18
父さんが死んで間もなく母さんは住んでいた家を売り払い、僕たちは隣町の小さなアパートに引っ越した。
これで数々の苦しい記憶や僕をねちっこくいじめた奴らとも、きれいさっぱりおさらばできる。
そう、できるはずだった。
しかし僕の精神状態は、そんなことによって簡単に再スタートを切れるような生易しいものではなくなっていた。
誰かがちょっと不機嫌そうな顔をするだけで、不安でたまらず体が震えて止まらない。嫌われはしないか、変な奴だと思われはしないかとびくびくし、他人の視線が怖くていつも下を向いていた。
厄介なことにその鬱屈した想いは唐突に僕を攻撃的にし、ちょっとしたことでいきなり相手に食って掛かったりした。
結局は転校前と同じように周囲が僕を遠巻きにする構図を、今度は僕自身が作り出していた。
僕はただの「危ない奴」に成り下がり、いつまでたっても周囲になじむことができないままだった。
自分が透明人間になった気がした。
ひとりぼっちで暗闇に放り出されたような、えもいわれぬ心もとなさ。
洗濯機に放り込まれてぐるぐると攪拌され続けているかのように、一瞬たりとも心が休まることのない日々。
そして日常が苦しければ苦しいほど、ばあちゃんの家で過ごしたきらめくような時間が狂おしいほど鮮やかに胸に蘇ってくるのだった。
僕はあれから何度、こっそりあの家に行こうとしたかしれない。
あのシワだらけの手で、そっと頭をなでてほしかった。いや、僕を見てただにっこり笑ってくれるだけでよかった。
でもそう考えるたびに、狂犬のように怒り狂う母さんの前でただまあるく頭をたれていたあの時のばあちゃんの姿が思い出されて、どうしても足を向けることができなくなってしまう。
そんなとき決まって心に浮かぶのは、声にならない声で問いかけてくるぱせりのまっすぐな瞳と、銀杏の木の下でつないだ手の温もりだった。
不思議だ。あの家で一緒に過ごした日々も、会えなかった期間も、そして言葉をかわすことのなかったこの一年余りも、僕はいつもどこかで彼女の想いを感じ続け心を震わせていた。
僕たちはまるで、共鳴しあう音叉のようだった。
けれどもすぐに、底なし沼のように深い後悔と孤独が僕の胸を締め付けた。
もう遅い。
僕は彼女を理不尽に拒絶し、傷つけてしまった。
僕の居場所は、すでにどこにもないのだ。
そんなある日、何気なくつけたテレビの中の風景に僕はすっかり心を奪われた。
そこに映っていたのは、重苦しい空の下、灰色の波が寄せては返す真冬の砂浜だった。
『彼女は、なんというか……生きるのに一番大切な核がすっぽり抜け落ちているような、そんな不思議な感じがする子でした』
そう語る女性の友人は、20歳になる少し前に大量の睡眠薬を飲んでその海に入り溺死したのだという。
たまらなく心が震えた。
ああ、ああ。そうか、その手があったのか。
いつまでもこの苦しみに耐えていかなければいけないわけじゃない。
無意味で苦痛に満ちた生に、自分でピリオドを打つという道もあるのだ。
それでは僕も彼女のように、20歳になる前に死ぬと決めよう。
そして最後に一度だけ、ばあちゃんに会いにあの家に行くことを自分自身に許そう。
重く沈んでいた胸が、暗い希望に高鳴った。
一体どれくらいの人が知っているのだろう。人は甘い死の誘惑をかみ締めることで、生の苦痛をやり過ごす事ができるのだと。
どうせ近いうちに死ぬという開き直りに近い決意は、僕にある種の強さを与えてくれた。
皮肉なことにそれは他人から見ると『彼は立ち直り、ようやく新しい環境にもなじむことができた』という解釈になるらしかった。
ちゃんと学校に行っていれば、いい成績をとってさえいれば問題ないと、大人たちはどうしてそう思うのだろう。
僕が遠くない未来の死に向かっていることに、誰一人として気付く者はない。
みんな馬鹿だ。
僕が暗い情熱を傾け勉強する本当の理由なんて、これっぽっちも考えやしないのだ。
誰にも邪魔されずに死という目標に向かって行くための、カモフラージュに過ぎないというのに。
固い鎧をまとった日々の中で僕は時折夢想する。
このまま僕が死んだら、母さんは後悔するのだろうか。
それともまた、何もなかったかのように日常生活に戻っていくのだろうか。
ばあちゃんは?
そしてぱせりは……?
僕のために少しは泣いてくれるだろうか。
呑んだくれの父さんのためにも、あんなに泣いていたばあちゃん。
美しい瞳を揺らして悲しんでくれたぱせり。
僕の中の、温かいもの――。
やがて僕は高校生になった。
目的はどうであれ一定の成績を維持し続けたおかげで、入学したのは県内きっての進学校だった。
が、そんなことはどうでもよかった。
ただひっそりと、人生の残りの時間を過ごせればそれでいい。
所詮ここは僕にとって、仮の居場所でしかないのだから。
真新しい制服に身を包んだ僕が心に決めた目標は、「友達を作らない」。
どうせ数年後には死ぬのがわかっているのに心を許せる友達を作ろうだなんて、ひどく不誠実なことに思えてならなかったのだ。
そうして僕は常に小難しい本を小脇に抱え、固い鎧を着こんで日々を過ごした。