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 その頃、僕はずっと思っていた。


 母さんが怒ってばかりいることも父さんが夜中に飲んだくれて帰ってくることも自分の家なのにひどく居心地が悪くてときどき消えてしまいたくなるのも、きっとよくあることなのだと。

 それでも僕がもっとがんばっていい子になりさえすれば、何もかもうまくいくに違いないと。



 その期待がものの見事に砕け散ったのは、小6のゴールデンウィーク明けだった。


 その日、僕はいつもと同じように学校が終わるとまっすぐ家に向かった。

 母さんが帰る前に洗濯物をたたみ、米をといでおくためだ。


 玄関に入ると、珍しく父さんの靴があった。


 きっと仕事が早く終わったのだろう、とにかくこれで今日は、夜中の言い争いを聞かなくて済む。そう思うとホッとして、思わずソファに駆け寄った。


 考えてみたら、父さんとちゃんと顔を合わせるのは、ずいぶん久しぶりだった。父さんはいつも僕が寝ているうちに仕事に行ってしまうし、帰ってくるのは僕が布団に入ってからだった。

 だからかもしれない、なんとなく僕はその時、幼い頃公園で僕を嬉しそうに見ていた父さんの姿を思い浮かべていたんだ。


「父さん、お帰り!」


 でも、弾んだ僕の声に驚いたように振り向いた父さんは、あの時と違って僕を見てもにこりともしなかった。

 ただお酒の匂いをぷんぷんさせて、少し眉をひそめた悲しそうな顔をゆっくりこちらに向けただけだった。


 どろんと濁った暗い瞳。


 今まで見たことのない父さんのその様子に、僕は驚いた。

 でももっと衝撃的だったのは、そのすぐ後に息を切らして家に帰ってきた母さんの行動だった。


 血相を変えて大声で叫びながら父さんにつかみかかる母さんの姿は、まるでドラマのワンシーンのようだった。


 ……いつから仕事に行ってなかったの……

 会社のお金を使い込んで、一体どこで飲んだくれて……

 ……クビになったなんて……

 これからどうやって……


 母さんの金切り声が、切れ切れに聞こえた。


 テーブルはひっくり返り、食器や服や郵便物やあらゆるものが一面にばらまかれ、その混沌の真ん中で母さんが般若のような顔で仁王立ちになっていた。


 額の傷跡がはちきれそうに赤く膨れている。


「一体どういうつもりなのよ! 私がどれだけ頑張ってきたと思ってるの?

 毎日毎日仕事して、買いたいものも我慢して必死に倹約して、どんなに疲れてても、家の中のことも、青慈のことだってきちんとやってきたわ。なのにあんただけ好きなように遊んで、呑んだくれて、やりたい放題やって、今度は会社までクビになって……!

 どうしてよ、どうしてわかってくれないの? ねえ、私がやってることおかしい? 何か間違ってる?」


 母さんは父さんのはだけたワイシャツの襟元をつかみ、激しく揺さぶりながら詰め寄った。


「あぁ、おかしくないょ、間違ってない。ダメなのはぁ、俺なんだ……俺が悪ぅいんだ。俺さえいなくなぁれば……いいんだ」


 父さんは母さんから目をそらすようにして、上手く回らない舌で弱々しくつぶやいた。


「ちゃんと、幸せにしてやろうと、思ってたのになぁ。

 ああ、思うだけじゃ、ダメだ……俺は、ダメだ……。

 すまんなぁ、おまえも、こんな男と一緒になっちまってぇ、もっと、きちんとした男とぉ、結婚すれば……よかったのになぁ……」


 そう言って父さんはがっくりと肩を落とし、さめざめと泣いた。


 大人がそんな風に泣くところを初めて目にした僕は、見てはいけないものを見てしまった気がしてひどくうろたえた。なのに体がべったりと壁に張り付いているかのようで、身動きひとつできないのだった。


 父さんをきつくにらみつけたままの母さん。

 うなだれて酒臭い息を吐きながらすすり泣く父さん。

 黙ってふたりを見つめている僕。


 どのくらいそうしていたのだろう。

 やがて壁に手をつたいながらゆっくりと立ち上がった父さんは、体を揺らしおぼつかない足取りで玄関に向かう。


「待ちなさいよ。ダメって、何よ、すまんって、一体どういうことよ……!」


 けれどそれには答えず父さんは、「ああ、すまん。本当にすまんなぁ……」そうつぶやきながら、ふらふらと外に出て行ってしまった。


「すまんすまんって……じゃあ私はどうしたらいいのよ……」


 父さんの背中にそうつぶやいて力なく床に座り込んだ母さんは、両手で顔を覆うと大きなため息をついた。

 部屋に戻るのもはばかられて、僕はその場に立ち尽くす。


 と、うつむいていた母さんが胸を押さえて息を荒くしているのに気が付いた。


「母さん? どうしたの?」


 答える代わりに母さんは肩を激しく上下させ始めた。


「母さん? 大丈夫? 母さん!」


 その声が合図であったかのように、苦しそうに顔を歪めた母さんの体からずるずると力が抜け、そのまま床に倒れこんでしまった。


「母さん、母さん!?」


 いくら呼んでも、苦しそうにあえぐばかりで返事にならない。


 どうしよう。母さんが死んじゃう!

 いったいどうしたらいい?



 その時、脳裏にパッとばあちゃんの顔が浮かんだ。


 ああ、ばあちゃん、お願いだ、母さんを助けて!

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