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 それからの2年余りは、僕の短い人生でどうしようもない最悪の時期だった。


 学校帰りに川沿いの道をとぼとぼと歩きながら、いつも僕はひそかに期待していた。すべてが夢であることを、そうでなければ誰かが神様のようにこの状況を一気に解決してくれることを。


 だけど玄関のドアを開けた瞬間に、かすかな希望は無残にも打ち砕かれ、静かな失望が一気に僕を取り囲む。


 ああ、やっぱり。


 父さんが、居間のソファにだらしなくもたれかかっていびきをかいている。すっかり艶のなくなった髪が何本も抜け落ち、ソファに乱れて張り付いている。ズボンのチャックはほとんど開いていて、その周りに濡れたような染みができていた。


 僕はそれでもなおあきらめきれず、最後の悪あがきをする。


「父さん、早く起きて。そしてお風呂に入って着替えて。今ならまだ間に合うよ。ねえ、早く。早くしないとお母さんが帰ってくるよ」


「あ……あぁ、わかった、わかったよぅ」


 体を揺さぶると父さんは、まったくロレツがまわらない様子で返事をする。


 僕は、わかったという父さんの言葉に必死にすがりつこうとする。

 が、膜がかかったようなその瞳は何も映しておらず、すぐにその返事が何も意味を持っていないのだと思い知らされる。


 僕は父さんから目を逸らし壁にかかった時計を見る。


 もうすぐ仕事を終えた母さんが帰ってきてしまう。

 焦りはいつしか無力感に取って代わり、あきらめが僕を支配し始める。


 やがてガチャガチャと玄関の鍵を開ける音がする。


 ドアを開けた瞬間の母さんの失望。

 体中の空気を全部吐き出すのではないかと思うほどの、大きなため息。


「……ねえ。この間お酒やめるって言ったよね? それで仕事もちゃんと探すって約束したじゃない……ねぇ、約束したよね? 今度は本当にやめるって、言ったよね?」


「あぁ……飲んでないよ。今日はちょっと……調子が、わ、悪くて、休んでただけだ。お酒は……飲んでぇ……ないっ」


 母さんがキッとこっちを振り向いた。


「青慈、あんた何やってるの、ちゃんと見張ってろって言ったでしょ!」


「ご、ごめんなさい……」


 懇願してみたり、泣いてみたり、怒ってみたり。

 どうにか父さんにお酒をやめさせようと思いつくことはすべてやってみたけれど、何の効果もなかった。いや逆に、どんどんひどくなっていくばかりだった。


 僕が知ってる父さんは、口下手ではあったけれども決して嘘をつくような人ではなかった。

 だから、ひょっとしてここにいるのは父さんのように見えて実は別人なんじゃないかとか、酔っているように見えても実は本当にお酒を飲んでないのかもしれない、なんておおよそ現実的でないことを真剣に考えてみたりもした。


 それで一度だけ、ふらふらと亡霊のように家を出て行く父さんの後をこっそりつけていったことがある。

 でも、足をひきずり体をゆらゆらさせながら父さんが向かった先はやっぱり、近所の酒屋の前にある自動販売機だった。


 ズボンのポケットから小銭を取り出してカップ酒を買った父さんは、その場でふたを開けると震える両手で大事そうに抱えた。そして唇をきゅうとすぼめながら何度も何度もカップを傾けて、最後までおいしそうに飲み干した。

 自動販売機の上には、いくつもの空のカップが几帳面に同じ向きに並べられていた。


 僕は体中から力が抜けて、膝を抱えてその場に座り込んだ。

 もうこれ以上、どうしていいかわからない。



 そうこうするうちに父さんは、食事にほとんど手をつけなくなった。

 どんどん痩せて顔はどす黒くむくみ、人相が違って見える。

 そんな状態でも体を引きずるようにしてお酒を買いに出ようとするのを、母さんは体を張って止めようとした。

 家の中は毎日、酒と糞尿の匂いと涙と怒鳴り声でぐちゃぐちゃだ。


 みんなもう限界だった。

 何もまともに考えられないくらい、疲れ果てていた。



 そんなある日、とうとう母さんは仕事を休んで父さんを病院に連れて行った。

 父さんはもちろん嫌がっていたが、実のところ抵抗する力も残っていないようだった。


 その日僕が学校から帰った時には、母さんは入院に必要な着替えやコップやスリッパをテキパキと用意して、もう一度病院に戻るところだった。


「やっぱり肝臓の検査の値がひどくて入院だって。これじゃあどっちにしろ、仕事なんかできるわけないわ」


 吐き捨てるようにそう言う母さんは、けれどもどこか浮き浮きとしているようにさえ見えた。


 そう、病気は父さんに免罪符を与えてくれた。

 一瞬のうちに父さんは「どうしようもない酔っ払い」でなく「手厚い看護が必要な病人」になったのだ。

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