第6章 林間学校への道は、パンツ選びとバス酔いと修羅場で舗装されている
1.ショッピングモールという名の戦場
林間学校の前日。それは、戦士にとっての休息日ではなく、物資調達という名の決戦日である。
俺、鷹井順は、駅前の大型ショッピングモール『イオン・プラザ』の紳士肌着売り場にいた。
目的はただ一つ。新しいパンツを買うことだ。
妹の美咲に「兄官殿のパンツ、ゴムが死んでます! 戦場で装備脱落の恐れあり!」と指摘され、廃棄処分されたためである。
「……なんでパンツ買うだけで、こんなに緊張しなきゃなんないんだ」
俺は周囲を警戒しながら、ワゴンセールのボクサーパンツを手に取った。
無地。黒。Lサイズ。三枚セットで980円。完璧だ。これでいい。これがいい。
そう思ってレジに向かおうとした瞬間、俺の背後で、空間が裂けるようなプレッシャーが発生した。
「――黒? 地味ね。ご主人様にはもっと、情熱的な赤が似合うと思うわ」
「――はあ? 順は昔からブルー系が好きだったのよ。知ったかぶりしないでくれる?」
右から氷のような冷気。左からまとわりつくような熱気。
振り返るまでもない。
白樺乃愛と、相沢里奈だ。
「な、なんでお前らがここにいるんだよ……!」
「偶然よ(GPSを見ながら)」
「奇遇だね(俺のSNSの裏垢を特定しながら)」
二人は示し合わせたように嘘をつき、俺の両脇をガッチリと固めた。
週末のショッピングモール。家族連れやカップルで賑わう中、美少女二人に挟まれた俺は、周囲の男子からの「爆発しろ」という視線を痛いほど浴びている。
乃愛が、俺の手から安物のパンツをひったくった。
「こんな安っぽい布切れ、ご主人様の尊い玉……お体を包むには不敬だわ」
「いや、パンツに敬意とかいらないから。返して」
「ダメ。私が選んであげる。……これなんてどう?」
乃愛がラックから取り出したのは、海外ブランドの高級シルクパンツだった。お値段一枚5,000円。
しかも、デザインが豹柄だ。大阪のオカンかよ。
「却下だ! 派手すぎる!」
「あら、見えないところでお洒落をするのが紳士の嗜みよ? それに……」
乃愛が俺の耳元に顔を寄せ、吐息混じりに囁く。
「……私が脱がす時に、興奮するじゃない?」
ブォン!
俺の顔が一瞬で沸騰した。
何を言ってるんだこのお嬢様は。ドMのくせに攻めが強い。これが「ご主人様(を管理したい)願望」ってやつか。
「ちょっと白樺さん! 順をたぶらかさないでよ!」
里奈が割り込んでくる。彼女の手には、可愛らしい熊のイラストがプリントされたファンシーなパンツが握られていた。
「順にはこっちの方が似合うよ! 可愛い系で攻めようよ!」
「俺は高校生だぞ! 熊さんパンツで修学旅行の風呂に行けるか!」
「えー、いいじゃん。私が脱がす時に『あ、クマさんだ♥』って和むし」
どいつもこいつも「脱がす」前提なのは何なんだ。
俺は頭を抱えた。このままではパンツ売り場で公開羞恥プレイが続いてしまう。
俺はポケットの中のスマホを握った。
アプリの力を借りて、この場を切り抜けるしかない。
『Suggestion(暗示)』機能を選択。対象は二人。
命令内容は――『俺の買い物への興味を失え』。
これなら無難だろう。
俺は小声でコマンドを呟き、実行ボタンを押した。
ピロン♪
『エラー:対象の「執着心」が強すぎるため、コマンドが自動変換されました』
『変換後:【俺の好みを徹底的に分析し、最高のコーディネートを提案しろ】』
「……は?」
スマホの画面に表示された文字を見て、俺が凍りついた次の瞬間。
二人の瞳が、カッと怪しく輝いた。
「……そうか。ご主人様は、迷っていらっしゃるのね」
「私たちが、順の“正解”を見つけてあげなきゃ……!」
スイッチが入ってしまった。
乃愛と里奈は、猛烈な勢いで売り場を荒らし始めた。
「これも! あれも! 生地は薄めがいいかしら? 通気性とセクシーさのバランスが重要よ!」
「ブリーフ派への転向も視野に入れるべきかも! フィット感が違うし!」
次々と俺の顔や股間にパンツをあてがい、品評会を始める二人。
店員さんが遠くでインカムに向かって何か叫んでいる。警備員を呼ばれる5秒前だ。
「やめろ! もういい! 何も履かない! ノーパンで行くから!!」
俺は捨て台詞を吐き、パンツ売り場から脱走した。
背後から「ノーパン……?」「それはそれで……アリね……!」という危険な呟きが聞こえた気がしたが、俺は振り返らずにエスカレーターを駆け下りた。
2.恐怖の座席表ルーレット
そして迎えた、林間学校当日。
集合場所の学校グラウンドには、大型バスが5台並んでいた。
空は快晴。絶好の行楽日和だが、俺の心は土砂降りだ。
「お兄ちゃん、お弁当持った? 水筒は? ハンカチは?」
見送りに来たわけでもないのに、なぜかバスの入り口で荷物チェックをしている美咲(中学生)。
今日は「軍曹モード」ではなく、少し心配性な「オカンモード」が入っているようだ。アプリの夢操作の影響が日替わり定食のように変わる。
「全部あるから。お前、中学校遅刻するぞ」
「構いません。兄の安全確認が最優先任務です。……あ、これ入れておきますね」
美咲が俺のリュックに何かをねじ込んだ。
チラッと見えたのは、GPS発信機のような黒い箱。
見なかったことにしよう。
荷物検査をパスし、いざバスへ乗り込む。
最大の懸念事項は「座席」だ。
クラスの座席表は事前に発表されていなかった。当日のくじ引きだと言われていたが――。
「鷹井くんの席は、ここよ」
バスに乗り込んだ瞬間、最前列で待ち構えていた白樺乃愛が、手招きした。
彼女が指差したのは、バスの最後尾。
5人掛けの座席の、ど真ん中。
「……なんでそこなんだ?」
「くじ引きの結果よ(またしても札束で解決した顔で)。さ、座って、ご主人様」
拒否権はない。
俺が渋々その席に向かうと、地獄の配置が明らかになった。
俺の右隣:白樺乃愛。
俺の左隣:相沢里奈。
俺の右斜め前:鉄輪カンナ(監督役として同乗)。
俺の左斜め前:クラスの女子A(俺のパッシブスキルの影響下)。
完全に包囲されている。
しかも、最後尾の席は他の席より一段高くなっており、逃げ場がない上に揺れが激しい。
「よろしくね、順♥ 長いドライブになりそうね」
「順、お菓子食べる? ポッキーあるよ? あーんしてあげようか?」
バスが発車する前から、左右からのスキンシップ攻撃が始まった。
乃愛は俺の肩に頭を乗せ、里奈は俺の腕に絡みつく。
俺の太ももは、二人の太ももに挟まれてサンドイッチ状態だ。柔らかい。温かい。いい匂いがする。
――違う! そうじゃない!
これは拷問だ。理性のダムが決壊するかどうかの瀬戸際なのだ。
俺はスマホを取り出し、ワイヤレスイヤホンを装着して「外界の遮断」を試みた。
しかし、アプリがそれを許さない。
ピロリン♪
『環境検知:密閉空間』
『パッシブスキル【吊り橋効果ブースト】が発動しました』
『効果:揺れる車内で、異性のドキドキ感が3倍になります』
「うっ……!」
バスが動き出した瞬間、強烈な吐き気――ではなく、甘い空気が車内に充満した気がした。
「きゃっ!」
カーブでバスが揺れる。
物理法則に従い、乃愛の体が俺に押し付けられる。
豊満な胸の感触が、腕にダイレクトに伝わる。
「ごめんなさい……揺れちゃって……んっ……」
乃愛の顔が赤い。息が荒い。
「ちょっと白樺さん、わざと順に寄りかからないでよ! ……あ、きゃああ!」
反対側に揺り戻しが来る。
今度は里奈が俺の膝の上に倒れ込んできた。
「順んん……助けてぇ……なんか体が熱いのぉ……」
お前ら、ただの乗り物酔いじゃねえだろ!
【吊り橋効果ブースト】のせいで、単なるバスの揺れが「ときめき」に脳内変換されているのだ。
「先生! 窓開けてください! 空気が! ピンク色の空気が!」
俺の心の叫びは、バスガイドさんの「それでは一曲歌いましょう~♪」という明るい声にかき消された。
3.魔のトンネルと誤作動アプリ
高速道路に入り、バスは順調に進んでいた。
だが、俺のHPはすでにレッドゾーンだ。左右からのボディタッチに加え、斜め前の鉄輪先輩が時折振り返っては、おしゃぶりを咥えたまま熱視線を送ってくるのが精神的に来る。
そして、バスは長いトンネルに差し掛かった。
車内がフッと暗くなる。
非常灯の薄暗いオレンジ色の光だけが灯る、閉鎖的でムーディーな空間。
ここで、アプリが最悪の仕事を始めた。
俺のスマホの画面が勝手に点灯し、奇妙なメッセージを投影し始めたのだ。
『新機能:心の声テロップ(β版)』
『周囲の対象者の思考をテキスト化して表示します』
俺の目の前の空中に、ARのように文字が浮かび上がる。
乃愛の頭上に:『暗い……チャンス。ご主人様の手、握っちゃおうかな。いや、いっそ太ももの内側を……』
里奈の頭上に:『今ならキスしてもバレない? 寝たふりして唇奪っちゃえ……』
鉄輪先輩の頭上に:『ママー! 暗いの怖いー! おっぱい飲みたいー!』
情報量が多すぎる!
そして先輩の思考が深刻すぎる!
ガサゴソ。
暗闇に乗じて、何かが俺の太ももを這い上がってくる。
右から冷たい指(乃愛)。左から温かい指(里奈)。
「ひっ!」
俺が声を上げようとしたその時、バスが大きくバウンドした。
チュッ。
湿った音が、俺の耳元で響いた。
誰だ!? 今、俺の頬か耳にキスしたのは!?
暗くて見えない。だが、左右のどちらか、あるいは両方だ。
「……今の、順?」
「……ご主人様、大胆……」
違う! 俺じゃない! お前らがやったんだろ!
トンネルを抜けた瞬間、車内は再び明るくなった。
俺の両隣の二人は、何食わぬ顔で窓の外を見ている。だが、その耳は真っ赤だった。
俺は疲労困憊で座席に沈み込んだ。
まだ現地に着いてすらいない。
これがあと二時間続くのか?
4.サービスエリアのトイレは安全地帯ではない
「トイレ休憩でーす!」
バスがサービスエリアに到着した。
俺にとっては、地獄からの解放だ。
「トイレ行く!」とだけ言い残し、俺はバスから転がり落ちるように脱出した。
女子トイレは行列ができているが、男子トイレは比較的空いている。
個室に入り、鍵をかける。
ここだ。ここだけが聖域だ。
「……ふぅ。生きてる心地がする」
俺は便座に座り(蓋の上だ)、スマホを取り出した。
ポイントを確認する。
現在の所持ポイント:28P。
【絶対不可侵バリア】まで、あと272P。
絶望的だ。このままでは林間学校中に搾り取られてミイラになる。
コンコン。
個室のドアがノックされた。
誰だ? 他の個室も空いてるだろ。
「……鷹井くん? いるんでしょ?」
背筋が凍った。
女子の声だ。
ここは男子トイレだぞ!?
「て、鉄輪先輩!? ここ男子トイレですよ!」
「知ってる……。でも、ガマンできなくて……」
ガチャガチャとノブが回される。
鍵をかけておいて本当によかった。
「開けて……? カンナ、オムツ替えてほしいの……」
「お前は高校三年生だ!!」
鉄輪先輩の幼児退行は、尿意や便意という生理現象とリンクしてバグを起こしているらしい。
最悪の事態だ。ここでドアを開けたら、風紀委員長としての彼女の社会的な死と、俺の冤罪逮捕が確定する。
「お兄ちゃん……漏れちゃうよぉ……」
「頼むから自力でしてくれ!」
その時、外から別の声が聞こえた。
「あら、こんな所まで追いかけてくるなんて、委員長も随分と熱心ね」
「ちょっと、順が入ってる個室の前で何してんのよ変態!」
乃愛と里奈まで参戦してきた!
男子トイレだぞここは! 日本の倫理観はどうなっているんだ!
「きゃー! 男子トイレに入っちゃった! ……でも、順くんがいるなら……」
「むしろ興奮するかも……背徳感……」
ダメだ。こいつら、俺のパッシブスキルのせいで「順がいる場所=世界の中心」と認識している。男子トイレという記号など意味をなさないのだ。
俺は個室の中で頭を抱え、スマホに向かって祈った。
頼む、なんとかしてくれ。
アプリが反応する。
『状況打開策を検索中……』
『提案:スキル【瞬間音響】を使用』
『効果:半径10メートル以内の人間に、強力な「お腹が鳴った音」を聞かせ、羞恥心で撤退させます』
『消費ポイント:5P』
地味だ! 地味すぎる!
だが、背に腹は代えられない。
俺は『実行』を押した。
ギュルルルルルルルルルルッ!!!!!
個室の外から、ゴジラの咆哮のような、あるいは地底のマグマが動くような、凄まじい「腹の音」が響き渡った。
「っ!?」
「え、何この音……?」
「い、いやだ、私じゃないわよ!?」
「私だって違うわよ!」
美少女3人は、お互いの顔を見合わせ、顔を真っ赤にした。
さすがにこの爆音は恥ずかしいらしい。
恋心(催眠)も、生理的な羞恥心には勝てないのか。
「い、行くわよ!」
「そ、そうね、バスに戻りましょ!」
タタタッ、と逃げる足音が遠ざかる。
助かった……のか?
いや、俺のポイントがまた減ってしまった。バリアへの道は遠のくばかりだ。
俺は深いため息をつき、個室から出た。
手洗い場の鏡に映る自分を見る。
目の下にクマができ、髪はボサボサ。
これが、ハーレム主人公の成れの果てか。
しかし、俺はまだ知らなかった。
到着した林間学校のロッジで、さらなる「部屋割り」の悲劇と、アプリの「アップデート」が待ち受けていることを。
バスに戻る足取りは、処刑台に向かう囚人のように重かった。




