第32章 教科書を忘れたら、机をくっつけるのがラブコメの鉄則(らしい)
1.二限目の絶望と隣人の微笑み
その日の二限目は、田中先生の英語だった。
俺、鷹井順は、チャイムが鳴り終わると同時に鞄の中をまさぐり、そして血の気が引くのを感じた。
「……ない」
『英語Ⅱ』の教科書がない。
昨夜、宿題をやった後に机の上に置きっぱなしにしてきたのだ。
最悪だ。田中先生は教科書忘れに厳しい。忘れた者は廊下に立たされるか、あるいはもっと恐ろしい罰(放課後の個人補習という名の説教)が待っている。
「どうしよう……」
冷や汗を流す俺の横で、優雅に紅茶(水筒)を一口飲んだ白樺乃愛が、全てを察したように微笑んだ。
「あら、ご主人様。お困りのようね?」
「……教科書、忘れた」
「ふふっ。それは大変」
乃愛は自分の教科書をパラパラとめくり、意味深な視線を俺に向けた。
「貸してあげてもよくてよ? ……ただし、条件がありますわ」
「条件?」
「机をくっつけて、一緒に見ること。……いわゆる『見せっこ』ね」
出た。ラブコメの王道イベント。
だが、乃愛と机をくっつけるということは、あの香水の香りと体温をゼロ距離で感じながら50分間過ごすということだ。
俺の心臓が持たない。それに、クラス中の視線が集まるのは確実だ。
「や、やっぱりいい。隣のクラスの奴に借りてくる!」
「あら、残念。……でも、もう先生が入ってくるわよ?」
ガラッ。
タイミング悪く、田中先生が入室してきた。
退路は断たれた。
2.前の席からの誘惑とメモ回し
俺が絶望していると、前の席の相沢里奈が背もたれに寄りかかりながら、こっそりと後ろを向いた。
彼女の手には、小さく折りたたまれたルーズリーフがある。
「順、教科書ないんでしょ? 私のを貸してあげる!」
小声で囁きながら、里奈は自分の教科書を背中越しに俺の机に滑らせてきた。
女神か!
俺は感動して受け取ろうとしたが、里奈は教科書を離さない。
「その代わり……今日の放課後、デートね?」
「えっ」
「拒否権なし! はい、契約成立!」
里奈が強引に教科書を押し付けてくる。
俺の手元には教科書。そしてその中には、ピンク色のペンで書かれた『順専用♡』という落書きと、プリクラが貼られていた。
これを使えというのか。先生に当てられたら公開処刑だぞ。
その時、右隣から氷のような視線が突き刺さった。
「……泥棒猫。抜け駆けは許さないわ」
乃愛が自分の机を、ズズズ……と音を立てて俺の方へ寄せ始めた。
「先生! 鷹井くんが教科書を忘れたようなので、私が一緒に見せてあげます!」
「お、おい白樺さん!?」
乃愛が手を挙げて堂々と宣言した。
田中先生は「ほう、感心だな白樺。鷹井、感謝しろよ」とあっさり許可を出してしまった。
俺の意思は無視か!
3.密着授業とアプリの『集中力ブースト』
こうして、俺の机と乃愛の机はピッタリとくっつけられた。
乃愛は満足げに椅子を引き寄せ、俺の肩に自分の肩を押し付けてくる。
柔らかい感触。甘い香り。
教科書の真ん中あたりを二人で覗き込む。
「……近い」
「近くなきゃ見えないでしょ? もっと寄って」
乃愛の手が、机の下で俺の太ももに置かれる。
指先がゆっくりと動く。
これは授業じゃない。拷問だ。
俺は内容なんて頭に入らない。心拍数が上がりすぎて倒れそうだ。
前の席の里奈も、悔しそうに背中を反らせて、椅子の隙間から俺を睨んでいる。
『後で覚えてなさいよ』という怨念が伝わってくる。
このままでは授業中に変な声を出してしまう。
俺はスマホを太ももの下に隠し、アプリに救いを求めた。
『機能:【賢者モード(集中力ブースト)】』
『効果:あらゆる煩悩を遮断し、対象(授業)のみに集中する精神状態を作り出します』
これだ!
スイッチオン。
ブウン……。
俺の脳内から雑音が消えた。
乃愛の体温も、香りも、太ももの上の手の感触も、すべてが「無機質な情報」として処理されていく。
目の前の英文だけが鮮明に見える。
「……This is a pen. That is an apple.」
「あら、ご主人様? 反応がないわね……つまらない」
乃愛がさらに体を寄せてくるが、賢者モードの俺には効かない。
俺は淡々とノートを取り続けた。
しかし、副作用があった。
『注意:効果中は感情が極端に希薄になり、ロボットのような反応になります』
田中先生が俺を指名した。
「鷹井、ここを訳せ」
俺は立ち上がり、無機質な声で答えた。
「はい。……彼女は彼を愛していた。しかし、その愛は一方的であり、ストーカー規制法に抵触する恐れがあった。以上です」
「……鷹井? 訳が現代的すぎるぞ?」
教室中がざわつく。
乃愛が「ふふっ、私のことかしら?」と嬉しそうに笑う。
賢者モードの俺は、余計な解釈まで加えてしまったらしい。
4.休み時間の報復
チャイムが鳴り、授業が終わると同時に、賢者モードが切れた。
どっと疲れが押し寄せる。
「順! ひどいよ! 私の教科書使ってくれなかった!」
里奈が頬を膨らませて詰め寄ってくる。
「あら、ご主人様は私を選んだのよ。諦めなさい」
乃愛が勝ち誇った顔で紅茶をすする。
二人の間に火花が散る。
俺は逃げようとしたが、教室の入り口に鉄輪カンナ先輩が立っていた。
「鷹井くん。……授業中にいかがわしい行為(机の下でのボディタッチ)が行われていたとの通報がありました」
「見てたんですか!?」
「監視カメラ(私の目)はごまかせません。……指導が必要です」
先輩が入ってきて、俺の反対側の隣の席(空席)に椅子を持ってきた。
「次の授業は移動教室で空き部屋ですね? ……ここで、じっくりと事情聴取を行います」
「えっ、俺、次の授業体育なんですけど!」
「遅刻届は私が書いてあげます。さあ、座って」
右に乃愛。左にカンナ先輩。前に里奈。
俺の机は完全に包囲された。
「教科書を忘れた罰よ。……たっぷりと反省なさい?」
乃愛が俺の耳元で囁く。
結局、俺は体育の授業に出ることもできず、休み時間いっぱい三人に囲まれて「誰の教科書が一番見やすいか(誰とくっつきたいか)」という不毛な尋問を受けることになった。
窓の外では、呑気な雲が流れていく。
俺は心に誓った。
明日は教科書を3冊持ってくる。予備も含めて。
……いや、それでも彼女たちは「忘れたことにして」俺に迫ってくるに違いない。




