国を救うのは、異世界召喚された酔っぱらいのオッサン聖女でした。〜酒と俺と時々王子〜
王国は、長引く戦争と魔物の侵攻により、国力を失っていた。王国の都には今も戦の爪痕が生々しく残り、貧困と疫病が蔓延する中、住民たちは希望を見出せずにいた。
若き王子アレクシウスは、この絶望的な状況を打破すべく、ある禁断の書物に希望を託した。そこに記されていたのは「聖女召喚の儀式」。
伝説によれば、異世界から降り立つ聖女は、国を救うほどの奇跡の力を持つという。だが、その伝説はあまりにも現実離れしており、信仰心と理性の間で葛藤するアレクシウスの心を揺さぶっていた。それでも、他に道はなかった。
「この儀式が、王国を救う唯一の手段だ」
王子は決意を胸に、王家の最も古い地下室へと足を踏み入れた。そこは、先代の王たちでさえ封印した、忘れられた魔法の遺産が眠る場所だった。
埃にまみれた床には、古代の魔法陣が静かに描かれていた。アレクシウスは躊躇なく、その中心に立ち、儀式の呪文を唱え始める。
「聖女よ、異世界より降臨せよ!」
魔法陣は次第に青白い光を放ち、その光は激しさを増していった。空間が歪み、視界が真っ白に染まる。アレクシウスの心臓が激しく脈打ち、その瞬間、光が収束し、目の前に何者かが現れた。
そこに立っていたのは、王子が思い描いていた聖女とはあまりにもかけ離れた、ひとりの男だった。
「うぇーい!」
男は酩酊し、足元が定まらない様子でよろめいている。手には安物のワインボトルが握られ、その顔はどこか自信に満ちていた。
「おっ、これは……異世界ってやつか?」男はあたりを見回し、アレクシウスを見つけるとニヤリと笑った。「おう、坊ちゃん、いい場所に来ちまったな」
アレクシウスは言葉を失った。聖女は神聖な存在であり、女性であると信じられていた。目の前の男は、そのすべての前提を根底から覆す異物だった。
「おい、君! 何者だ!?」
声を荒げる王子に対し、男は肩をすくめて答えた。
「俺? 聖女ってやつだろ? 召喚されたってことで、よろしくな!」
男はにっこりと笑う。その無神経な態度に、アレクシウスの脳裏には様々な疑問が渦巻いた。
なぜ男なのか? なぜ酔っているのか? この儀式は失敗したのか?
しかし、この瞬間、彼は気づかされる。もう後戻りはできないのだ。王国の命運を背負って、これからどうするべきか。王子は一度深呼吸をしてから、男に向かって言った。
「君、少なくともこの国のために何かしらの力を見せてくれ。できるだろう?」
酔っ払い男は肩をすくめて、「さぁな。でも、せっかく来たんだし、ちょっと見せてやるか。」と言って、王子に向けておどけた。
男の口から発せられた「召喚された」という言葉だけが、この奇妙な状況の唯一の根拠だった。
翌日から、王子と「聖女」を名乗る酔っ払い男の奇妙な冒険が始まった。王国に山積する問題の中でも、最優先とされたのは魔物による村の襲撃だった。
「魔物退治か。どうする?」アレクシウスが問うと、男はワインボトルを軽く振り、「あー、それならこうするんだよ」と不敵な笑みを浮かべた。
男は魔物の巣窟へと向かった。王子は兵を連れ、男と共にその村へ向かうことを決めた。
その後、男は何も準備せずに魔物の巣に突入していった。王子が驚いて後を追うと、男は魔物たちに向かってこう呼んだ。
「おい、ちょっと酒飲まねぇか?」
王子は呆然とした。魔物を倒すどころか、酒を勧めている。酔っ払い男は、酒を投げるように魔物たちに渡し始めた。魔物たちは男の周りに集まり、差し出されたワインを飲み始めたのだ。やがて、魔物たちは次々と酔いつぶれ、戦意を失って倒れていった。
「な、なんてことだ……!」
呆然とするアレクシウスを尻目に、男は得意げに肩をすくめた。
「ほらな、酒さえあればどうにでもなるんだよ」
王子は呆然としながらも、彼が本当に魔物を無力化したことに驚愕していた。その隙を逃さず、兵たちが魔物の息の根を止めて回った。
王子は、この男がただの酔っ払いではないことを悟り始めていた。彼が持つ「力」は、魔法とは異なる、もっと身近で、しかし誰も思いつかないような奇策だった。
その後、酔っ払い男の予想外の活躍により、王国の辺境は平和を取り戻した。彼の評判は「酔っ払い聖女」として民の間に広まり、人々の心に希望の光を灯し始めていた。
次の問題は食糧問題だった。王国の中心部にある穀倉地帯の村が、正体不明の害虫の大群に襲われ、収穫を目前にした作物が壊滅的な被害を受けようとしていた。農民たちは絶望し、アレクシウスに助けを求めてきた。
「魔法使いが呪文を試しても効果がなく、害虫は増える一方だ。どうすれば…」
アレクシウスが頭を抱えていると、男がまたふらりと現れた。
「なんだ、虫けらを退治したいって話か?」男は王宮の酒蔵から持ち出したらしい、瓶の酒を飲み干しながら言った。「そりゃあ、酒があればなんとかなるだろ」
王子は呆れて言った。「酒で虫が退治できるとでも言うのか?」
「退治するんじゃねぇ。おびき寄せるんだ」
男は王子と村の代表者を連れ、畑へと向かった。そして、農民たちにこう指示を出した。「畑のあちこちに小さな穴を掘って、そこにこの酒を注ぎ込んでくれ。そして一晩待つんだ」
半信半疑のまま、言われた通りに作業を終えると、翌朝、信じられない光景が広がっていた。酒を注いだ穴には、害虫の死骸がびっしりと詰まっていたのだ。夜の間に酒の匂いに誘われた害虫たちが、次々と穴に落ちて溺死したらしい。
「まさか……本当に酒で害虫を退治するとは」王子は目を見開いた。
男はニヤリと笑った。「あー、酒の甘い匂いは虫にとっちゃあ、たまんない誘惑なんだよ。こうやっておびき寄せて、一網打尽ってわけさ。物理攻撃ってやつだ」
しかし、その数日後、王国の北端の村から届いた報告は、再び王国全体を絶望の淵に突き落とす。原因不明の流行病が急速に広まり、村人たちが次々と倒れていくというのだ。
王宮の医師や魔法使いたちも手をこまねき、薬草も治療魔法も効果を見せなかった。焦燥感に駆られたアレクシウスは、村へと向かうことを決意する。だが、その場にいる誰一人として、酔っ払い男が助けになるとは思っていなかった。しかし、他に打つ手はなく、アレクシウスは渋々、男の同行を求めた。
村に到着すると、苦しむ村人たちの姿が広がっていた。長老は憔悴しきった顔で王子に訴える。
「王子様、薬も魔法も効かぬのです。流行病に違いありませんが、感染経路が全く分からないのです……」
誰もが絶望する中、酔っ払い男がふらりと現れ、手に持ったワインボトルを振り回しながら言った。
「なぁ、こういう時こそ、酒の力だろうが。感染症ってのは、体が弱ってる時に入り込むんだろう?だったら、酒で体を元気にして、免疫力を高める方がいい。魔法や薬草に頼りすぎだ」
「酒だと? 何を言っているんだ!」王子は驚きを隠せない。
男は笑いながら言う。
「酒ってのはな、体をリラックスさせるだけじゃない。酒のアルコール成分には、その菌を殺す力があるんだ。空気中に菌を広げさせないようにすれば、感染は防げるってわけさ」
半信半疑ながらも、アレクシウスは男の提案を受け入れた。村人一人ひとりに、酒を頭から浴びせるという奇妙な指示。最初は困惑していた村人たちだったが、次第にそれが効果を持つことを知る。男が言う通り、酒を浴びた者たちは感染を免れ、病の蔓延は収束していった。
その様子を目の当たりにしたアレクシウスは、驚きと共に男の言葉を深く考えていた。
「まさか、酒がこのような形で役立つとは……」
「酒の力ってのは、時には便利なもんだってことさ。魔法や薬草だけに頼らず、あらゆる方法を試すべきなんだ」
男はそう言って、ニヤリと笑った。その後、酔っ払い聖女の噂は王国中に広まり、流行病の予防法として定着していった。
そして、酔っ払い聖女はいつしか王国から姿を消した。
※
薄暗い光が差し込む病室の白いカーテン。鼻を突く消毒液の匂いと、どこか遠くで流れるクラシック音楽の旋律が、世界を曖昧なものにしていた。
「また夢を見ていたんですか?」
静かな声がした。柔らかな口調のその声は、男にとって聞き慣れたものだった。看護師の吉岡美智子。
「……ああ、あの世界の続きだ。夢じゃない。魔法陣が光って、王子がいて……俺は“聖女”になってた」
男、佐藤真人はベッドの上で小さく笑った。頭に巻かれた包帯が僅かにずれていることに気づいた吉岡が、手慣れた動作で巻き直す。
「男なのに聖女で、酔っ払ってるんですって?」
「そうだよ。ワイン片手に魔物を酔わせて倒すんだ。害虫も酒の力で追い払った。村を救って、流行病も止めたんだぜ。アルコール消毒ってやつさ」
彼は得意げに笑っていたが、その瞳の奥には、どこか痛々しい影が揺れていた。
吉岡は静かに頷き、真人の手をそっと握った。
「ねえ、真人さん。昨日のこと、覚えてますか?」
真人は目を細めて天井を見上げた。
昨夜、彼は病棟の宿直室からワインボトルを盗み、病室で酒を飲んで、暴れたのだ。看護師に取り押さえられた際、彼はこう叫んでいた。
「オレは王国を救ったんだ! 聖女だ! もう一度、アレクシウスのもとへ戻らないと!」
吉岡は診察記録を思い出していた。真人はアルコール依存症と双極性障害の診断を受けていた。父親が酒乱で、幼い頃から暴力を受けていた過去。その一方で、父親が酒を飲んでいるときだけは、笑って話を聞いてくれたという記憶。彼にとって、酒は「善」であり「力」だった。
「どうしてお酒が好きなんですか?」吉岡は優しく問いかけた。
「……昔、父親がよく酒を飲んでたんだ。酔うと、優しい人になった。仕事で疲れてても、酔ってる時だけは、笑って話を聞いてくれた……酒って、そういうもんだと思ってたんだよな。悪いもんじゃない、って」
真人が語る“異世界”の話は、滑稽で荒唐無稽だった。しかし、吉岡には分かっていた。彼が語る世界では、彼は「英雄」であり、「救う者」であり、「必要とされる存在」だったのだと。
「ねえ、真人さん。あなたの異世界の話、みんなにしてみませんか? 創作療法で、ノートに書いて残すの」
真人は目を丸くしていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。やってみる。誰かが覚えててくれるなら、消えなくてすむもんな」
吉岡は笑顔を浮かべた。その午後、真人は色鉛筆とノートを前に、黙々と「王国」の地図を描いていた。中央には城、東には魔物の谷、北には流行病に苦しむ村。そして、酒樽とワインボトルが転がる、ひとりの男の姿。
その男は「救世主」でありながら、「聖女」と呼ばれていた。
※
夜。病棟の消灯時間が近づく。カーテン越しに見える月が、やけに青く感じられた。
ふと、耳元で誰かの声がした気がした。
──聖女よ。再び我が王国に降臨せよ。
「……また呼んでやがる」
彼は小さく笑った。両腕を胸の前で組み、そっと目を閉じる。
ほのかにワインの香りが漂った気がした。
その香りは、消毒液の匂いをかき消し、次第に強くなっていった。真人の全身が淡い光を放ち始め、それは部屋の闇を優しく照らした。
包帯を巻かれた頭、点滴の針が刺さった腕……彼の肉体は、まるで淡い霧のように薄れていく。
※
吉岡の巡回は、それから数分後のことだった。
彼女は病室のドアを開けると、すぐに異変に気づいた。部屋の中に漂う、甘く、どこか懐かしいワインの香り。ベッドの上に吉岡の姿はなく、ただ、一冊のノートだけが残されていた。
窓は閉まり、鍵もかかっている。警備員が常駐し、夜間外出は不可能だ。それなのに、彼は病棟のどこにもいなかった。
※
真人の失踪は大きな騒ぎとなり、病院は警察に連絡。徹底的な調査が始まった。
当然、廊下の監視カメラの映像が確認されたが、夜通し誰も真人の病室に出入りした形跡はなかった。捜査が行き詰まったその時、映像をスロー再生していた若い警官が奇妙な場面に驚いた。
深夜3時13分。
映像には誰も映っていない。しかし、ほんの数フレームの間だけ、真人の病室のドアがノイズで乱れ、まるで半透明になったかのように向こう側が透けて見えたのだ。そして病室の床に、彼がいつも話していた「魔法陣」のような形の青い光が現れ、一瞬だけ強く瞬いた。その直後、映像は元に戻った。
人間の目では捉えられない、機械だけが記録した異常現象。それは、この世界に干渉した「何か」の痕跡だったのか。警察は原因不明の機材トラブルと片付けた。
数日後、警察から戻されたノートを開いた吉岡は、驚いた。
真人が描いた、ワイン瓶を片手に笑う「酔っ払い聖女」の姿が、まるで、インクが紙から抜け落ちたかのように消えていたのだ。
そして息をのんで見つめる前で、真人が描いた異世界の地図や、人物や魔物、道具の落書きが陽炎のように揺らめきながら、次々と色褪せ、消えていった。
目の前で起きた物理的にあり得ない現象に、彼女は言葉を失った。
真っ白になったノートは、真人が、現実世界との繋がりを断ち切ったからだと、彼はもう戻ってこないのだと、彼女は自然に理解できた。
吉岡は、窓の外の月を見上げた。その月は、まるで彼が去った世界から自分を見つめているようだった。
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