第1話 俺は二次元に生きると決めたのに、現実(3D)がバグり始めた件について
1.愛なんて脳のバグだ
恋愛とは、人類が種の保存のために仕組まれた、脳内の電気信号のエラーである。
ドーパミンとオキシトシンの過剰分泌による一時的な精神錯乱。それが「恋」の正体だ。
かつて、誰かが言った。恋は盲目である、と。
実に正しい。盲目どころか、聴覚も思考能力も、さらには金銭感覚すらも麻痺させる致死性の病原菌だ。
「……だから俺、鷹井順は誓うんだよ。もう二度と、三次元の女には期待しないってな」
俺は薄暗い自室で、モニターの中に映るその天使に向かって独りごちた。
画面の中では、最近ハマっているソシャゲの推しキャラ『リリエルちゃん』が、完璧な黄金比で描かれた笑顔を俺に向けている。彼女は裏切らない。彼女は俺が課金すればするほど強くなり、絆が深まり、そして何より――他の男とホテル街から出てくるところを目撃されたりしない。
ズキリ、と古傷が痛む。
胸の奥にこびりついた、半年も前の記憶。
『ごめんね、順くん。順くんは優しすぎるの。私には、もっと強引な人が合ってるみたい』
幼稚園からの幼馴染。小学校も、中学校も一緒で、高校に入ってようやく恋人同士になった相手。
彼女はそう言って、俺の目の前で、茶髪でピアスの空いたサッカー部の先輩の腕に抱きついた。優しすぎる? 違うだろ。単に俺が都合のいい「安心感」だけの存在で、ときめき(刺激)が欲しくなっただけだろ。
その日、俺の世界は反転した。
信じていた「幼馴染ルート」なんてものは、ギャルゲーの中にしか存在しない幻想だったのだ。
以来、俺の生活は一変した。
バイトに明け暮れ、稼いだ金はすべて二次元コンテンツとPC周辺機器に投資する。
学校では空気のように過ごし、女子とは業務連絡以外口をきかない。休み時間は図書室かトイレの個室、あるいは屋上の給水塔の陰でラノベを読む。
それが、俺の構築した『絶対不可侵領域』。
誰にも邪魔させない、平穏で孤独な、最高の独身貴族ライフ――のはずだった。
机の上に置かれた、一台のスマートフォンを見るまでは。
2.インストールされた悪魔
「なんだよこれ……消えねえのかよ」
俺は苛立ちを込めて、スマホの画面をタップしていた。
このスマホは昨日、ネットオークションで購入した中古品だ。メインで使っているスマホの容量がソシャゲと電子書籍でパンクしそうになったため、サブ機として適当に安いものを探してポチったのだ。
『動作確認済み、美品、少し不思議な機能付き』という怪しい説明文は気になったが、三千円という破格の値段に釣られた。
届いたスマホは確かに美品だった。傷ひとつない黒のボディ。
だが、初期設定を済ませたホーム画面のど真ん中に、異質なアイコンが鎮座していた。
ピンクと紫が混ざり合ったような、毒々しい渦巻き模様のアイコン。
アプリ名は『Hypno-App』。
明らかに怪しい。ウイルスか? スパイウェアか?
即座にアンインストールしようと長押しするが、あの心躍る「×」マークが出てこない。設定画面からアプリ一覧を見ても、グレーアウトしていて削除ボタンが押せない仕様になっていた。
「ふざけんなよ、ルート化しないと消せない系のアドウェアか?」
舌打ちをして、俺は何気なくそのアイコンをタップしてしまった。
起動音もなく、画面がスッと暗転する。
次に表示されたのは、まるでひと昔前のハッキングツールのような、黒背景に緑の文字が並ぶシンプルなインターフェースだった。
『Welcome to Hypno-App Ver 1.0』
『ユーザー:鷹井 順 を認識しました』
『生体認証完了。マスター権限を付与します』
「は? 生体認証?」
カメラに指紋認証、何もしてないぞ。今のスマホは顔認証が早すぎて気づかないこともあるが、この中古スマホに俺の顔データなんて登録していないはずだ。
画面には、いくつかのメニュー項目が表示されている。
『対象選択』
『暗示深度設定』
『キーワード設定』
『常時発動スキル(パッシブ):異性誘引Lv.1(ON)』
「……なんだこれ。中二病全開のジョークアプリか?」
『異性誘引』とか書いてあるのが最高に胡散臭い。しかも(ON)になっている。
俺は鼻で笑いながら、メニューの一番上にあった『対象選択』をタップしてみた。すると、カメラモードに切り替わる。
画面の中央に、赤い照準のようなレティクルが表示された。
「カメラで撮った相手に催眠をかけるってか? ベタな設定だな」
試しに、机の上にあったリリエルちゃんのアクリルスタンドを映してみる。
『対象不可:非生物』というエラーメッセージが出た。
「ちっ、二次元は対象外かよ。使えねーな」
俺は興味を失い、ホームボタンを押してアプリを閉じようとした。
だが、その時だった。
コンコン。
部屋のドアがノックされた。
返事をする間もなくドアが開き、一人の少女が入ってくる。
妹の美咲だ。中学二年生。反抗期真っ盛りで、俺のことを「兄」ではなく「そこのキモオタ」と呼ぶ可愛げのない生き物である。
「ちょっと、いつまで起きてんの? キーボード叩く音がうるさいんだけど。壁ドンすんぞ」
「……悪かったよ。今寝るとこだ」
「ふん。てかさ、アンタの部屋、なんか変な匂いしない? 男の体臭っていうか、負け犬の匂い?」
ひどい言われようだ。俺はため息をつきながら、手元のスマホに視線を落とす。
画面はまだカメラモードのままだ。
ふと、魔が差した。
この生意気な妹に、このふざけたアプリを使ってみたらどうなるか。どうせ何も起きないだろうが、気晴らしにはなる。
俺はスマホを持ち上げ、美咲に向けた。
「あ? 何撮ってんのよキモッ! 警察呼ぶわよ」
「いや、この新しいスマホの画質チェックだ」
「はぁ? 死ねば?」
罵倒と同時に、画面内のレティクルが美咲の顔を捉え、赤から緑に変わった。
『対象ロックオン』の文字。
俺は画面下部に表示されたマイクボタンを押し、適当な言葉を吹き込んだ。
「……『兄に敬意を持って、優しく接しろ』」
小声で呟く。
美咲が「何ブツブツ言ってんの?」と眉をひそめた瞬間。
ピロン♪
間の抜けた電子音が鳴り、スマホのフラッシュがカッと焚かれた。
「うわっ、眩しっ! 何すんのよ!」
美咲が目を押さえてうずくまる。
俺は「あ、やべ。フラッシュONだったか」と苦笑いした。やはりただのカメラアプリだったか。怒られる前に謝って寝よう。
「わり、美咲。今のは事故だ」
「…………」
「おい? 怒ったか?」
美咲がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、どこかトロンとして、焦点が合っていないように見えた。
そして、数秒の沈黙の後。
「……お兄ちゃん?」
その声色は、今まで聞いたことがないほど甘く、濡れていた。
「え?」
「ごめんなさい、お兄ちゃん。私、生意気なこと言って……。お兄ちゃんは、世界で一番かっこいいのに」
美咲は頬を紅潮させ、モジモジと体をくねらせながら、俺の方へ一歩近づいてきた。
その目には、明らかなハートマーク――とまではいかないが、尊敬と親愛、そして少しばかりの熱情が浮かんでいる。
「あ、あのさ、お兄ちゃん……。もしよかったら、今夜、一緒に寝てもいい……かな?」
「はい?」
俺は凍りついた。
思考が停止する。
これはドッキリか? それとも俺がついに発狂して幻聴を聞いているのか?
あの鬼のような妹が、ブラコン全開のデレ妹に変貌している。
手の中のスマホが、ジジジ……と熱を帯びる。
画面には『暗示成功:効果時間 残り59分』という表示が出ていた。
「……マジ、なのか?」
俺は戦慄した。
こいつはジョークアプリなんかじゃない。
本物の、とんでもない『劇薬』だ。
俺は震える手で「解除」ボタンを連打した。
美咲がハッとして、いつもの冷徹な目に戻るまで、俺の心臓は早鐘を打ち続けていた。
3.パッシブスキル発動中
翌朝。
俺は重い足取りで学校へ向かっていた。
昨夜の出来事は夢ではなかった。スマホの中には依然として『Hypno-App』があり、試しに自分の指に向けて「動くな」と念じたら本当に指が麻痺して動かなくなった。
危険すぎる。
こんなもの、持っていていいはずがない。
だが、捨てようにも捨てられない(物理的にゴミ箱に捨てても、なぜかポケットに戻ってくるというオカルト現象まで確認した)。
「……誰にも使わない。絶対にだ」
俺はそう心に誓い、教室に入った。
俺の席は、ラノベの主人公御用達の「窓際の一番後ろ」……ではなく、廊下側の真ん中という一番モブっぽい位置だ。
いつも通り、誰とも目を合わせずに席に着き、カバンから教科書を取り出す。
その時だった。
「おはよ、鷹井くん!」
明るい声が降ってきた。
顔を上げると、クラスのカースト上位に君臨する女子グループの一人、佐藤さんが俺の机の前に立っていた。
普段なら、俺のような陰キャには目もくれないタイプの女子だ。
「あ……おはよう、佐藤さん」
「ねえねえ、今日の髪型、なんかいい感じだね! セット変えた?」
「は? いや、何も……寝癖だと思うけど」
「えー、それがワイルドでカッコいいよ! 今度さ、駅前にできたパンケーキ屋行かない?」
……は?
脳内処理が追いつかない。パンケーキ? 俺と?
その背後から、別の女子が割り込んでくる。
「ちょっと佐藤、抜け駆けズルい! 鷹井くん、数学のノート見せてくれない? お礼に私の手作りクッキーあげるから!」
「俺、数学赤点スレスレだけど……」
「それがいいんじゃん! 一緒に補習受けよ?」
なんだこれは。
俺の周りに、女子が集まり始めている。
それだけじゃない。教室中の女子からの視線を感じる。熱っぽい、粘着質な視線を。
俺はハッとして、ポケットの中のスマホを取り出した。
画面を隠しながらアプリを確認する。
『常時発動スキル(パッシブ):異性誘引Lv.1(ON)』
こ、これかあああああッ!!
昨日の夜、意味不明だと思って放置していた設定。これがONになっているせいで、俺は今、歩くマタタビ状態になっているのだ!
オフにしろ! 今すぐオフに!
俺は必死に画面をタップした。
『エラー:レベル不足のためパッシブスキルの変更はできません。解除には【アプリ経験値】が必要です』
「ふざけんな! 課金ゲーかよ!」
思わず叫んでしまい、教室が静まり返る。
やばい、完全に変な人だと思われた。
しかし、女子たちの反応は予想外だった。
「キャー! 急に大声出すとか男らしい!」
「ミステリアス……素敵……」
ダメだ。こいつら、完全にバグってる。
俺の「平穏な独身ライフ」が、音を立てて崩れ去ろうとしている。このままでは、俺は望まないハーレムの中心で愛を叫ぶことになり、最終的には誰かの彼氏にされ、またあの裏切りの地獄を味わうことになる。
冗談じゃない。
恋愛なんてクソ食らえだ。俺は誰とも付き合わないし、誰も好きにならない。
「……逃げよう」
俺は席を立ち、トイレに避難しようと廊下へ飛び出した。
しかし、その判断が裏目に出る。
曲がり角を曲がった瞬間。
ドンッ! という衝撃と共に、俺は誰かと正面衝突した。
「きゃっ!」
「ぐおっ!」
ベタだ。あまりにもベタすぎる展開。
ラノベならここでパンを咥えた転校生が出てくるところだが、現実はもっと残酷で、そして美しかった。
尻餅をついた俺の目の前に、一人の少女が倒れ込んでいた。
窓から差し込む朝日を受け、キラキラと輝く長い髪。
それは日本人離れした、透き通るような銀髪だった。
白樺乃愛。
この学校の全男子生徒が一度は夢に見る、正真正銘の「高嶺の花」。
ハーフだかクォーターだか知らないが、その圧倒的な美貌と、氷のように冷たい態度から『銀の氷姫』なんて痛いあだ名で呼ばれている、学園一の美少女だ。
「……いったぁ……」
彼女が顔を上げる。
長く伸びた睫毛の奥にある、宝石のような青い瞳が俺を捉えた。
まずい。
白樺乃愛は、男嫌いで有名だ。ぶつかっただけでゴミを見るような目で見られるというのが定説だ。
俺は急いで謝罪し、立ち去ろうとした。
「す、すまん! 前見てなくて!」
しかし。
彼女は俺の顔を見たまま、固まっていた。
その白い頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。
――まさか。
俺の背筋に冷たい汗が流れる。
あの忌々しい『異性誘引』の効果が、この氷姫にまで及んでいるのか?
「あ……貴方は……」
白樺乃愛が、震える声で呟く。
その瞳は、明らかにトロンとしていた。さっきの妹やクラスの女子たちと同じ、理性を飛ばされた目だ。
「ずっと……探してた……私の……王子様……?」
ドクン、と心臓が跳ねた。
特大のフラグだ。
しかも、ただのラブコメフラグじゃない。学園カーストの頂点、全男子の憧れである彼女に好かれるということは、全男子を敵に回すということであり、俺の平穏な隠遁生活の完全なる死を意味する。
逃げなければならない。
このフラグを、全力でへし折らなければならない。
俺はポケットの中で、あの呪いのスマホを握りしめた。
毒をもって毒を制す。
このアプリが原因で好かれているなら、このアプリを使って嫌われればいい。
俺はスマホを取り出し、素早くアプリを起動。カメラを彼女に向けた。
幸い、廊下には俺たち以外誰もいない。
「……何? 私を撮るの?」
「ああ、そうだ。記念撮影だよ」
俺は引きつった笑顔で答えながら、コマンドを入力する。
狙う効果は『嫌悪』。
俺のことを、道端の石ころ以下、いや、生ゴミのように認識させる暗示だ。そうすれば、彼女は俺に関わらなくなり、フラグは回避できる。
『コマンド:対象は術者に対して激しい嫌悪感を抱く』
『実行』ボタンをタップ。
ピロン♪
再び、間の抜けた音が廊下に響き、フラッシュが焚かれる。
白樺乃愛の体がビクリと震え、その瞳から光が消えた。
よし、成功だ。
これで彼女は俺を罵倒し、去っていくだろう。
俺は勝利を確信し、スマホを下ろした。
しかし。
数秒後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は――先ほどよりもさらに深く、暗く、濁った光を宿していた。
「……そう」
「え?」
彼女が立ち上がり、俺との距離を詰めてくる。
香水のいい匂いが鼻をくすぐる。だが、その表情は笑顔ではなかった。
執着。あるいは、狂気。
「私に……こんな恥ずかしい写真を撮らせて……私を支配しようとするなんて……」
「は? いや、俺はただ……」
彼女の冷たい手が、俺の頬に触れた。
「最低……。本当に最低なクズ野郎……」
お、効いてる! 「最低」って言われた!
よし、これで彼女は俺の前から去るはず――
「――ゾクゾクするわ」
「はい?」
白樺乃愛は、恍惚とした表情で俺を見つめていた。
「私、今までチヤホヤされるばかりで……こんな風に、ゴミのように扱われたの、初めて……」
俺はスマホの画面を見た。
そこには赤い文字でエラーログが表示されていた。
『警告:対象の精神耐性が極めて高いため、暗示内容が反転しました』
『嫌悪 → 倒錯した依存』
「なっ……!?」
嘘だろ。
このポンコツアプリ、相手が強すぎると効果が逆転するのかよ!
ドMか! この氷姫、まさかの隠れドMだったのか!?
「ねえ、もっと罵って? 私のこと、汚い豚だと言って?」
「い、いや、言わねーよ!?」
「照れ屋さんなのね……可愛い。絶対に逃がさないから」
白樺乃愛が、俺の制服のネクタイを掴んで引き寄せる。
その美しい顔が、すぐ目の前に迫る。
唇が触れそうになる距離で、彼女は甘く、危険な声で囁いた。
「責任、取ってね? 私の……ご主人様」
終わった。
俺の独身貴族計画も、平穏な高校生活も、すべてが終わった。
恋愛フラグを回避するために使った催眠アプリは、最悪かつ最強の「ヤンデレフラグ」を建築してしまったのだ。
「だ、誰かああああああああ!!」
俺の悲鳴は、朝の校舎に虚しく響き渡った。




