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『出来損ないのお前に遺産は一円もやらない』と絶縁した母が、十年後、無職の兄の借金三百万円を払えと会社まで押しかけてきました

掲載日:2026/09/15

『出来損ないのお前に遺産は一円もやらない』と絶縁した母が、十年後、無職の兄の借金三百万円を払えと会社まで押しかけてきました


幼い頃から、母の口癖は決まっていた。


「あんたは出来損ないなんだから、お兄ちゃんを見習いなさい」


兄の直樹が八十点を取れば、母は苺の載ったケーキを買ってきた。私が九十五点を取っても、答案用紙を裏返し、「女が勉強したって生意気になるだけよ」と鼻を鳴らした。夕食には兄の好物の煮込みハンバーグが湯気を立て、私の前には昨夜の残りの冷えた里芋が、小鉢に三つだけ転がっていた。


大学の合格通知が届いた日も、母は封筒を開けようとしなかった。台所では兄が食べ残したカレーの鍋が焦げつき、窓辺の布巾から生乾きの匂いが漂っていた。父は新聞で顔を隠し、母は私の合格通知を指先で押し戻した。


「女に大学なんて無駄よ。学費は一円も出さないからね」


「国立だし、奨学金も申し込んである。自分で通うから」


「勝手にすればいいわ。ただし家にはお金を入れなさい。直樹は就職活動で大変なんだから、あんたが食費くらい払うのは当然でしょう」


その日から、私は早朝のパン工場と夜の居酒屋で働いた。講義中に眠らないよう、休憩時間には洗面所で冷たい水を顔へかけ、昼食は購買で一番安い餡パン一つで済ませた。一方、兄は就職活動がつらいと言って半年でやめ、母から小遣いをもらって新しいゲーム機を買っていた。


卒業後、私は中堅のIT企業へ就職し、社員寮へ移った。荷物は段ボール箱三つだけで、母は玄関まで見送りにも来なかった。代わりに食卓へ便箋を置き、ボールペンを投げるように寄越した。


「もう戻ってこられたら迷惑だから、一筆書きなさい。うちの財産を当てにしません、老後の世話もしませんって」


「お母さんが書くんじゃないの?」


「あんたには遺産を一円も残さないし、面倒も見させない。赤の他人として生きなさいって言ってるのよ。分かったら早く署名して」


私は母の言葉も書面へ加え、同じ内容の紙を二通作った。母が署名して実印を押すところを携帯電話で撮影し、一通を持って家を出た。駅へ向かう途中、商店街の肉屋から揚げたてのコロッケの匂いが流れてきたが、財布には電車賃と五百円玉しかなく、私は何も買わずに通り過ぎた。


それから十年、私は実家へ帰らなかった。


会社では顧客管理システムの開発を任され、五年後に独立した。六人で始めた会社は十二人になり、奨学金も完済した。都内に中古の二LDKを買い、日曜の朝には豆を挽いてコーヒーを淹れる生活まで手に入れた。


ただし、誰かが机へ書類を強く置くだけで、私は背筋を伸ばして謝る癖が抜けなかった。社員が体調不良で休みたいと言えば、口では「無理をしないで」と答えながら、自分が休む日は一年に一度も作れない。冷蔵庫には新しい総菜が入っていても、古いものから食べなければ叱られる気がして、少し乾いた煮物を先に取り出してしまう。


母から電話が来たのは、十月の月曜日だった。


午後五時を過ぎ、社員が帰り支度を始めた頃、机の上で私用の電話が震えた。十年間見ていなかった番号だったが、下四桁まで覚えていた。窓の外では、向かいのビルのガラスが傾いた夕日を反射していた。


「はい」


「澪! あんた、今すぐ三百万円を振り込みなさい!」


挨拶もなく、母の声が耳へ突き刺さった。私は椅子の背もたれから体を離し、机に置いたボールペンをそろえた。受話口の向こうではテレビが鳴り、パチンコ台の派手な効果音が混じっていた。


「何のお金?」


「直樹の借金よ。利息が増えて大変なの。あんた、会社を経営しているんでしょう。三百万円くらいすぐ出せるわよね」


「出せない」


「家族が困っているのよ!」


母によれば、兄は就職と退職を繰り返したあと、三年前から働いていなかった。母の年金で暮らしながらパチンコへ通い、消費者金融とカード会社から借金を重ねたらしい。母も返済のために定期預金を解約し、残ったのは古い実家だけだという。


「兄さんが立ち直ったら返してくれるわ。あんたは子供の頃から家族に迷惑ばかりかけたんだから、これくらい恩返ししなさい」


「私が何をしたの?」


「女のくせに大学へ行って、勝手に家を出たでしょう。親の言うことを聞かない子は家族の恥よ」


私は机の引き出しを開けた。奥には、母の署名と実印が入った念書の写しを保管していた。紙の端は黄ばんでいたが、「遺産は一円も残さない」「互いの生活と老後に関与しない」という文字は、今もはっきり読めた。


「お母さん、私が家を出た日に言ったことを覚えてる?」


「十年も前の話なんて知らないわよ」


「私には一円も遺産を残さない。老後の面倒も見させない。赤の他人として生きろと言ったのよ。お母さんが署名した念書も録画も残ってる」


しばらく返事はなかった。テレビの効果音だけが続き、やがて母は息を吸い込んだ。次に聞こえた声は、幼い私が食器棚の前で何度も聞いたものと同じだった。


「親を見捨てる気? 親不孝者! 私たちが死んでもいいっていうの!」


「借金をしたのは兄さんで、返済のために年金を渡したのはお母さんよ。私の口座は、その穴を埋めるためにあるんじゃない」


「明日、そっちへ行くからね。住所も会社も調べてあるんだから!」


電話が切れたあと、私はしばらく黒くなった画面を見ていた。給湯室では、最後まで残っていた社員がマグカップを洗っている。蛇口の水音を聞きながら、私は会社の顧問弁護士へ電話をかけた。


翌日の昼前、母と兄は本当に会社へ来た。


受付のガラス扉を、母が手のひらで何度も叩いていた。兄は毛玉のついた灰色のスウェットを着て、靴の踵を踏みつぶしている。母の手には、私の会社名と住所を印刷した紙が握られていた。


「澪を出しなさい! 母親が来てるのよ!」


社員たちが執務室からこちらを見ていた。以前の私なら、母の声を止めるために財布も通帳も差し出していただろう。けれど今日は、顧問弁護士の宮原とビルの警備員が、応接室の前で待っていた。


「会社で大声を出すのはやめてください。話は弁護士同席で伺います」


「親子の話に他人を入れるなんて、あんたはどこまで冷たいの!」


「ここは私の会社です。社員の仕事を妨げる人を、家族だからという理由で自由に入れることはできません」


応接室へ入ると、兄は革張りの椅子に沈み込み、テーブルの菓子へ手を伸ばした。母は鞄から督促状の束を取り出し、私の前へ押しつけた。紙には消費者金融だけでなく、母名義のカードローンまで混じっていた。


「とりあえず三百万払って。家を売れば、あとで返せるから」


「その家には住宅ローンの残債と、兄さんの借金を担保にした抵当権がありますね。売却しても、お母さんの手元にはほとんど残りません」


宮原が登記事項証明書をテーブルへ置いた。母は初めて見るもののように目を動かし、兄の袖を引いた。兄は口に入れた菓子を飲み込み、視線を窓へそらした。


「直樹、家は担保にしていないって言ったじゃない」


「仕方なかったんだよ。母さんが澪なら払うって言ったから」


「私がいつ払うと言ったの?」


「お前、金あるんだろ。家族なんだから助けるのが普通じゃん。三百万払えば全部丸く収まるんだよ」


兄の指には、真新しい腕時計が光っていた。テーブルの下には新型の携帯電話が見え、画面には競馬の投票サイトが開いたままになっている。私は督促状へ触れず、用意していた封筒を母の前へ置いた。


中には、今後の連絡を弁護士経由に限定する通知書が入っていた。会社や自宅への訪問、社員への接触、大声や居座りが続く場合には、警察への相談と法的措置を取ることも記してある。念書だけで親子関係や法律上の問題がすべて消えるわけではないが、十年間交流がなく、過去にも金銭を要求された記録があることは、宮原が整理してくれていた。


「扶養について何か請求なさりたいのであれば、正式な手続きを取ってください。ただし、澪さんの生活状況や、これまでの親子関係も含めて判断されます。お兄様のギャンブルによる借金を、妹である澪さんが支払う義務はありません」


宮原の説明が終わると、母は唇を結び、膝の上でハンカチをねじった。やがて私を見上げ、声を低くした。その声音には、食卓の隅へ私の小鉢を置いていた頃と変わらない響きが残っていた。


「私はあんたを産んで育てたのよ」


「私は奨学金とアルバイトで大学を出た。家へ入れた食費の記録も残ってる。それでも、産んだ費用を請求したいなら、弁護士へ明細を出して」


「そんな言い方をして。昔からあんたは可愛げがなかった」


「お母さんが可愛がらなかった子供に、可愛げまで用意させないで」


母の指からハンカチが滑り落ちた。兄は椅子から立ち上がり、三百万円が無理なら百万円だけでも貸せと声を荒らげたが、警備員が扉を開けると黙った。二人は封筒を持たないまま退室し、母の足音だけが廊下に長く響いた。


翌週、兄から「母さんが倒れた。お前のせいだ」というメールが届いた。宮原が確認したところ、母は倒れておらず、兄と口論して近所の交番へ相談に行っただけだった。私はメールを保存してから着信を拒否し、会社の受付にも二人の写真を預けた。


その後、実家は任意売却され、母は年金で入居できる小さな賃貸住宅へ移った。兄は無料の法律相談を経て債務整理を始め、支援員の紹介で倉庫の仕事に就いたと、弁護士を通じて知らされた。母が用意した食事と金がなくなり、四十歳を過ぎて初めて自分の洗濯物を干しているという。


私は一円も渡さなかった。


それは二人を罰するためではない。私が埋めれば、母はまた兄の失敗を隠し、兄はまた自分の足で立つ機会を失う。十年前までの私は、家族を助けるとは、自分の食事や睡眠や将来を差し出すことだと思わされていた。


十一月最初の日曜日、私は目覚まし時計を止め、昼近くまで眠った。冷蔵庫には昨日買ったひき肉があり、玉ねぎを刻んでいると目に染みた。フライパンへ丸めた肉を置くと、脂のはぜる音と香ばしい匂いが台所に広がった。


出来上がったハンバーグを皿へ載せ、炊きたてのご飯と温かい野菜スープを添えた。戸棚には昨夜の煮物も残っていたが、今日食べたいものを先に食べても、誰にも叱られない。私は窓際の小さなテーブルに座り、箸でハンバーグを割った。


肉汁が白い皿へ流れ出したところで、会社の部下から短いメッセージが届いた。


『月曜の会議資料、完成しました。社長も今日は仕事を開かないでくださいね』


私は「ありがとう。明日確認します」とだけ返信し、端末の電源を切った。挽きたてのコーヒーには、砂糖を一杯入れた。母はいつも、そんな飲み方は子供っぽいと笑ったけれど、自分のお金で買った豆を、自分の家で、自分の好きな味にして飲んでいる。


窓の外には、洗ったばかりのような秋の青空が広がっていた。私は冷める前のハンバーグをもう一口食べた。出来損ないと呼ばれた娘は、ようやく自分のために、温かい一皿を選んでいた。


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