えて、金縛りにあったかのように身動きひとつできなくなってしまうのだ。
それでもなんとか横目でちらっと父さんを見たけれど、父さんはただ目で僕を制し、残念そうに首を振った。
そう、わかってる。この家では誰も母さんに逆らうことなんてできやしない。
父さんはその日のうちに、黙って子猫をどこかに連れて行ってしまった。
僕はひどくがっかりしたけれど、もちろんそれを口に出せるはずもなかった。
だから小学生になって、ばあちゃんの家の庭で寝そべっているのが実はその猫だと知った時は、本当に嬉しかったんだ。