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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと存在しなかったから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/05/02

 リゼリア・アークライト公爵令嬢は、三年前に処刑された。


 王太子殿下の婚約者でありながら、聖女を妬み、妹を虐げ、学園を私物化し、公爵家の名を笠に着て幾人もの人生を歪めた女。


 判決文には、そう記されている。


 彼女の罪状は多かった。


 王太子殿下への異常な執着。

 聖女リリアンへの毒殺未遂。

 異母妹マリエラへの長年の虐待。

 王立学院における教師への圧力。

 貴族子女への嫌がらせ。

 舞踏会招待状の破棄。

 公爵家財産の私的流用。


 さらには、王宮式典で用いられる聖香のすり替え未遂。


 悪役令嬢と呼ぶには、十分すぎるほどの罪だった。


 少なくとも、記録の上では。


 王宮記録院の第三整理室は、冬になると指先が冷えた。


 石造りの壁は厚く、外の風を通さない。そのかわり、夏の湿気と冬の冷気をゆっくり溜め込む。古い羊皮紙とインクと埃の匂いが、棚の隙間から染み出している。


 書記官のセオドール・レンは、古い裁判記録の束を机の上に置いた。


 王太子エドガルド殿下の即位が近い。


 その準備に伴い、王族に関わる過去の不祥事記録は、いったん分類し直されることになった。


 表向きは、記録体系の再編。


 実際には、次代の治世に不要な火種を見つけ、必要なら封じるための作業だった。


 セオドールは、まだ若い書記官だった。


 爵位を持たない官吏の家に生まれ、王立学院の下級官吏養成課程を出て、記録院へ入った。出世の道は細く、だが帳簿と台帳と照合には向いていた。


 人の顔色を読むより、文字のずれを見る方が得意だった。


 その日も、彼は何気なく一枚目の目録を開いた。


 リゼリア・アークライト公爵令嬢処刑事件。


 王太子婚約者断罪記録。

 聖女毒殺未遂関連供述書。

 公爵家内部調査摘要。

 王立学院懲戒調書。


 罪状一覧だけで、小さな冊子が一つ作れそうだった。


 セオドールは、指先で目録の端を押さえながら、別棚から王族婚約台帳を取り寄せた。


 婚約はあった。


 王太子エドガルド・ルフェインと、アークライト公爵家令嬢リゼリアとの婚約。


 署名もある。


 王の印、王妃の印、アークライト公爵の印、司祭長の印。


 ただ、妙だった。


 本人署名欄が、空白だった。


 貴族令嬢の場合、幼少時の婚約では本人署名がないこともある。けれど、その場合は後年に追認署名が追加される。十五歳の社交界入り、あるいは王太子妃教育開始時に、本人が署名するのが慣例だった。


 リゼリアの欄には、それがなかった。


 セオドールは眉を寄せ、別の台帳を開いた。


 公爵家出生記録。


 アークライト公爵家の項には、長男、次男、長女、次女の出生が記されている。


 だが、長女の欄はマリエラだった。


 リゼリアの名はない。


 養女記録を調べた。


 ない。


 私生児認知記録を調べた。


 ない。


 洗礼記録を調べた。


 ない。


 王都大聖堂、東区聖堂、アークライト領都大聖堂、すべて照合した。


 リゼリア・アークライトという名は、どこにもなかった。


 セオドールは、最初、単なる記録欠落だと思った。


 名門貴族ほど、都合の悪い出生や早世した子の記録を私的に抱えることがある。公的台帳から漏れることも、まったくないわけではない。


 ましてアークライト公爵家は、当時王家と密接に結びついていた。


 何か事情があり、非公開の家内記録にのみ残された可能性はある。


 セオドールはそう考え、作業を続けた。


 王立学院入学名簿。


 なし。


 王太子妃教育出席簿。


 なし。


 礼法教師契約簿。


 なし。


 衣装商会への支払い記録。


 なし。


 侍女給与簿。


 なし。


 医師診療記録。


 なし。


 馬車使用許可簿。


 なし。


 王宮舞踏会入場記録。


 なし。


 だが、事件記録には彼女がいる。


 奇妙なことに、彼女は事件の中にだけ現れた。


 舞踏会招待状紛失事件では、リゼリアが招待状を隠したとされていた。


 聖香すり替え未遂事件では、リゼリアが倉庫の鍵を手に入れたとされていた。


 王太子殿下と聖女リリアンが庭園で二人きりでいた夜には、リゼリアが嫉妬で癇癪を起こしたと記されていた。


 マリエラ嬢のドレス代が二重請求された月には、リゼリアが浪費したと記されていた。


 公爵家の金庫から用途不明金が出た年には、リゼリアが宝飾品を買い漁ったと記されていた。


 王立学院の教師が問題を報告しなかった件では、リゼリアの圧力があったとされていた。


 彼女の姿はどこにもない。


 けれど、彼女の罪だけは、どこにでもあった。


 セオドールは机に肘をつき、供述書を読み返した。


 最初の違和感は、小さなものだった。


「リゼリア嬢は、昔から妹君に冷たく当たっておられました」


 証言者は、公爵家の元侍女。


 その下に小さく、聴取官の注記がある。


 ただし証言者は、リゼリア嬢に直接仕えた経験なし。


 次の供述。


「王太子殿下は長く苦しんでおられたと聞いております」


 証言者は、王宮侍従。


 注記。


 王太子殿下より直接の聴取なし。周囲の噂による。


 次。


「聖女様は、あの方を責めることなく耐えておいででした」


 証言者は、大神殿見習い巫女。


 注記。


 毒殺未遂現場には不在。


 次。


「マリエラ様は、姉上様を恐れておられました」


 証言者は、マリエラ付き侍女。


 注記。


 リゼリア嬢との同席経験は不明。


 セオドールは、しばらく文字を見つめた。


 誰も、リゼリアを見ていない。


 いや、正確には、見たと断言している者がいない。


 皆、聞いたと言っている。


 そうだったらしい、と言っている。


 マリエラ様がそう仰った。


 王太子殿下がそう苦しんでおられた。


 聖女様がそう耐えておられた。


 公爵家では有名だった。


 学院では皆が知っていた。


 誰もが知っているのに、誰も見ていない。


 それは、記録の中でだけ完成している人物だった。


 セオドールは、裁判記録の最後を開いた。


 処刑記録。


 リゼリア・アークライト公爵令嬢。


 斬首刑。


 刑執行日時。


 立会人。


 王宮裁判官。


 大神殿司祭。


 王宮記録官。


 アークライト公爵代理。


 王太子殿下は、断罪式には出席したが、処刑には立ち会っていない。


 聖女リリアンも同じ。


 マリエラ嬢も同じ。


 処刑台に立った者の身体的特徴欄には、こうあった。


 女。

 年齢十六から十八ほど。

 髪色、栗色。

 身長、中程度。

 痩身。


 顔貌、処刑前の混乱により詳細不明。


 セオドールは、そこで手を止めた。


 貴族令嬢の処刑記録にしては、あまりに雑だった。


 普通、身分ある罪人の場合、本人確認は厳格に行われる。顔貌、瞳の色、髪色、体格、傷跡、装飾品、衣服、場合によっては家紋入りの持ち物まで記される。


 だが、この記録には、それがない。


 処刑されたのは、誰だったのか。


 セオドールはその問いを、声には出さなかった。


 記録院では、声に出すべき問いと、紙の上だけに残すべき問いがある。


 これは、後者だった。


 彼は処刑記録を閉じず、隣に公爵家使用人関連の古い束を並べた。


 アークライト公爵家は、三年前の事件後に大きく人員を入れ替えている。


 侍女、従僕、馬丁、料理番、教師、警備兵。その多くが辞職、異動、病死、地方配置、修道院送りになっていた。


 正式雇用の者はまだ追える。


 だが、臨時雇いは難しい。


 貴族家では、帳簿上「女中一名」「洗濯女二名」「台所補助一名」としか記されない者がいる。口入れ屋を通し、月ごとの手当だけが払われ、名前は省略される。


 人ではなく、作業量として扱われる者たち。


 セオドールは、アークライト家の支払い記録を一枚ずつ追った。


 事件の二年前から、ある記載が繰り返し出てくる。


 女中一名、臨時。

 孤児院紹介。

 雑用。

 妹君付き補助。

 名はない。


 だが、三年前、断罪の二月前にだけ、一度、端に小さく書き込みがあった。


 ノーラ。


 インクの色が違う。


 おそらく、集計時に誰かが書き添えたのだろう。


 セオドールは、その名を見つめた。


 ノーラ。


 簡単な名だった。


 貴族令嬢の名ではない。


 聖女の名でもない。


 歴史に残る名でもない。


 呼びやすく、消しやすい名だった。


 アークライト公爵邸の下働きだったノーラは、最初、自分が何を聞いているのか分からなかった。


 洗濯場で水を汲んでいた時、年上の女中がそう言ったのだ。


「またリゼリア様のせいにしておけばいいわ」


 ノーラは手を止めた。


 聞き慣れない名だった。


 公爵家には、若君が二人いる。マリエラ様がいる。奥方様は亡くなっており、後妻もいない。親族の令嬢が出入りすることはあるが、常に屋敷にいる令嬢はマリエラ様だけだ。


 だからノーラは、単純に尋ねた。


「リゼリア様って、どなたですか」


 女中たちは一瞬黙った。


 その沈黙の後、一人が笑った。


「知らない方がいいわ」


 別の女中が言った。


「奥の方よ」


 また別の女中が、小声で付け足した。


「旦那様の悩みの種」


 その日から、ノーラはリゼリアという名を何度も聞くようになった。


 厨房で割れた皿。


 行方の分からない鍵。


 マリエラ様の機嫌が悪い朝。


 王太子殿下から届いた手紙の返事が遅れた時。


 聖女様のために用意された花がしおれていた時。


 誰かが言った。


「リゼリア様がまた」


 誰かが続けた。


「仕方ないわ、あの方だもの」


 ノーラは、最初、本当にそういう令嬢がいるのだと思っていた。


 公爵家の奥の奥、閉ざされた部屋にいる長女。


 姿を見せず、怒りっぽく、妹を妬み、王太子殿下に執着する令嬢。


 ノーラは孤児院出身だった。


 世の中には、自分の知らないものがいくらでもある。貴族の家の奥に、自分のような下働きが知らされない令嬢がいても、おかしくないと思った。


 けれど、いつまで経っても会わなかった。


 廊下でも。


 階段でも。


 庭でも。


 食堂でも。


 衣装部屋でも。


 礼拝室でも。


 誰も、リゼリア様の食事を運ばない。


 誰も、リゼリア様の衣装を洗わない。


 誰も、リゼリア様の寝室を掃除しない。


 なのに、何かあるたびに、リゼリア様の名だけが出た。


 ある日、ノーラはマリエラ付きの侍女に呼ばれた。


 マリエラ様の部屋で、薄桃色のリボンが切れていた。翌日の茶会で使う予定のものだったらしい。


 マリエラ様は泣いていた。


 実際には、涙は出ていなかった。


 けれど、目元を押さえ、震える声で言った。


「あの人がやったの」


 侍女が優しく尋ねた。


「リゼリア様ですね」


 マリエラ様は頷いた。


「姉様は、いつもそう。わたくしが少しでも楽しみにしていると、壊してしまうの」


 ノーラは、床に落ちたリボンを拾った。


 切り口は鋭かった。


 手で裂いたものではない。


 マリエラ様の化粧台の上には、小さな裁ち鋏が置かれていた。


 刃先に、薄桃色の糸が残っていた。


 ノーラはそれを見た。


 見たが、何も言わなかった。


 言える立場ではなかった。


 マリエラ様は、公爵家の令嬢だった。


 ノーラは、孤児院から来た臨時の女中だった。


 その日、侍女は記録係にこう告げた。


 リゼリア様が、妹君の茶会衣装を損なった。


 ノーラは、黙ってリボンを捨てた。


 彼女はその時、初めて理解した。


 リゼリア様は、いないのかもしれない。


 いないから、何でも入るのかもしれない。


 その気づきは、怖いものだった。


 同時に、少しだけ楽なものでもあった。


 何日か後、ノーラは皿を割った。


 廊下の角で従僕とぶつかり、盆の上の皿が三枚床に落ちた。高価な皿ではなかったが、公爵家の紋が入っていた。


 従僕は舌打ちした。


「どうするんだよ」


 ノーラは青ざめた。


 弁償できる金などない。


 孤児院へ送り返されるかもしれない。


 そうなれば、次にどこへ回されるか分からない。


 その時、ノーラの口から、勝手に言葉が出た。


「リゼリア様が」


 従僕が顔を上げた。


「リゼリア様が、向こうから来られて、それで」


 自分でも、何を言っているのか分からなかった。


 だが、従僕はすぐに納得した。


「ああ、なら仕方ないか」


 仕方ない。


 その言葉で、皿三枚分の罪が消えた。


 その日、ノーラは叱られなかった。


 代わりに記録係が、小さく書き足した。


 リゼリア様、廊下にて女中の盆を払い落とす。


 ノーラは、その文字を直接見てはいない。


 けれど、あとで洗濯場の女中たちが笑いながら話しているのを聞いた。


「また増えたわね」


「リゼリア様は本当にお忙しい方」


「どこにもいないのにね」


 その笑いに、ノーラは混ざれなかった。


 けれど、否定もしなかった。


 彼女もまた、その穴に自分の小さな罪を落としたからだ。


 王太子エドガルド殿下が聖女リリアンと親しくなったのは、その少し後だった。


 聖女リリアンは、白い人だった。


 白い衣、白い手袋、淡い金髪、柔らかな声。


 人を責めない顔で、人を追い詰めるのが上手だった。


 彼女は誰かを名指しで責めなかった。


 ただ、悲しそうに微笑む。


「わたくしは平気です」


「きっと、あの方にもお苦しみがあるのでしょう」


「わたくしが至らないせいかもしれません」


 すると周囲が怒った。


 聖女様は何も悪くない。


 悪いのは、あの方だ。


 あの、王太子殿下を独占しようとする公爵令嬢だ。


 ノーラは、何度もその場にいた。


 給仕として。

 花瓶の水を替える女中として。

 廊下に控える雑用係として。

 誰も彼女を見ていない。


 だから、誰の言葉もよく聞こえた。


 王太子殿下は、リリアンの前では弱くなった。


「私は、もう耐えられない」


 そう言った時、殿下の顔には本当に疲れがあった。


 だが、何に耐えているのかは分からなかった。


 存在しない婚約者に。


 いない女の嫉妬に。


 自分が別の女へ心を移したことの後ろめたさに。


 殿下は、そのすべてを混ぜて、リゼリアという名で呼んだ。


「リゼリアは、私を愛してなどいない。ただ私を持ち物にしたいだけだ」


 リリアンは目を伏せた。


「殿下が苦しまれるのを見るのは、つらいです」


 ノーラは、水差しを持つ手に力を入れた。


 リゼリア様はいない。

 そう言えばよかったのかもしれない。


 けれど、言えばどうなっただろう。

 王太子殿下は嘘をついているのですか。

 聖女様は知っていて黙っているのですか。

 公爵家は何を隠しているのですか。


 その問いの重さに、臨時女中のノーラが耐えられるわけがなかった。


 だから黙っていた。


 沈黙は、いつも安全だった。


 その安全が、少しずつ人の首に巻きついていくまでは。


 毒殺未遂事件は、春の終わりに起きた。


 王宮の小礼拝堂で、聖女リリアンが倒れた。


 白い頬をさらに白くして、床に崩れ落ちたという。


 騒ぎはすぐに広がった。


 聖女様が毒を盛られた。


 王太子殿下の茶に混ぜられるはずだった毒を、聖女様が身代わりに飲んだ。


 犯人はリゼリア・アークライト。


 誰より早く、その名が出た。


 まだ調査も始まっていないうちに。


 ノーラは、台所の隅でその話を聞いた。


 料理番たちは口々に言った。


「とうとうやったのね」


「あの方なら、やりかねない」


「聖女様まで害するなんて」


 ノーラは、小さく言った。


「でも、リゼリア様は」


 言いかけて、やめた。


 年上の女中が振り返った。


「何?」


 ノーラは首を振った。


「何でもありません」


 その夜、ノーラは呼び出された。


 公爵家の奥の小部屋だった。


 そこには、公爵家の家令と、王宮から来た役人と、知らない男が二人いた。


 家令は、いつもと同じ静かな顔をしていた。


 ノーラは膝を折った。


「お呼びでしょうか」


 家令は言った。


「お前は、リゼリア様のお姿を知っているな」


 ノーラは、顔を上げた。


 知っているはずがない。


 いないのだから。


 けれど、その部屋の空気は、答えを許していなかった。


「お前は、リゼリア様の近くで働いていた」


「いいえ、わたしは」


 役人の一人が机を叩いた。


「答えなさい」


 ノーラは肩を震わせた。


 家令は淡々と続けた。


「リゼリア様は、聖女様に毒を盛った疑いで、王宮裁判所に出頭なさる。だが、あの方は抵抗されている。お前は身の回りの支度を手伝うことになった」


「わたしが、ですか」


「そうだ」


「でも、わたしはリゼリア様にお会いしたことが」


 そこで、家令の目が初めて冷えた。


「ある」


 短い言葉だった。


 決定だった。


 ノーラは、その瞬間、理解した。


 会ったことがあるかどうかではない。


 会ったことにするのだ。


 ノーラはさらに言い募ろうとした。


 だが、知らない男の一人が彼女の腕を掴んだ。


 強い力だった。


「痛い」


 声が漏れた。


 男は表情を変えなかった。


 家令が言った。


「お前は運がいい。これは大きな役目だ。黙って従えば、孤児院にも迷惑はかからない」


 孤児院。


 その言葉で、ノーラは口を閉じた。


 彼女に家族はいない。


 けれど、自分が育った孤児院には、まだ小さな子どもたちがいる。院長は厳しかったが、飢えさせはしなかった。冬に薪が足りないこともあったが、それでもノーラはそこで生き延びた。


 公爵家や王宮が本気になれば、あの小さな孤児院など、簡単に潰せる。


 ノーラは、黙った。


 翌朝、彼女は湯を使わされ、髪を整えられ、貴族令嬢の古いドレスを着せられた。


 栗色の髪は結い上げられた。


 薄い頬には白粉を塗られた。


 手には手袋をはめられた。


 鏡の中に、知らない女がいた。


 いや、知らない女ですらなかった。


 誰かが想像した悪役令嬢の輪郭に、ノーラの身体を押し込めたものだった。


 年上の侍女が後ろで呟いた。


「意外と、それらしくなるものね」


 ノーラは、鏡の中の自分を見た。


 それらしく。


 その言葉ほど怖いものはなかった。


 王宮裁判所での断罪式は、最初から終わっていた。


 罪状は読み上げられた。


 証人は出た。


 王太子殿下は、怒りと悲しみを混ぜた顔で言った。


「リゼリア。君には何度も機会を与えた」


 ノーラは、彼を見た。


 近くで見た王太子殿下は、絵姿よりも若かった。


 そして、思ったよりも怯えていた。


 彼は本当に怒っているのではない。


 自分が壊したものを見ないために、怒っているふりをしている。


 ノーラはそう思った。


「わたしは、リゼリアではありません」


 声は、思ったより小さかった。


 広い裁判所では、すぐに消えた。


 王太子殿下の眉がわずかに動いた。


 聞こえたはずだった。


 けれど彼は言った。


「最後まで罪を認めないのか」


 聖女リリアンは、白い布で口元を押さえていた。


 病み上がりということになっている。


 けれど、目は澄んでいた。


 彼女はノーラを見た。


 確かに見た。


 そして、優しく言った。


「わたくしは、あなたを恨みません」


「違います」


 ノーラは言った。


「わたしは、毒なんて」


「どうか、これ以上、ご自分を苦しめないでください」


 聖女の声は柔らかかった。


 その柔らかさが、ノーラの言葉を包んで潰した。


 マリエラは泣いていた。


 今度は、本当に涙が出ていた。


 泣きながら、ノーラを指さした。


「姉様、どうして」


 その指先が震えていた。


 ノーラは、その震えを見た。


 マリエラは分かっている。


 これは姉ではない。


 そもそも姉などいない。


 けれど、彼女は泣いた。


 泣けば、周囲が怒ってくれるから。


 公爵代理として出席していた男は、目を伏せていた。


 裁判官は用意された紙だけを見ていた。


 記録官は、ノーラの言葉を書き取らなかった。


 その場にいた全員が、役目を果たしていた。


 王太子は、苦しめられた婚約者。


 聖女は、許す被害者。


 妹は、虐げられた少女。


 公爵家は、恥を断つ家。


 裁判所は、正義を示す場。


 記録官は、秩序を残す手。


 そしてノーラは、リゼリアだった。


 それ以外の役は、用意されていなかった。


 ノーラは叫んだ。


「わたしの名前は、ノーラです」


 静まり返った。


 ほんの一瞬だけ。


 誰もが、それを聞いた。


 だが、裁判官が木槌を打った。


「罪人リゼリア・アークライト。なおも錯乱し、偽名を称する。記録には不要」


 不要。


 それで終わった。


 判決は、斬首。


 執行は三日後。


 王太子殿下は裁判所を出る時、一度だけ振り返った。


 ノーラは彼を見返した。


 助けてほしいとは思わなかった。


 もう遅い。


 ただ、見てほしかった。


 あなたが殺すのは、自分の婚約者ではない。


 存在しない悪女ではない。


 ここにいる、名前のある人間だ。


 だが、王太子殿下はすぐに目を逸らした。


 その瞬間、ノーラは悟った。


 彼は知らなかったのではない。


 知る必要がなかったのだ。


 処刑前夜、ノーラは牢の中で紙片を拾った。


 食事を包んでいた古い記録紙の端だった。


 炭の欠片もあった。


 誰が置いたのかは分からない。


 偶然かもしれない。


 処刑場の役人の嫌がらせかもしれない。


 あるいは、誰かの最後の哀れみだったのかもしれない。


 ノーラは、震える手で書いた。


 わたしの名前は、ノーラ。


 それだけだった。

 それ以上は書けなかった。


 自分が何をしていないか。

 誰が嘘をついたか。

 どうしてここにいるのか。


 書くべきことはいくらでもあった。


 けれど、最後に残したかったのは、罪の否定ではなかった。


 名前だった。


 翌日、その紙片は処刑記録に挟まれた。


 理由は分からない。


 処刑前の罪人所持品として添付されたのかもしれない。


 記録官が一時的に保管したのかもしれない。


 あるいは、ノーラが手袋の内側に隠し、それが後に見つかったのかもしれない。


 だが、三年後、セオドールが見つけた時、その文字は半分削られていた。


 わたしの名前は、ノ――


 最後の二文字だけが、紙の繊維に沈み込むように残っていた。


 その上から、濃い墨で別の文字が書かれている。


 罪人リゼリア・アークライト、刑執行済。


 セオドールは、長く息を止めていた。


 気づけば、指先が冷たくなっていた。


 冬のせいではない。


 彼は処刑記録をもう一度開いた。


 執行時の発言欄には、こうあった。


 罪人、最後まで罪を認めず。錯乱状態。聞き取り不能。


 セオドールは、削られた紙片を見つめた。


 聞き取り不能。


 違う。


 聞き取らなかっただけだ。


 その後の調査は、慎重に行った。

 表向きには、通常の照合作業として。


 彼は孤児院記録を調べた。


 王都南区、聖マルタ孤児院。

 ノーラ。

 姓なし。

 推定年齢八歳で保護。

 読み書き初歩可。

 十二歳で洗濯補助。

 十四歳で口入れ屋を通じ、アークライト公爵家へ臨時女中として送出。


 以後、帰院記録なし。


 死亡記録なし。


 移籍記録なし。


 ただ、三年前の冬、孤児院には匿名の寄付が入っていた。


 銀貨二百枚。


 寄付者名は、アークライト公爵家。


 名目は、慈善。


 セオドールはその記録を見て、しばらく動けなかった。


 黙らせるための金。


 あるいは、慰謝料のつもりだったのか。


 どちらにせよ、それはノーラの命の値段ではなかった。


 ノーラがノーラであったことを消すための手数料だった。


 さらに調べると、奇妙な整合性が浮かび上がった。


 リゼリア・アークライトの罪は、すべて誰かの失敗と重なっている。


 王太子殿下が聖女と密会した日。


 リゼリアは嫉妬で暴れた。


 マリエラ嬢が礼法試験に遅刻した日。


 リゼリアが馬車を使わせなかった。


 公爵家の会計に穴が出た月。


 リゼリアが宝飾品を購入した。


 学院教師がいじめの報告を怠った日。


 リゼリアが教師を脅した。


 聖女リリアンが禁じられた香草を独自に用い、体調を崩した日。


 リゼリアが毒を盛った。


 リゼリアは便利だった。


 存在しないから、反論しない。


 存在しないから、歳を取らない。


 存在しないから、矛盾しても構わない。


 同じ時刻に学院と公爵邸と王宮庭園で罪を犯していても、誰も気にしない。


 なぜならリゼリアは、女ではなく、穴だったからだ。


 王家の穴。

 公爵家の穴。

 学園の穴。

 大神殿の穴。


 そこへ皆が、自分の捨てたいものを入れた。


 最初は、小さな嘘だったのだろう。


 皿が割れた。

 招待状をなくした。

 手紙の返事を忘れた。

 嫉妬されたことにした。

 責められたことにした。

 妨害されたことにした。

 やがて小さな嘘は、形を持った。


 公爵令嬢という形を。


 王太子の婚約者という形を。


 悪役令嬢という形を。


 そして最後に、その形には身体が必要になった。


 選ばれたのが、ノーラだった。


 セオドールは、報告書を書き始めた。


 最初の一枚には、事実だけを並べた。


 リゼリア・アークライトに関する出生記録なし。


 洗礼記録なし。


 王立学院入学記録なし。


 王太子妃教育出席記録なし。


 衣装費、診療費、侍女給与、馬車使用、居室管理記録なし。


 婚約台帳に本人署名なし。


 処刑記録の身体的特徴曖昧。


 処刑前所持紙片に、ノーラと読める削り跡あり。


 アークライト家臨時女中としてノーラの名が一度だけ確認される。


 聖マルタ孤児院より、同名の少女送出記録あり。


 帰院記録なし。


 死亡記録なし。


 セオドールはそこで筆を止めた。


 この報告書を上げれば、どうなるか。


 王太子殿下の即位は揺らぐ。


 聖女リリアンの清廉は傷つく。


 マリエラ嬢の証言は崩れる。


 アークライト公爵家は処分を免れない。


 王宮裁判所の判決は無効になる。


 記録院もまた、虚偽記録の保管と追認に問われる。


 そして、三年前に処刑されたノーラは戻らない。


 戻らない者のために、生きている者たちの秩序を壊すのか。


 セオドールは、そう考えた。


 考えてしまった。


 その瞬間、自分も同じ場所に立ったことを理解した。


 王太子殿下と同じ。


 聖女と同じ。


 公爵家と同じ。


 裁判官と同じ。


 記録官と同じ。


 彼はノーラの名を見つけた。


 見つけた上で、どう扱うかを選ばなければならなかった。


 その夜、第三整理室の窓に雨が打ちつけていた。


 雪になるにはまだ早い、冷たい雨だった。


 セオドールは報告書の一枚目を破った。


 ゆっくりと、細く裂いた。


 文字がばらばらになった。


 リゼリア。


 なし。


 ノーラ。


 削り跡。


 処刑。


 それらの断片が、机の上に散った。


 彼は新しい紙を出した。


 そこに、別の報告を書いた。


 リゼリア・アークライト公爵令嬢に関する出生記録、洗礼記録、教育関連記録の一部欠落について。


 当該資料は、三年前の事件に伴う公爵家内部整理、王宮裁判所移送、大神殿保管資料との重複管理により散逸したものと推定される。


 婚約台帳本人署名欄の空白は、幼少期婚約および事件発生による追認不能によるものと考えられる。


 処刑記録の身体的特徴欄の簡略化は、当時の混乱および罪人の錯乱状態による確認困難に起因する。


 以上、王太子殿下即位関連資料としては、現行記録を正本として保持することが妥当である。


 最後に、こう添えた。


 追加調査の必要なし。


 筆を置いた時、セオドールは自分の手が震えていることに気づいた。


 寒さのせいではない。


 恐怖のせいでも、完全にはなかった。


 それは、理解してしまった者の震えだった。


 世界は、真実を知らないから間違えるのではない。


 真実を知った後でも、都合が悪ければ誤記と呼ぶ。


 翌日、上級記録官はセオドールの報告書を読み、満足そうに頷いた。


「よく整理されている」


「ありがとうございます」


「即位前に余計な不備が出ると困るからな。こういうものは、筋道をつけておくことが大事だ」


「はい」


「リゼリア・アークライトの件は、もう終わった話だ」


 終わった話。


 セオドールは、その言葉を聞いた。


 終わったことにした話。


 そう言い換えたかった。


 だが、言わなかった。


 上級記録官は続けた。


「記録とは、事実を残すものではない」


 セオドールは顔を上げた。


 上級記録官は穏やかに言った。


「国が後から確認できる形に、出来事を整えるものだ。覚えておきなさい」


 セオドールは、深く頭を下げた。


「はい」


 その返事は、よくできた書記官のものだった。


 数日後、リゼリア・アークライト公爵令嬢処刑事件の記録は、王太子即位関連整理済み資料として封箱された。


 封蝋が押された。


 王宮記録院第三整理室。


 閲覧制限、上級官吏以上。


 正本確定。


 その箱の中に、削られた紙片も戻された。


 わたしの名前は、ノ――


 その文字は、もう誰にも読まれない。


 読まれたとしても、錯乱した罪人の意味不明な書き付けとされるだろう。


 あるいは、処刑前の侍女の名を書いたものだと解釈されるかもしれない。


 どちらでもいい。


 どちらにせよ、ノーラは戻らない。


 リゼリア・アークライトは、存在しなかった。


 だが、存在しない彼女の罪は残った。


 王太子殿下は、やがて王になる。


 聖女リリアンは、国母にも等しい敬意を受ける。


 マリエラは、被害者として同情され、良縁を得る。


 アークライト公爵家は多少の力を失うが、家そのものは残る。


 王宮裁判所は、正義を示した機関として記録される。


 記録院は、そのすべてを正本として保管する。


 ノーラだけが、どこにもいない。


 孤児院の台帳では、送出後不明。


 公爵家の帳簿では、女中一名。


 裁判記録では、存在しない。


 処刑記録では、リゼリア。


 そしてリゼリアもまた、存在しない。


 存在しない者を殺しても、殺人にはならない。


 存在しない者に罪を積んでも、冤罪にはならない。


 存在しない者が泣いても、証言にはならない。


 存在しない者の名前が見つかっても、誤記で済む。


 それが、この国の記録だった。


 即位式の日、王都には鐘が鳴った。


 新王エドガルド陛下は、白いマントをまとい、民衆の前に立った。


 隣には聖女リリアンがいた。


 祝福の花が舞った。


 人々は歓声を上げた。


 セオドールは、記録院の窓からその音を聞いていた。


 彼の机の上には、新しい台帳が開かれている。


 新王即位。


 聖女祝福。


 王国安寧。


 彼は、その文字を丁寧に記した。


 インクが乾くまで、手を止めた。


 ふと、机の隅に小さな紙片が落ちているのに気づいた。


 いつ紛れたのか分からない。


 封箱作業の時に、削り屑の一部が袖に付いていたのかもしれない。


 紙片には、文字の端だけが残っていた。


 ラ。


 ノーラの最後の一文字。


 あるいは、リゼリアの最後の一文字。


 どちらとも読めた。


 セオドールはそれを指でつまんだ。


 捨てるつもりだった。


 暖炉に投げ入れれば、それで消える。


 世界は少し軽くなる。


 記録は整う。


 即位は汚れない。


 彼の仕事も終わる。


 だが、彼はその紙片をしばらく見つめた。


 そして、捨てなかった。


 机の引き出しの奥、私物の古い祈祷書の間に挟んだ。


 それで何かが変わるわけではない。


 告発でもない。


 正義でもない。


 救いでもない。


 ただ、完全に消すことだけはできなかった。


 その弱さが、彼に残された唯一の抵抗だった。


 数年後、王国史にはこう記された。


 若きエドガルド王は、即位前に大きな苦難を乗り越えた。


 王太子時代、彼は婚約者であったアークライト公爵令嬢リゼリアの悪意に苦しめられた。


 だが聖女リリアンの慈悲と、王国法の公正なる裁きにより、悪は退けられた。


 その後、王は聖女と共に国を導き、民に安寧をもたらした。


 歴史書には、ノーラの名はない。


 当然だった。


 歴史は、存在しない者を扱わない。


 扱わないことで、存在しなかったことにする。


 けれど、かつて公爵家の廊下で皿を割り、怖くなって一度だけリゼリア様のせいにした下働きの少女は、確かにいた。


 洗濯場で冷たい水に手を赤くした。


 マリエラのリボンの切り口を見た。


 王太子の言い訳を聞いた。


 聖女の柔らかな声に言葉を潰された。


 裁判所で名を叫んだ。


 牢の中で、炭の欠片を握った。


 わたしの名前は、ノーラ。


 そう書いた。


 それだけが、彼女の持っていた最後のものだった。


 悪役令嬢になったのは、罪を犯したからではない。


 妬んだからでもない。


 愛されなかったからでもない。


 悪意があったからでもない。


 ずっと存在しなかったからだ。


 存在しない者なら、誰も探さない。


 存在しない者なら、誰も助けない。


 存在しない者なら、どれだけ罪を積んでも、重くならない。


 そして、存在しない悪役令嬢を処刑するために、一人の少女が必要になった。


 その少女の名は、ノーラだった。


 だが、正本には残らない。


 正本に残っているのは、今もただ一人。


 リゼリア・アークライト公爵令嬢。


 三年前、王国法により処刑済み。


 追加調査の必要なし。

今回は、「悪役令嬢」という存在を少し違う角度から見た話にしてみました。


本人が何かをしたから悪役令嬢になったのではなく、周囲が都合の悪いものを置くために、その名前を必要としたらどうなるのか。


そう考えると、悪役令嬢という役割は、人間ではなく「責任の置き場所」になってしまうのだと思います。


最初は小さな嘘でも、皆がそこへ少しずつ捨てていけば、やがて大きな罪になる。

そして罪だけが大きくなった時、今度はそれを背負わせる身体が必要になる。


ノーラは、特別に善良な被害者としては書いていません。

彼女も一度だけ、その仕組みに乗っています。

だからこそ、この話の嫌さは「悪い人が悪いことをした」だけでは終わらない気がしています。


誰か一人が作った怪物ではなく、皆が少しずつ便利に使った空白。

その空白に、最後は名前のある人間が落とされた話でした。


読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
茶番で居もしない人間に罪を被せるなら、最後まで居ない人間の首を斬るべきだったな。 リゼリアを生身として首を切ってしまったら、じゃあこれからどうする? リゼリアmk-2に罪を被せ、やはり誰かを連れてきて…
>リゼリア・アークライト公爵令嬢は、三年前に処刑された。 >王太子殿下の婚約者でありながら、聖女を妬み、妹を虐げ、学園を私物化し、公爵家の名を笠に着て幾人もの人生を歪めた女。 >判決文には、そう記され…
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