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 その頃の母さんは、僕にほとんど無関心だった。

 その代わり、持てるすべての情熱を注ぐかのように父さんの行動に目を光らせていた。


 どこに行ってただの、また飲んだだの、何日もまともに食事をしてないだの、風呂に入らないだの、そんなことを一日中がなり立てる。


 父さんはお酒に取り憑かれ、母さんは父さんに取り憑かれていた。



 母さんは毎日父さんのズボンのポケットまでチェックした。そして真新しい小さな金庫に家中の通帳や現金を入れ、しっかりとロックする。


「飲みさえしなければまともなんだから、飲めないようにするしかないのよ。何度約束したってどうせ自分じゃ守れないんだから」


 母さんは目を血走らせ顔を歪ませながら、吐き捨てるようにそう言った。

 その傍らで父さんは、ひどく情けない様子でしょんぼりとうなだれていた。


 かわいそうだが仕方がない。

 僕だってもう今の父さんを信じることなどできない。


 今度こそはと約束し、それを信じ期待して、そしてその分深く失望する。一体何度そんなことを繰り返してきただろう。

 僕も母さんも伸びきったゴムのように疲れ果て、もうこのくらいしか思いつくことなどなくなっていた。




 ところがその翌日、父さんはあっけなく、それも最悪のやり方で僕たちを裏切った。


 学校から帰ると、例によってシミだらけのソファの上で父さんが酔っ払って寝ていた。


「あー、またか。一体どうやってお金手に入れたんだよ……」


 僕は大きなため息をついてひとりごちると、2階にある自分の部屋に向かった。


 すると、なんということだろう。

 机の上の赤いポスト型の貯金箱がぱっかりと割られていたのだ。


 それは、ふたりの結婚記念日に何かプレゼントしようとコツコツ貯めていたお金だった。

 もちろんそれで何かが変わるなんて思ってはいなかったけれど、僕にとっては最後の願掛けのようなものだったのだ。


 胸の奥が、冷え冷えと音を立てて凍りついていく。


 そのとき僕は気付いたのだ、自分がどこかでまだ信じていたことに。

 あんな風になっても父さんは、僕のものにまで手を出すはずがない、と。


 僕はその場にへたり込み、ひとしきり声を上げて笑った。

 しばらくしてから、あれ、顔にごみがついている、そう思って振り払った手の甲についていたのは、涙だった。





 数日後、校内の写生大会があった。

 場所は、ばあちゃんと夜道を歩いた川の土手だった。


 みんなは仲のいい友達同士ガヤガヤおしゃべりをしながら、適当な場所を探し始める。僕は人ごみを避けるように少し離れた橋の下を目指した。

 案の定そこには誰もいない。僕はほっと胸をなでおろした。


 川面を描こうか、それとも岸辺の桜の木にしようか。あれこれ考えながら、指で作った四角をのぞきこんだ。

 とそのとき、四角の隅っこに見覚えのあるカーキー色のジャケットが見えて、心臓がドキッとした。


 父さんだ。


 髪はぼさぼさで服も乱れ、その顔はひどく黒ずんでいる。

 手にはお酒のカップが握られていた。


 お酒――僕の貯金箱から盗んだお金で買ったお酒。


 僕はぎゅっと唇を噛んで目を逸らした。


 やがて、同級生たちが騒ぎ始めた。

 意地の悪い笑顔で父さんを指さし口々に何か言っている。


「なぁ、見ろよあれ、浮浪者じゃね? 頭おかしいのかな」


「酔っ払いじゃん、きったねー格好!」


「なあ、あれってさ、もしかして……」


 次の瞬間、たくさんの好奇と悪意に満ちた視線がいっぺんに突き刺さるのを感じた。体がカーッと熱くなり、心臓が大きく脈打っている。

 僕は精一杯のプライドで無理やり何でもないような顔を作り、父さんがいるのと真逆の方向に足を向けた。


 と今度は、背後に父さんの視線を感じた。


 父さんはあのどろんとした目で僕を見ている。

 眉をひそめた悲しそうな表情で。


 なんでそんな顔で見るんだよ! 

 悪いのはそっちじゃないか、父さんのせいで僕は……

 ……ちくしょう!


 大声で叫び出したい衝動を、僕は必死に押さえ込んだ。

 そして誰にも見えない橋のたもとで歯を食いしばり、両手で自分の体を震えるほど力一杯抱き締めた。




 どのくらいそうしていたのだろう。

 ようやく波が引くようにその衝動が去っていったのはもう夕方で、帰り支度を始める頃だった。


「あと10分で終了だぞーっ」


 先生の声が響く中、僕はひどく投げ槍な気持ちで橋の下から見た風景を画用紙の上に描きなぐった。

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