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 ところどころにぼんやりと灯りのともる川沿いの道を、小一時間ほど歩き続けた。


 ようやくばあちゃんの家に辿り着くと、離れの小さな窓にかかるカーテンの隙間からかすかに光が漏れているのに気がついた。


 ――こんな時間に……まさか、ぱせり?


 そっと入り口に近付いて軽くノックしてみたが、返事がない。

 おそるおそるノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。


 僕も驚いたが、彼女はもっと驚いたことだろう。


 青ざめた頬の上で見開かれたビー玉のような瞳は予期せぬ侵入者に怯え、ぴくりとも身動きもできないままこちらを凝視していた。


 ベッドにもたれかかるように座り込んだその手にはカッターナイフが握られ、一筋の血が左手首から細くしなやかな腕を伝っている。


 それを見た瞬間、息が止まるほど胸の奥がきゅっと痛んだ。


「ぱせり……」


「ボ、ボク……」


 ぱせりは折檻を恐れる子供のように、今にも泣きそうな様子でじりじりと後ずさっていく。顔を歪めているのは痛みのためだろうか、それとも僕のせいなのだろうか。


 ああ、どうかそんなに怖がらないで。

 君を追い詰めるつもりなんてない。


「すぐ手当てしてあげるから、そのまま待ってて」


 ぱせりは戸惑うようにかすかに首を横に振った。

 僕は財布の中から鍵を取り出すと、急いで母屋から薬箱を持ってきた。


「傷、見せて」


 そう言って近づくとぱせりは一瞬びくっとしたが、僕はかまわずその手をとった。


「よし、ちょっと我慢して」


 そう言って、消毒薬をそっと傷口に垂らした。

 沁みるのだろうか、ぱせりがかすかに眉をひそめる。


 てきぱきと手を動かしながら、僕はわざとなんでもないことのように言った。


「僕の父さんさ、しょっちゅう酔っ払って怪我して帰ってきてたから、僕、包帯巻くのうまいよ」


 それを聞いたぱせりは、また泣きそうな顔になった。


「……どうして?」


「え?」


「ボク、こんな……気持ち悪いでしょ」


 なおも身をよじって後ずさろうとしているぱせりの手首には、よく見ると古いものから新しいものまで無数の傷跡があった。いつもリストバンドで隠していた部分は象の足のように固くなっていて、見ているだけで胸が詰まった。


 僕は小さく首を振りながら、絞り出すように言った。


「だって……辛いんだろ? こうしなきゃいられないくらい、苦しくてたまらないんだろ?」


 僕の目には、その傷跡のひとつひとつが、ぱせりがこの十数年間たったひとりで流してきた数え切れないほどの涙の跡に見えたのだ。


 僕が20歳までに死ぬと決意することでやっと今の命を繋いでいるように、ぱせりは自分の体を痛めつけ自ら傷をつけることで、どうにかこの世に存在するための足場を刻んでいる――そう思ったら、目の前のこの魂が、無性に愛おしく思えてたまらなかった。


「馬鹿」


 僕は、ぱせりの頭をコツンと叩いた。


 ぱせりは顔をくしゃっと歪めたかと思うと、堰を切ったように泣き出した。

 何度も喉を詰まらせて鼻を真っ赤にしながら、まるで小さな子供のように。


 僕は思わず手を伸ばし、ぱせりの細い肩をぎゅうと思い切り抱き寄せた。

 ぱせりはそれに応えるかのように僕のシャツを力いっぱい握り締め、僕の胸に頭を押し付けながら大声で泣いた。


 泣き続けて熱を持ったぱせりの首筋の辺りから、汗と甘い匂いが混ざって立ち上ってくる。


 温かい。

 人の体はこんなにも柔らかく、そして温かいのか。

 そしてこんなにも心が安らぐものなのか。


 考えてみれば僕はこうして誰かを抱きしめたことも、また誰かに抱きしめられたこともないのだった。




 ひとしきり泣いてそれでもまだしゃくりあげながら、ぱせりが言った。


「いつもは……大丈夫。何があっても、自分は何も感じない岩だって思えばいい。

 でも時々、どうしようもない気持ちになる。

 暗闇にたった一人で放り出されたみたいに……。

 そうすると、確かめたくなる。

 自分が生きてここにいること、ちゃんと体に血が流れてること」


 もしかしたら君は僕なのだろうか? それとも僕が君なのだろうか?


「うん、わかるよ……僕も、僕もそうだから」


「本当?」


「うん、本当。

 僕も……やっと生きてるんだ。

 おんなじだ」


 ぱせりはどこかほっとしたような表情になり、僕の肩にそっと頭を押し付けた。




「この傷を見つけたとき、ママは泣いた。

 どうしてこんな気持ち悪いことするのって。

 もうしないって、何度も約束させられた。


 でも、やめられない。


 それでよけい、自分がイヤになる。

 気がつくと……また切ってる」



 僕はなんだかしんしんと悲しくなってきて、ぱせりの包帯が巻かれた左手首をそっと両手で包んだ。


「おばさんも母さんも、僕たちが本当に欲しいものが一体何なのか、全然わかってないんだ」


 ぱせりの泣き濡れて赤く腫れた目元から、またツツーッと涙が落ちた。


 不思議だ。

 僕らは別々の道を辿ってきたのに、ふたりが心の一番奥底に抱え続けている孤独は、同じ味をしているのだ。


 形を持たない苦しみは言葉にされることで初めてその姿を現し、語らうことは麻薬のように心の痛みを和らげていく。


 いつまでもいつまでも、この時間が続けばいいのに。





 けれどすぐに終わりはやってきた。


 真夜中と言っていい時間だっただろう、急に近くで車のブレーキとバタンというドアの音がした。

 バタバタと慌てた足音が近づいてくる。


「青慈、やっぱりここだった! 急いで乗って、ばあちゃんが……」


 これまでに見たことがないほど取り乱した母さんのようすにすべてを悟った僕は、ぱせりの手を取り大急ぎで車に乗り込んだ。

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