11.奪われた希望
「了解した。貯蔵庫のロックをかけ、排気ダクトも閉鎖する。脱出経路を最速で導き出す……」
ノアがシステムを操作しようとした、その時だった。
突如、ノアの隠れ家のモニターに表示されていた秘匿通信の信号グラフが、狂ったように跳ね上がった。無数の赤い点が画面を埋め尽くし、ノイズがデータフローを遮断する。隠れ家の空間を満たしていた冷却ファンの微かな唸りさえ、この電子的な嵐の前にはかき消された。
「しまった!コレクターは俺たちが『音』で追跡していることを知っていたのか!?」
ノアの冷静な声が、初めて焦燥に染まった。彼の指がキーボードの上を激しく滑る。異常な信号の発生源を特定しようと試みるが、その強大さは、彼のハッキング能力すら一時的に麻痺させるほどだった。
それは、ミリアムが感知する「音」の周波数帯を狙い撃ちにした、高出力の妨害音波。ただの電波妨害ではない。特定の脳波を乱し、空間認識能力を持つ者を攻撃するための、指向性を持った音波兵器だ。
その時、貯蔵庫内で麻薬コンテナを手にしていたミリアムの顔が、突如として苦痛に歪んだ。彼女は両手で頭を抱え、その場にうずくまる。
「うっ……あ、頭が……!!」
ミリアムの瞳は虚ろになり、焦点が定まらない。全身を貫くような、耳には聞こえないはずの高周波の音が、彼女の鋭敏な空間認識能力を直接揺さぶり、脳を直接攻撃するかのような激痛を与えていた。彼女は意識を保とうとするが、脳を直接揺さぶられるかのような衝撃に、呼吸が乱れ、その場に倒れ込んでしまった。
「ミリアム!?くそっ!」
カケルは咄嗟にミリアムに駆け寄るが、その瞬間、貯蔵庫の壁が、不自然な音を立てて内側へと開いた。それは、事前に情報になかった隠し扉だ。そこから、コレクターの特殊部隊員たちが、音もなく雪崩れ込んできたのだ。彼らは黒い強化スーツに身を包み、ヘルメットのバイザーの奥に冷たい光を宿している。手には非殺傷性のスタンライフルを構え、その照準は正確にカケルとミリアムを捉えていた。
「ノア、増援だ!ミリアムがっ……!」
カケルが叫んだところで、部隊の一人が素早く動いた。彼らは真っ先に倒れ込んだミリアムに狙いを定め、有無を言わさず彼女の身体を拘束した。ミリアムは意識が朦朧としながらも必死に抵抗しようと手を伸ばすが、強化スーツに包まれた無感情な手が、彼女の細い腕をやすやすと捻じ伏せる。
「ミリアムを離せ!」
カケルは叫び、麻薬コンテナを抱えたまま、残されたわずかな力で抵抗しようとする。
しかし、特殊部隊員の一人が放ったスタン弾が、カケルの肩を直撃した。パチン!という乾いた音と共に、全身に強烈な電流が走る。筋肉が痙攣し、神経が麻痺する。意識は急速に遠のいていく。カケルが最後に見たのは、特殊な拘束具で完全に身動きを封じられ、担架のようなものに乗せられて連れ去られていくミリアムの姿だった。彼女の瞳は、かすかにカケルに向けられていたが、その光は絶望的に揺れていた。
麻薬コンテナも、カケルの麻痺した手から滑り落ち、硬い床に転がる音を立てて敵の手に渡っていく。
「カケル!ミリアム!」
ノアの声が、インカムの向こうで絶望的に叫んだ。彼のモニターには、貯蔵庫内からの映像が突如として途絶え、通信が完全に途切れたことを示す赤色の警告が、激しく点滅していた。彼のハッキングシステムは、まるで思考を停止したかのように沈黙している。
「くそっ、間に合わねぇのか!?」
イヴァンは、貯蔵庫への通路に駆けつけようとするが、コレクターが放った別の増援部隊に阻まれていた。彼らは、地下貨物エリアの各所に配置され、イヴァンが潜んでいた場所も、完全に包囲されようとしていた。
イヴァンは、まるで猛獣のように唸り、迫りくる敵部隊を拳で、足で、文字通りなぎ倒していく。しかし、敵の数は多く、その装備は想像以上に堅牢だった。
彼の視界の端で、裏の搬出口から、先ほどまで見ていた「空のコンテナ」の一つが、高速で宇宙船へと運び込まれていくのが見えた。そのコンテナは、特別な牽引ビームで固定されており、通常の貨物とは明らかに異なる。麻薬、そしてミリアムが、その中に乗せられているかもしれない。イヴァンは、猛烈な勢いでそのコンテナに肉薄しようとするが、背後から放たれたスタン弾が彼の脚部をかすめる。
「イヴァン!そっちじゃない!カケルよ!」
エミリーの冷静な、しかし切迫した声が響いた。彼女はレストランのバックヤードから貯蔵庫へと続く通路で、何とか警護員たちの動きを牽制しながら、ノアからの緊急指示を受けていた。
エミリーの持つ狙撃用ライフルからは、非殺傷性の麻酔弾が正確に敵の急所を捉え、一人、また一人と敵を倒していく。しかし、貯蔵庫からの激しい銃声と、増援部隊の押し寄せが、彼女の神経を極限まで研ぎ澄まさせていた。
「ノアが言うには、貯蔵庫のダクトから脱出しようとしたカケルが、敵の奇襲で意識を失ったわ!彼らがミリアムを連れ去った後、カケルは置き去りにされたみたい。急いで!イヴァン、あなたがカケルを連れて脱出ルートへ!」
エミリーの指示に、イヴァンは歯を食いしばる。ミリアムを追うか、カケルを救うか。彼の脳裏に、リーダーとしてのカケルの冷静な指示と、ミリアムの無邪気な笑顔が交錯する。しかし、目の前で倒れているカケルを見捨てることはできない。それが、チームYの絆だ。
「ちくしょう、分かった!」
イヴァンは、目の前の敵を力任せに吹き飛ばし、エミリーと共に貯蔵庫へと駆け込んだ。貯蔵庫の扉は、再び音もなく開いていた。内部は、催涙ガスの残り香と、倒れ伏した警護員たちで埋め尽くされている。その床には、意識を失い、冷たい汗を浮かべたカケルの姿があった。彼の顔には、わずかな苦痛と、そしてミリアムを救えなかった無念の表情が、はっきりと浮かんでいる。麻薬コンテナは消え、ミリアムの姿もどこにもない。
「カケル!」
イヴァンは、その屈強な腕でカケルを抱え上げ、まるで軽い荷物であるかのように軽々と担ぎ上げた。エミリーは、貯蔵庫の入り口に残り、後方から迫る敵の追撃を、冷静な判断と正確な射撃で食い止める。彼女の放つ麻酔弾が、確実に敵の足を止めていく。
「イヴァン、こっちよ!緊急脱出用ハッチがある!」
エミリーが指差したのは、貯蔵庫の片隅に隠された、ほとんど目立たないハッチだった。ノアが事前に特定していた、万が一のための最終脱出ルートだ。イヴァンは、カケルを抱えたまま、迷うことなくそのハッチへと向かった。
リュミエールの夜空には、煌びやかなパーティの光が、まるで何事もなかったかのように輝いている。
しかし、その駅の地下深くでは、チームYの希望が、今、コレクターの狡猾な策略によって、闇に消え去った。残されたのは、意識を失ったリーダーと、連れ去られた仲間への絶望、そして、決して消えることのない、敗北の苦い味だけだった。




