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第22章 文化祭準備は暗闇とペンキと密着の三重奏

1.放課後の教室は迷宮の入り口


 文化祭まであと三日。

 教室はすでに授業を行う場所としての機能を失い、段ボールとベニヤ板、そしてペンキの匂いが充満する工事現場と化していた。


 俺、鷹井順は、教室の窓際――かつての俺の聖域だった場所で、ひたすら黒いビニールシートを切る作業に従事していた。

 お化け屋敷の壁材だ。これを窓や壁に貼り付け、教室内を完全な闇にするのだ。


「順、そっちのテープ押さえてて!」

「了解」


 脚立に乗った相沢里奈が、天井から吊るした暗幕を調整している。

 彼女は動きやすいようにと、スカートの下にジャージを履いているが、上は制服のシャツの裾を結んでへそ出しスタイルになっている。

 脚立の上で背伸びをするたびに、引き締まったお腹と白い肌がチラチラと見える。


「……見すぎだよ、エッチ」


 里奈が上からニヤニヤしながら言ってくる。


「見てない! 作業に集中してるだけだ!」

「ふーん。まあ、順になら見られてもいいけどねー」


 里奈は軽口を叩きながらも、テキパキと作業を進める。彼女のこういう器用で活動的なところは、昔から変わらない。

 俺が少し懐かしい気持ちになっていると、背後から冷たい気配が近づいてきた。


「ご主人様。サボっていないで、こちらの『棺桶』の寝心地を確認してくださる?」


 白樺乃愛だ。彼女は作業着ツナギを着ているが、なぜかそのツナギがブランド物に見えるほどスタイリッシュに着こなしている。

 彼女が指差したのは、教室の中央に鎮座する、立派すぎる木製の棺桶だった。

 内側には深紅のビロードが張られ、無駄に高級感がある。これ、手作りじゃないだろ。どこから調達したんだ。


「……寝心地って、俺は死体じゃないぞ」

「当日はここで数時間、眠り姫ならぬ眠り王子を演じてもらうのよ。腰が痛くならないように、最高級の低反発マットを敷いておいたわ」


 乃愛が強引に俺の手を引き、棺桶の中へ誘導する。

 抵抗する間もなく、俺は棺桶の中に仰向けに寝かされた。

 ふかふかだ。悔しいが、俺のベッドより快適かもしれない。


「どう? 悪くないでしょ?」

「まあ、寝心地はいいけど……狭いな」

「そうね。……でも、狭いほうが密着できるわよ?」


 乃愛が妖しく微笑み、棺桶の縁に手をかけて身を乗り出してきた。

 彼女の顔が俺の真上に来る。長い銀髪がカーテンのように垂れ下がり、周囲の視界を遮る。

 二人だけの閉鎖空間。


「リハーサル、してみる?」

「えっ」

「吸血鬼を目覚めさせるための……キスのリハーサルよ」


 乃愛の顔が近づいてくる。

 甘い香り。潤んだ瞳。

 逃げ場はない。棺桶の中だ。

 俺は咄嗟に目を閉じて――


 ――ガツンッ!


「痛っ!」

「きゃっ!」


 突然、棺桶が大きく揺れ、何かがぶつかる音がした。

 目を開けると、里奈が脚立から降りて、棺桶の側面を蹴っ飛ばしていた。


「あーごめんごめん! 足が滑っちゃったー!」


 嘘だ。目が笑ってない。完全に狙って蹴っただろ。


「泥棒猫……いい度胸ね」

「抜け駆け禁止だよ、乃愛。リハーサルなら、私も混ぜてよね」


 乃愛と里奈の間で火花が散る。

 俺は棺桶の中で縮こまった。ここは安息の地ではなく、最前線だった。


2.アプリ機能『暗視モード(ナイト・ビジョン)』


 作業は深夜まで続いた(学校に許可を取っての居残り作業だ)。

 窓をすべて暗幕で覆い、教室内の照明を消すと、そこは完全な闇となった。

 手元も見えないほどの漆黒。

 お化け屋敷としては完璧な仕上がりだ。


「キャー! 暗いー! 何も見えないー!」


 女子生徒たちの悲鳴(歓声)が響く。

 俺は懐中電灯を持って点検作業をしていたが、どこに誰がいるのか把握するのも一苦労だ。

 ぶつかったり、足を踏んだりするトラブルが多発している。


 そこで俺は、アプリの力を借りることにした。

 『機能:暗視モード(ナイト・ビジョン)』。

 これを使えば、スマホのカメラを通して暗闇でも鮮明に見えるはずだ。


 俺はアプリを起動し、スマホをかざした。

 画面が緑色に変わり、教室内の様子が浮かび上がった。

 お、見える見える。

 

 しかし、俺が見た光景は、予想していたものとは少し違っていた。


 画面の中央、机の陰に隠れているのは……鉄輪カンナ先輩だ。

 彼女は見回りついでに作業を手伝っていたはずだが、今は一人でしゃがみ込み、何かをブツブツと呟いている。


『(うぅ……暗いの怖い……でも、鷹井くんと密着できるチャンス……どこにいるの……?)』


 アプリの「心の声テロップ」機能(第17章参照)がまだ生きていたのか!

 先輩の心の声が文字になって表示されている。


 さらにカメラを動かすと、里奈が壁際でポーズを取っていた。


『(ここでお化け役として飛び出せば、驚いた順が私に抱きついてくるはず……そのまま押し倒して……うへへ)』


 妄想が垂れ流しだ。

 そして、棺桶の近くには乃愛がいた。


『(棺桶の蓋に鍵をかければ、ご主人様を独占できる……非常食(私)も一緒に入れば、三日間は生存可能ね)』


 思考がサバイバルすぎる!


 俺は戦慄した。

 この暗闇は、彼女たちの欲望を解放する触媒になってしまっている。

 俺が懐中電灯を点けようとした瞬間、誰かの手が俺の腕を掴んだ。


「……見つけた」


 暗闇の中で囁く声。

 乃愛だ。暗視モード越しに見ると、彼女の目は肉食獣のように光っていた。


「ご主人様、迷子? 私が案内してあげるわ……出口のない迷宮ラビリンスへ」


 怖い怖い!

 俺は必死に手を振りほどき、明かりのスイッチへ走った。

 パチンッ!

 蛍光灯が点き、日常が戻ってきた。

 乃愛は眩しそうに目を細め、「チッ」と舌打ちをした。聞こえてるぞ。


3.ペンキ塗りとハプニング


 最後の仕上げは、外装のペンキ塗りだ。

 廊下に並べたベニヤ板に、おどろおどろしい血文字や妖怪の絵を描いていく。


「順、背中痒いから掻いてー」

「自分で掻けよ」

「両手ペンキだらけで無理なんだもん!」


 里奈が真っ赤なペンキ(血糊用)で汚れた手を見せてくる。

 仕方なく俺が背中を掻いてやると、彼女は「ん~、そこそこ♥」と変な声を出す。

 その隙に、乃愛が背後から近づいてきた。


「ご主人様、私も汚れてしまったわ。……拭いてくださる?」

「どこがだよ。ツナギ綺麗じゃん」

「ここよ」


 乃愛が指差したのは、自分の頬だった。

 確かに、白いペンキが一点、ちょこんとついている。

 わざとらしい。あざとい。


「手で拭けばいいだろ」

「両手が塞がっているの(筆とパレットを持っている)」

「じゃあ後で洗え」

「今すぐ取らないと肌荒れしちゃうわ。……舐めて取って?」


 はあ!?

 俺が呆れていると、乃愛はさらに体を寄せてきた。


「冗談よ。……でも、手で拭ってくれるくらいはしてほしいわ」


 俺は溜息をつき、親指で彼女の頬のペンキを拭い取った。

 乃愛の肌は驚くほど滑らかで、熱を帯びていた。

 彼女はうっとりと目を閉じ、俺の指に自分の頬を擦り寄せてくる。


「……ご主人様の指……」


 その時。

 バシャッ!

 横から水が飛んできた。


「あ、すみません! 筆を洗った水が跳ねちゃいました!」


 カンナ先輩だ。彼女はバケツを持って仁王立ちしていた。

 明らかにわざとだ。乃愛と俺に向けて、汚れた水をぶっかけたのだ。


「鉄輪先輩……?」

「風紀委員として、校内での不純異性交遊は見過ごせません。……汚れを洗い流しただけです」


 先輩の目が笑っていない。

 乃愛が濡れた髪をかき上げ、冷たい視線を返す。


「……面白いわね。水遊びがお望みなら、相手をしてあげるわ」


 乃愛がパレットに残ったペンキを筆にたっぷりとつけ、カンナ先輩に向けて振った。

 ピシャッ!

 赤いペンキが先輩の制服に飛び散る。まるで返り血のようだ。


「きゃっ! やりましたね!?」

「あら、手が滑りましたわ」


 そこからは地獄絵図だった。

 ペンキと水が飛び交う、仁義なき戦い。

 俺は巻き込まれないように逃げようとしたが、流れペンキを食らい、全身カラフルな迷彩柄になってしまった。


 作業が終わった頃には、全員がペンキまみれで床に座り込んでいた。

 お互いの顔を見て、ふと笑いがこみ上げてくる。


「……ひどい顔ね、ご主人様」

「お前もな」

「順、ゾンビみたいだよー」

「先輩もホラー映画の被害者みたいですよ」


 泥だらけならぬペンキだらけの青春。

 文化祭の準備は、こうしてカオスの中に幕を閉じた。

 明日はいよいよ本番。

 俺が棺桶の中で眠る日だ。

 平穏に終わるはずがないことは、この時点ですでに確定していた。

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