第2話 教室という名の公開処刑場で、俺は孤高を貫けない
1.昼休みの悪夢
世界がバグっている。
いや、俺の認識と現実の間に、致命的なエラーが発生していると言ったほうが正しい。
4限目の現代文の授業中、俺はずっと冷や汗を流しながら、机の下でスマホを握りしめていた。
画面には相変わらず『Hypno-App』のアイコン。
ステータス画面を開くと、絶望的なログが残っていた。
『対象:白樺乃愛 状態:従属(深度レベル5・M属性覚醒)』
レベル5ってなんだよ。MAXかよ。
今朝の廊下での出来事を思い出すだけで、動悸が激しくなる。学園の氷姫こと白樺乃愛が、あんな恍惚とした表情で俺に服従を誓うなんて。
あれから俺は逃げるように教室に戻り、死んだふりをして午前中を過ごした。
幸い、乃愛は隣のクラスだ。休み時間に突撃してくるかと思ったが、今のところ動きはない。
「……夢だったんだ。そうに決まってる」
俺は自分に言い聞かせた。
きっと、あまりのストレスで脳が見せた願望夢だ。いくら俺がキモオタでも、あそこまで都合のいい(あるいは都合の悪い)妄想をするとは、我ながら業が深いと思うが。
キーンコーンカーンコーン。
昼休みを告げるチャイムが鳴る。
俺にとって、学校で唯一安らげる時間の始まりだ。いつもなら購買でパンを買い、誰もいない特別棟の階段裏でソシャゲのスタミナ消化をするのがルーティンだ。
俺は誰とも目を合わせないように立ち上がり、早足で教室を出ようとした。
ガララッ!
教室の引き戸が、勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、教室の喧騒を一瞬で凍りつかせるほどの存在感を放つ、銀髪の少女。
「――――」
白樺乃愛だ。
教室中の視線が彼女に集中する。男子たちは「うおっ、氷姫だ」「また誰か告白して玉砕すんのか?」とざわめき、女子たちは憧れと嫉妬の混じった視線を送る。
彼女は無表情のまま、教室の中を見回した。
その青い瞳は、まるで獲物を探す鷹のように鋭い。
俺は咄嗟に、近くにいたクラスメイトの田中(野球部・巨漢)の背後に隠れた。
見つかるな。見つかるな。俺はここにはいない。俺は空気だ。窒素と酸素の混合気体だ。
だが、アプリの力は俺の隠密スキルを嘲笑うかのように機能した。
乃愛の視線が、田中の巨体を透過するかのように、正確に俺を射抜いたのだ。
カツ、カツ、カツ。
ローファーの音が近づいてくる。
教室が静まり返る。あの白樺乃愛が、自分たちの教室に入ってきて、しかも真っ直ぐ誰かの元へ向かっているのだ。異常事態だ。
俺の目の前で、足音が止まった。
田中が「ひっ」と声を漏らして道を空ける。
もはや逃げ場はない。俺は観念して、引きつった笑顔で顔を上げた。
「あ、あれー? 白樺さんじゃん。奇遇だね、こんなところで」
「…………」
乃愛は無言だ。
その表情は、いつもの「氷姫」そのもの。冷徹で、他人を寄せ付けない絶対零度のオーラを纏っている。
あれ? もしかして、朝のあれは本当に夢で、今は普通に用事があるだけとか?
あるいは、朝の無礼を許せなくて、ビンタしに来たとか?
それならそれでいい。ビンタで済むなら安いもんだ。
乃愛の手が、背中に回される。
何が出てくる? スタンガンか? 訴状か?
彼女が取り出したのは――ピンク色の風呂敷に包まれた、重箱のような弁当箱だった。
「……これ」
短く言って、彼女は俺の机の上にそれを置いた。
教室中が「は?」という空気に包まれる。
「え、あ、これ……?」
「お弁当。作りすぎたから」
嘘をつけ。作りすぎたレベルのサイズじゃない。おせち料理かと思うような三段重ねだぞ。
俺が呆然としていると、乃愛は周囲に聞こえないほどの小声で、しかしはっきりと、俺の耳元で囁いた。
「……愛を込めて作りました。残したら、殺します……嘘です、残したら私にお仕置きしてください、ご主人様」
ゾクリ、と背筋が震える。
声のトーンと内容のギャップで風邪を引きそうだ。
表向きはクールなツンデレを装いつつ、その実態は完全に俺の支配下にあるドMメイド。
なんだこの高度なプレイは。
「あ、ありがとう……?」
「勘違いしないで。あくまで余り物だから。栄養バランスが偏ってる貴方みたいな陰キャには、恵んであげるくらいが丁度いいと思って」
教室の皆に向けて、わざとらしく毒を吐く乃愛。
周囲からは「うわ、すげえ毒舌」「鷹井のやつ、カツアゲされてるのか?」「ゴミ処理係にされたんじゃ……」という声が聞こえる。
よし、いいぞ。そう思わせておけ。
「嫌われている」という誤解こそが、俺の安全地帯を守る壁になる。
だが、乃愛はそこで終わらなかった。
彼女は俺の前の席の椅子(持ち主はトイレ中)を勝手に引き寄せると、当然のようにそこに座り、俺を見上げた。
「食べて」
「え? いや、今はちょっと……」
「食べて」
青い瞳が怪しく光る。
俺のポケットの中で、スマホがブブブと震えた。
こっそり画面を見ると、通知が出ていた。
『警告:対象の奉仕欲求が爆発寸前です。命令を与えてガス抜きしないと、公衆の面前で暴走する危険があります』
ふざけんな!
ここで暴走されたら社会的に死ぬ! 「ご主人様ァァァ!」とか叫ばれたら、俺は明日から学校に来られないどころか、ネットのおもちゃ確定だ。
俺は震える手で弁当箱を開けた。
中身は――完璧だった。
彩り豊かな卵焼き、タコさんウィンナー、可愛らしく飾り切りされた野菜、そして海苔で描かれた『LOVE』の文字……ではなく、バーコードのような模様。
よく見ると海苔の模様が文字になっている。
『I belong to you(私は貴方の所有物)』
怖い怖い怖い!
芸が細かすぎてホラーだよ!
「……おいしい?」
乃愛が上目遣いで聞いてくる。その頬は微かに紅潮し、期待に震えている。
俺は観念して、卵焼きを一つ口に放り込んだ。
……悔しいが、めちゃくちゃ美味い。料亭の味かよ。
「う、うまい……です」
「……ッ!」
俺の感想を聞いた瞬間、乃愛の体がビクンと跳ねた。
彼女は机の下で太ももをギュッと擦り合わせ、息を荒くしている。
「うまい……うまいって言われた……ゴミ同然の私が作った餌を、ご主人様が食べてくださった……ハア……なんて光栄……ゾクゾクする……」
聞こえてる! 独り言が漏れてるよ!
幸い周囲には聞こえていないようだが、俺の精神力(SAN値)はガリガリ削られていく。
「さ、佐藤さん! ちょっといいかな!」
耐えきれなくなった俺は、話題を逸らそうと視線を彷徨わせた。
しかし、それが第二の悲劇を生む。
2.パッシブスキルは重複する
俺が助けを求めた視線の先には、朝、俺にパンケーキを誘ってきたクラスのカースト上位女子、佐藤さんがいた。
彼女はずっと、この異様な光景を苦々しい顔で睨んでいたのだ。
俺と目が合うと、佐藤さんはガタッと席を立ち、ツカツカとこちらへ歩いてきた。
「ちょっと白樺さん、何なの?」
佐藤さんの声は尖っていた。
乃愛がゆっくりと顔を向け、氷の視線で迎撃する。
「何? 私、今忙しいんだけど」
「忙しいって……鷹井くんの邪魔してるだけじゃん。ていうか、なんでアンタが鷹井くんに弁当なんて作ってんの?」
空気が張り詰める。
クラスの女子トップ2の衝突。通常なら俺のようなモブは爆風で消し飛ぶ位置だ。
「余り物処理よ。貴方には関係ないでしょ」
「関係あるし! 私、今日の放課後、鷹井くんとデートする約束してるんだから!」
してねえよ!
いつの間に既成事実化してるんだ。
「デート……?」
乃愛の眉がピクリと動いた。
その瞳からハイライトが消える。
彼女はゆっくりと立ち上がり、佐藤さんと対峙した。身長は乃愛の方が少し高い。その威圧感は圧倒的だ。
「ねえ、鷹井くん。この女、誰?」
乃愛が俺に問う。
その声音は冷たいが、俺にだけ聞こえるようにスマホが警告音を鳴らした。
『警告:対象の独占欲が増大中。嫉妬による攻撃行動への移行確率80%』
やめろ、ここでキャットファイトを始めるな!
俺は慌てて止めに入ろうとするが、佐藤さんも引かない。俺の『異性誘引スキル』の影響下にある佐藤さんは、普段の常識的な判断力を失っているのだ。
「誰って、クラスメイトだけど? ていうか鷹井くん、こんな高飛車女より、私の方がいいよね? ほら、これ食べて!」
佐藤さんがポケットから取り出したのは、潰れた手作りクッキー。
衛生的に不安があるが、それを俺の口にねじ込もうとしてくる。
「触らないで」
バシッ!
乾いた音が響いた。
乃愛が、佐藤さんの手を払いのけたのだ。クッキーが床に散らばる。
「あ……」
佐藤さんが目を見開く。
乃愛はゴミを見るような目で、床のクッキーを一瞥した。
「汚い手で、私の……私の所有物に触れないでくれる?」
「はあ!? 何よそれ!」
「鷹井くんはね、貴方みたいな軽い女が気安く触れていい相手じゃないの。彼は……彼は……」
乃愛の言葉が詰まる。
まずい。「彼は私のご主人様なの!」とか言い出しかねない。
俺はイチかバチか、スマホを取り出した。
もう一度アプリを使って、この場を鎮めるしかない。今度は佐藤さんに『冷静になれ』と暗示をかけるか? それとも乃愛に『眠れ』と命じるか?
焦る俺の指が、画面の変なアイコンに触れた。
ピロリン♪
『新機能解放:一斉認識阻害』
『効果:周囲の人間の認識を改変し、現在の状況を「ありふれた日常」として処理させます』
『消費ポイント:10P』
――これだッ!!
神機能じゃないか! さすがバージョン1.0、痒い所に手が届く!
俺は迷わず『実行』を押した。
ブウン、と空気が揺れた気がした。
次の瞬間。
「……ま、いっか」
佐藤さんが急に憑き物が落ちたような顔をした。
「なんかお腹空いたし、パン買ってこよーっと」
「あ、待ってよ佐藤~」
周囲の生徒たちも、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの会話に戻っていく。
まるで、今の修羅場が最初から存在しなかったかのように。
俺の目の前にいる乃愛だけが、不思議そうな顔をしている。
「あれ? 何か……変な感じ」
「……ふう、助かった」
俺は大きく息を吐いた。
このアプリ、危険だが使いようによっては最強の護身ツールになるかもしれない。認識阻害のおかげで、俺たちは「ただ仲良く弁当を食べているクラスメイト」として処理されたようだ。
だが、安心したのも束の間。
乃愛が再び俺の前に座り直し、ニッコリと微笑んだ。今までの氷のような笑顔ではなく、ドロリとした蜂蜜のような甘い笑顔で。
「邪魔者はいなくなったわね、ご主人様」
「……はい」
「じゃあ、続きをしましょう? 今度は……あーん、してあげる」
彼女は箸でタコさんウィンナーを摘まみ、自分の唇に一度押し当ててから(!?)、俺の口元に差し出した。
「はい、あーん♥」
認識阻害機能は、「異常な行動」を「日常」として処理させるものだ。
つまり、現在の俺たちのこの状況――美少女による公開あーんプレイは、周囲から見れば「ああ、いつものことか」とスルーされていることになる。
誰も止めてくれない。
誰も突っ込んでくれない。
俺は孤独な王様だ。
俺は涙目でウィンナーを噛みしめた。
塩味がしたのは、きっと俺の涙のせいだろう。
こうして俺は、この教室で最も「痛い」カップル(偽)として、輝かしい高校生活の汚点を刻み始めたのだった。
――しかし、俺はまだ知らなかった。
この「認識阻害」が、学園の外に潜む、より厄介な存在のレーダーに引っかかってしまったことを。
ポケットの中で、スマホが短く振動した。
それは、新たな「ロックオン」の通知だった。




