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 生まれ育った町が、懐かしいとは限らない。

 むしろ逆だ。


 今日だって、こんな用事を頼まれさえしなかったら来るつもりなんかなかったんだ。次に来るのは「最後のとき」と決めていたんだから。



 昨日病院に行ってから、僕はひたすら考えた。

 ばあちゃんに会ってしまったうえにあの家に行くことが、僕の決意に与える影響について。


 でもいくら悩んでも、ばあちゃんの頼みを断る正当な理由など見つからなかった。

 融通の利かない僕の性格では、下手な嘘をついてもすぐばれてしまうに違いない。そのことで事態が余計にややこしくなることだけは何としてでも避けたかった。


 それで結局これはいざというときの下見なのだと自分に言い聞かせ、学校帰りにこうしてあの町に向かっているのだ。



 駅前から古びた緑色のバスに乗る。

 乗客はまばらで何人か高校生らしき姿も混じってはいたが、見知った顔はひとりもいない。


 安心した僕は、単調なアナウンスと心地よい振動に身をまかせて次々と移り変わる窓の外の景色を眺めているうちにどうやら居眠りをしていたようだった。

 バスが大きくカーブしてはっと目を覚ました次の瞬間、目の前にあの川が現れた。

 父さんを飲み込んだあの川が。


 眠気ですっかり無防備になっていた僕の心は、いきなりぎゅうと締め付けられた。

 あれ、おかしい。こんなはずじゃなかったのに。


 僕は不覚にも、涙ぐんでいた。



 くしゃくしゃの顔を誰にも見られないように、うつむきながらバスを降りた。

 自分の影を見つめながら川沿いの細い道をとぼとぼと歩いていると、すべてが遠くにいってしまったようなめまいにも似た感覚に襲われて、これが今の出来事なのかそれともあの頃の記憶なのかわからなくなってくる。


 自分の身長ほどにも伸びた草を両手でそっと掻き分けながら土手に降りた。茂みに埋もれるように寝転ぶと、それだけで僕の姿など隠れてしまう。


 僕がここにいるなんて、誰も気付きはしない。


 むせるような青臭い匂いに包まれギザギザと草の形に切り取られた空を見上げると、自分だけが世間から隔絶された別世界にいるような気がした。


 今の僕は、それを愉快と感じているのだろうか、それとも寂しいのだろうか。

 あの時の父さんは、どうだったのだろうか。




 ばあちゃんの家で僕を出迎えてくれたのは、たくさんの猫たちだった。


 茶色のトラ猫が玄関の前で長々と寝そべり、その近くで3匹の子猫たちが尻尾をつんと立ててじゃれ合っている。

 どこからか三毛猫もやってきた。

 そっと指を差し出してみると、くんくんと匂いをかいでゴロゴロ足元に擦り寄ってくる。


 僕はばあちゃんから預かった鍵で中に入り、窓という窓を全部開け放った。

 頬を撫でてさわやかな風が通り過ぎて行く。


 不思議だ。

 同じ風でも、アスファルトの上を渡っていくときと緑の中を吹き抜けていくときでは、まるで感触が違うのだ。


 僕は子供の頃のように、縁側にごろんと寝そべってみた。

 あの頃ぱせりを見つけた石榴の木は、ひねこびた枝を大きく広げて赤い花をいっぱいにつけている。


「まるでたこさんウインナーみたい」


 石榴の花が咲くたびに、幼い僕はそう言った。

 ばあちゃんは笑いながら、


「ああ、ほんとにそうだな。じゃあ、今日のおやつはたこさんウインナーにしようか」

   

 そう言って、足が六本のウインナーをフライパンで炒めてくれた。

 それを食べると僕は必ず、幼い頃親子3人で出かけたあの公園とケーキのように甘い卵焼きを思い出す。


 ばあちゃんに何か食べたいものがあるかと聞かれて、いつもまっ先に頭に浮かぶのは実はあの卵焼きだった。

 だけどそれを口に出すことはなかった。

 ばあちゃんに作ってもらうのは、何だか母さんへの裏切りみたいな気がしていたのだ。


 一度だけ、思い切って母さんにねだってみたことがある。

 けれどもその瞬間露骨にいやな顔をされ、それ以来僕は卵焼きを見ただけで吐き気がするようになってしまった。



 石榴の木の向こうには古びた納屋がある。

 入り口にはリヤカーや一輪車が置かれ、その奥では暗闇がぽっかりと口を開けていた。


 いつだったかばあちゃんが中を見せてくれたが、突き当たりの高いところに小さな窓があるだけでひどく薄暗くて怖かった。奥にはばあちゃんの背丈よりもっと高い所まで乾いた藁や籾殻が積み上げられていたのを覚えている。

 ばあちゃんは、この藁で縄をない籾殻で料理をするのだと教えてくれた。そしてその日は、籾殻を燃やして煎ったあられを食べさせてくれた。


 納屋の横にあるのが、母さんが使っていたという勉強部屋だ。

 何度かのぞいたことはあったけれど、幽霊騒ぎで怖くなりそれっきりになってしまった。


 でも結局座敷わらしの正体はぱせりだったんだから、何も怖がることない。

 そう思ったら、急にもう一度中をのぞいてみたくなった。



 ノブに手をかけ強く下に押しながら手前に引くと、ギィ、と軋んだ音を立てながらドアが開いた。そういえばあの頃からここにはいつも鍵がかかっていなかった。

 長いこと使われていないのだから当然埃が積もっているのだろうと思っていたが、まったくそんなことはなかった。

 どうやらばあちゃんは、ここも小まめに掃除をしていたらしい。


 無骨で頑丈そうな木の机と椅子は、僕の記憶通りに南の窓に向けて置いてあった。

 奥の壁に寄せたベッドもあの頃のままで、むき出しのマットレスだけがきちんと載せられている。


 ここ、寝転がるのにちょうどいいな。


 ごろん、と横になってふと横を見ると、壁とベッドの隙間に一冊のスケッチブックが置いてあった。

 そんなに古いものではなさそうだ。


 なぜ、こんなところに? 


 不思議に思いながらそっと開いてみた瞬間に、僕は身震いした。


 目の前に広がる赤い石榴の花、枯れた枝が冴え冴えと描くシルエット、苔むした石が落とす深い影。

 切ない風をはらんだ空の色、悲しみの形になびく草。


 胸がぎゅうと締め付けられた。

 あの絵と、同じだ。父が逝った川原に浮かぶ、壊れた小舟。


 苦しくなってパタンとスケッチブックを閉じ、息を整えようと湿った空気をゆっくり呼吸した。


 これを描いたのが誰かは、確かめなくてもすぐにわかった。


 改めて部屋の中を探してみると、机の引き出しにはデッサン用の鉛筆とクレパスが、ベッドの下には十数冊ものスケッチブックがあった。


 ぱせりは今でもまだこの家に来ている――。


 胸のずっと奥のほうで、そこにあることさえすっかり忘れていたかすかな灯りがぽっとともったような気がした。


 ああ、ぱせりに会いたい。


 君は今でもわかってくれるのだろうか、僕がいつでも泣いているってことを。

 そして君もまた今なお、君自身の悲しみを抱え続けているのだろうか。



 僕はスケッチブックを元の場所に戻すと、外に出てゆっくりと深い息をした。

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