17
結局それが、生きた父さんを見た最後となった。
その日も、翌日も、父さんは帰ってこなかった。
僕は学校が終わると、以前父さんが酔いつぶれて動けなくなっていた路地や、酒屋への道のりや、川のほとりを探し回った。
母さんはとうとう警察に捜索願を出した。
そして数日後父さんは、川の下流で遺体となって発見された。
その後のことは、なんだかよく覚えていない。
警察からの電話も、白い布の下にあった作り物のような父さんの死に顔も、花でいっぱいの祭壇も、やたら声の通る坊さんのお経も、みんなレンズの向こう側で起こっている出来事のようだった。
母さんは葬儀の間中、背筋をぐっと伸ばしてまっすぐ前を向き、口を真一文字にきつく結んでいた。何かをにらんでいるようでも、何も見ていないようでもあった。
すでに会社をやめてしまっていた父さんの葬式は本当にひっそりしたもので、ごくごく身内だけで執り行われた。
ぱせりは相変わらずのへの字口で、今にも泣き出しそうな顔をしていた。千恵子おばさんは、おろおろと泣いてばかりいた。おじさんらしき男性はいかにもやり手と言った風情で、泣き続けるおばさんを見ては何かつぶやき、神経質そうに眉をひそめていた。
ばあちゃんも、ずっと泣いていた。
あったかいばあちゃんのシワだらけの手は、何度も僕の頭や背中にそっと触れた。
だがそのときの僕にはそれさえも現実感のないもので、ああ、とうとう僕は、本格的におかしくなってしまったのかもしれない、と頭の片隅で考えていた。
僕はまるでロボットになったみたいに、何の感情もないままあたりに目を向けていた。気をつけていないと、自分のあまりの冷静さに思わず笑ってしまいそうにさえなった。が、ありがたいことに、それを抑えるくらいの理性はかろうじて残っているようだった。
遺影には、家族3人で公園に行ったあの日の写真が使われていた。
写真の中の父さんはたくさんの花に囲まれて、こっちを見て優しげに笑っていた。まるで、この上なく幸せな人生を終えた人であるかのように。
ごめんなさい。
僕がいつも母さんを怒らせて、父さんをがっかりさせてた。
僕がもっといい子だったら、こんなことにはならなかったんだ。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
自分がどんどん小さくなって、消えてしまいそうな気がした。
ううん、そうじゃない、僕はそのまま消えてしまいたかったんだ。
忌引きが終わり一週間ぶりに登校すると、クラスの空気はすっかり変わっていた。
「あの酔っ払いのおっさんさぁ、俺たちにいじめられたせいで、川に飛び込んじゃったのかなぁ」
健太が以前と変わらない意地悪な口調でそう言った瞬間、教室がしーんと静まり返った。慌てて顔を引きつらせる健太に、みんなが冷ややかな視線を投げかける。
だが、健太に同調する奴もいなかった代わりに僕を庇う者もいなかった。誰もが何気なく僕から目を逸らし、何もなかったかのように振舞おうと必死だった。
みんな、かつて出会ったことのないほどの特大の不幸を抱えた人間を、どう扱っていいのかわからず戸惑っているのだった。無理もない。これは確かに、いじめのネタにし続けるにはあまりに重すぎる出来事だった。
が、そんな中でひとつわかったことがあった。存在そのものを無視されるよりも、からかわれ馬鹿にされるほうが、まだいくらかはましだということだった。
休み時間に教室にいるのがいたたまれなくて、僕は廊下に出た。そして、壁一面に張り出された写生会の時の絵を、一枚ずつ丹念に眺めるふりをしていた。
ところがある絵のところに来たとたん、射すくめられたかのようにそこからまったく目が離せなくなってしまった。
それは、川岸に打ち捨てられた、壊れかけた小舟だった。
作者の名前は、森ぱせり。
無邪気な色で塗られた川原の風景ばかりが並ぶ中で、遠近法を用いた大胆な構図で深く暗い陰鬱とも言える色使いのぱせりの絵は明らかに異質だった。
そしてまるでそれがスイッチであったかのように、次々と脳裏にイメージが現れた。
壊れた父さんが、水の中にゆっくり倒れていく。
僕は何もできずに固まっている。
振り返った父さんの目。
何も映さない膜を張ったような瞳。
無力な自分。
気がつくと僕は、ぎゅっと胸を押さえて壁にもたれかかっていた。今まで味わったことのない奇妙な息苦しさを感じ、あえぐように空気を吸い込んだ。
まるでこの絵と僕の心が共鳴しているようだった。どうにも直視することができないのに、目を離すこともできないのだ。
その時、背後に強い視線を感じた。
振り返ると、ぱせりがいつものように僕の方をじっと見ていた。
ただいつもと違っていたのは、ビー玉のような瞳には、ひっそりとした悲しみの色が宿っていたことだった。
と、ぱせりの小さな唇が、さび付いたドアを無理やりこじ開けるかのように、かすかに動いた。
「……も、もう、ばあちゃんの家、来ないの?」
目の端に、好奇心をあらわにしたクラスメートたちの顔が見えたその瞬間、ずっと抑えていた何かがぷつんと切れ、僕は絶叫していた。
「あっちに行け、僕に近寄るな!」
可哀想なぱせりは訳もわからないまま、青ざめた頬で怯えたようにうつむいて、これ以上ないというくらいに小さく小さくなりながら静かに後ずさっていった。
その様子をみんなが呆気に取られて見ていた。
荒い呼吸がおさまると同時に、ひどい後悔の念が襲ってきた。
が、その時にはもう彼女は、僕の声が届かないところに行ってしまっていた。