05.偽りの日常
リュミエールの朝は、いつだって希望に満ちていた。巨大なルナ・パレス駅は、今日も銀河中から押し寄せる観光客で溢れかえっている。朝日にきらめくガラスの天井からは柔らかな光が降り注ぎ、駅構内の至る所から、宇宙各地の言語が入り混じった陽気な話し声が響き渡る。香ばしいコーヒーの匂いと、焼きたてのパンの甘い香りが混じり合い、どこからともなく流れる爽やかなBGMが、訪れる人々の心を浮き立たせる。
カケルとミリアムは、今日も高校生カップルに扮して、その賑わいの中心にいた。
「カケル!見て見て、このお店、朝から限定スイーツやってるよ!」
ミリアムは、昨日と同じミントグリーンのワンピースに、今日は白のカーディガンを羽織り、カケルの腕に腕を絡ませて無邪気に跳ねる。その手には、色とりどりのフレッシュフルーツが乗ったタルトのパンフレット。カケルは、昨日と同じライトブルーのパーカーとデニムのハーフパンツ姿で、そんなミリアムの言葉に小さく笑みを返した。
「ずいぶん早起きしてまで、そんなに食べたいのか?」
「当たり前じゃん!限定なんだよ?早く行かないと売り切れちゃう!」
ミリアムは頬を膨らませ、カケルをスイーツ店の行列へと引っ張っていく。行列の先には、惑星リュミエールのゆるキャラ「ルナぴょん」を模した、愛らしいドーナツが並んだショーケースが見える。周囲の観光客は、そんな二人の様子を微笑ましく見守っていた。彼らにとって、二人はごく普通の、夏休みを満喫しているカップルにしか見えないだろう。
カケルは、ミリアムがスイーツに夢中になっている隙に、さりげなく周囲を観察する。彼の視線は、昨日ノアが割り出した「怪しい人物」の行動パターンを脳内でシミュレートしながら、人々の動きを追っていた。特定の時間帯に、特定の場所で、不自然なほど滞留する人物はいないか。あるいは、誰かと短い視線を交わす者はいないか。彼の瞳の奥には、リゾートの賑やかさとは裏腹の、鋭い探求心が宿っている。
ミリアムもまた、カケルの隣でパンフレットを広げながら、周囲の「音」に意識を集中させていた。ノアが昨晩特定した、麻薬組織が使用する可能性のある特殊な周波数。人々の話し声やBGMに紛れて、その「音」がどこから、どれくらいの強さで発せられているのかを感知しようとしていた。時折、彼女の眉間にわずかな皺が寄るが、すぐに満面の笑顔に戻り、カケルに甘える。
「ねぇカケル、どれにしようかなー?全部美味しそうで迷っちゃう!」
「好きに選べばいいさ」
カケルはミリアムの頭を優しく撫で、そのまま自然な動作で、昨日ノアが予測した「怪しい人物」が現れる可能性のあるエリアへと、ゆっくりと足を向け始めた。彼らは、リゾートを楽しむカップルという完璧なカモフラージュの下で、静かに、そして確実に、獲物を追い詰めていた。
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ルナ・パレス駅の地下深く、広大な貨物搬入エリアは、昼夜を問わずその活動を続けていた。巨大な搬入口からは、宇宙船から直接降ろされた色とりどりの貨物コンテナが次々と運び込まれ、フォークリフトがけたたましい音を立ててそれらを積み下ろしていく。金属と油、そして梱包材の匂いが混じり合い、天井から吊るされた蛍光灯が、埃っぽい空気をぼんやりと照らしていた。
イヴァンは、今日も駅の倉庫スタッフとして、その喧騒の中にいた。くたびれた作業着は、昨日よりもさらに使い込まれたように見え、彼の屈強な体に馴染んでいる。彼は、指示された通りの貨物を黙々と運び、時には他のスタッフの邪魔にならないよう、素早く動線を確保する。主任らしき男の「おい、派遣!」という呼び声にも、ぶっきらぼうに「おう」と答え、指定された場所へと向かった。
彼の表情は昨日と同じく無愛想で、誰とも積極的に会話を交わすことはない。しかし、その視線は常に周囲の貨物と、そこを行き交う人々を捉えていた。特に、昨日ノアが特定した「不自然なセキュリティタグ」のついたコンテナには、より注意を払う。彼は、わざとらしくそのコンテナの近くで作業をしながら、側面や底部のわずかな隙間から、内部を窺い知ろうと試みていた。
「おい、派遣、今日はやけに手が早いじゃねぇか」
近くで作業していたベテランスタッフが、イヴァンに話しかけてきた。イヴァンは、一瞬動きを止めるが、すぐにまた作業に戻りながら、低い声で答えた。
「早く終わらせて休憩したいんでな」
その言葉に、ベテランスタッフは肩をすくめて笑った。イヴァンは、その隙に、別の搬入口から運び込まれるコンテナのリストに、目ざとく視線を走らせた。昨日と同じ、あるいは類似の不審なタグを持つ貨物がないか。彼が運ぶ貨物の重量や形状も、その中身を推測する上で重要な情報となる。
フォークリフトの轟音と、金属が擦れる音が響く地下倉庫で、イヴァンはただの寡黙な派遣スタッフとして、その任務を遂行していた。だが、彼の内側では、銀河の平和を脅かす麻薬の存在を突き止めるための、静かで確実な情報収集が続けられていた。
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ルナ・パレス駅に併設された高級レストラン「エトワール」。今日もその空間は、シャンデリアの輝きと、柔らかなジャズの生演奏、そして裕福な客たちの優雅な会話で満ちていた。磨き上げられた銀食器がカトラリーの音を奏で、熟練のシェフが織りなす美食の香りが、店内に広がる。
エミリーは、今日もシンプルな黒の制服を完璧に着こなし、白いエプロンを身につけてホールを動いていた。彼女の動きは、昨日と同じく洗練されていて、一切の迷いがない。テーブルからテーブルへと流れるように移動し、客の視線を感じ取るや否や、すぐにその元へと向かう。
「失礼いたします。何かお困りでしょうか?」
系列店からヘルプでやってきた(という偽装をしている)彼女は、どの客に対しても、地元スタッフと遜色ないプロフェッショナルな対応を見せた。ソムリエ顔負けのワインの知識で客を感心させ、料理の素材や調理法についても淀みなく説明する。彼女の存在は、まるで最初からこの店にいたかのように自然に、空間に溶け込んでいた。
だが、その完璧なサービスを提供する裏で、エミリーの視線は常にホール全体を細かく観察していた。昨日ノアが特定した、怪しい動きを見せる人物たちの顔を記憶に刻みつけ、彼らがどのテーブルを利用しているか、どのような会話を交わしているかを、さりげなく聞き取ろうとする。彼女の耳は、食器の音や会話のざわめきの中から、特定の声のトーンや言葉の抑揚を識別しようと努めていた。
奥の個室の扉が、わずかに開閉する。エミリーは、注文の品を運ぶフリをして、その個室の近くを通り過ぎた。一瞬だけ開いた扉の隙間から、中にいる人物たちの様子を無意識のうちに捉える。彼女の視線は、皿に乗せられた料理やグラスを注ぐ手元ではなく、常にその先にあった。
「エミリーさん、今日のディナーも満席で大変ね。でも、あなたがいると本当に助かるわ」
ベテランの同僚スタッフが、感謝の言葉を口にする。エミリーは小さく微笑んで応じた。
「お気遣いなく。私にできることがあれば、喜んでお手伝いさせていただきます」
彼女の言葉は丁寧で、控えめだった。しかし、その内側では、この華やかなレストランの片隅で進行する、麻薬組織の密かな動きを突き止めるための静かな戦いが、着々と進められていた。
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リュミエール市街の商業ビルの一室、チームYの隠れ家は、外界の喧騒とは隔絶された情報戦の中枢だった。昼間の陽光は消え、部屋の内部は、何台もの高機能モニターから放たれる青白い光と、ノアがキーボードを叩く規則的な音に支配されている。
ノアは、昨日と同じくラフなTシャツにカーゴパンツ姿で、ワークステーションの椅子に深く沈み込んでいた。彼の指は、まるで生き物のようにディスプレイ上のコードを猛烈な速さで操り、膨大なデータを処理していく。彼の表情は常に冷静で、感情の動きをほとんど読み取れない。しかし、その瞳だけは、暗闇の中で輝くルビコンのように、一点の曇りもなく情報へと集中していた。
彼の目の前には、ルナ・パレス駅の監視カメラネットワークがリアルタイムで映し出されている。昨日までは単なる映像の羅列だったものが、今やノアの手によって、意味のある情報へと変換されつつあった。特定の人物が移動したルートが色分けされ、滞在時間がヒートマップで可視化される。駅を行き交う無数の人々の中から、彼が追うべき「影」が、少しずつ、しかし明確に浮かび上がってきた。
「……やはり、な」
ノアは小さく呟くと、別のモニターに視線を移した。そこには、駅の公共Wi-Fiの通信ログが秒単位で更新され、無数のデータパケットが光の粒子となって流れていく。ノアは、ミリアムが昨日感知した「特殊な音」の周波数帯を割り出すため、この膨大な通信記録の中から、特定のパターンを持つ信号を探し続けていた。
「ミリアムの感覚は鋭い。この微弱な信号は、通常のプロトコルでは検出できない。だが、その規則性は……」
ノアはキーボードを叩くスピードをさらに上げる。彼の思考は、複数のタスクを同時に処理していた。監視カメラの映像解析、通信ログのパターン認識、そしてGRSI本部から送られてくる要注意人物リストとの照合。それらすべてが、彼の頭脳の中で高速にリンクされていく。




