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二間の間の襖を外し大きな広間を作り床の間の前、上座の畳の上に胡座をかいて座っているスギナに向かい合い、本来なら隣の部屋の板張りの床に胡座をかいて大きく頭を下げ座っているのはイラクサだった。普段は下働きとして広間に座る事は許されず台所と広間を行き来しているイラクサは座りが悪くてもぞもぞしているが今更逃げ出す訳にはいかない。そして本来なら部屋の両側に並んで座りスギナ開催の酒宴に参加しているスギナ配下の者達が、今回略式だからと部屋から追い出され襖で仕切られた廊下で息を潜めて成り行きに聞き耳を立て、その後ろで女主人のキミカゲと二人の女中、下働きに名乗り出た複数の配下の者の嫁達が同じように耳を澄ませる。
「親父様」
意を決してイラクサが頭を上げる。引きつった頭皮にまばらに生えている髪は露草色。同じ様に引きつった顔には眉と睫毛がない。唇も半分ない。だから綺麗に通った鼻筋が浮いて見える。
「幼少時より親父様と姐さんに育てられた私、本日16歳になりました。今日の良き日にめでたく成人を迎えることが出来たことをここに心より感謝申し上げます。これ以降親父様の手足となり働くことをここに誓います」
そして又深々とイラクサが頭を下げ、スギナがそんなイラクサを静かに眺めた後
「イラクサ」
「はい」
父親に呼ばれたイラクサは頭を下げたまま返事をする。
「お前、今の口上で名前を名乗っていないぞ」
頭を下げて返事をしたイラクサにスギナが軽く声をかけ
「あああああああ」
イラクサがその場で悶えだし、襖の向こうから脱力した溜め息が聞こえる。口上の練習をイラクサは30日以上前から何度も何度も練習していた。廊下で見守っている人間達は最低5回は練習台にされている。されているというのか、喜んで練習に付き合っていたのだがそこまで付き合って最後の最後で失敗するとは。さすがイラクサと言うべきか、やはりイラクサと言うべきか。
板間の上で悶えるイラクサを笑顔で眺めながらスギナが手を打ちそれを合図に廊下で息を潜めて脱力した配下の者が襖を開けて広間に入り部屋の両側に並んで胡座をかく。
「イラクサ」
立ち上がったスギナがイラクサを呼びイラクサも気を取り直して立ち上がり、二人が部屋の中央に歩く。
イラクサは小柄だった。成人の歳だが十代前半にしか見えない。すね毛などの毛も生えていない。でも目立つのは子供にしか見えない体型より大きな露草色の瞳よりも全身の引きつれた痕と色が変わってぶち模様になっている肌だった。
スギナがイラクサを拾ったのは十二年前。土手下に落ちていた肉色の塊に気がついたのはスギナの隣を歩いていたキミカゲだった。見つけた途端スギナに声をかけずにキミカゲは土手下まで転がるように駆け出し、スギナはそれを追った。春先で下草がまばらにしか生えていなかったからだろう。しみじみ思い出したキミカゲが語った通り、まだ肌寒い袷の着物の上に綿入れを羽織っている時期だった。
枯れた草をかき分け、まばらに生えだした草を踏みつけ、土手を駆け下り駆け寄りキミカゲが抱き上げた肉の塊は肉の塊だった。この寒い時期、丸裸で捨てられた幼児。全裸だから見るだけで判る。全身何か悪い物を塗られて真っ赤に腫れ上がりただれていた。爪が剥がされた両手両足の指は爛れてくっついている。瞼と唇は雑に縫い合わされ陰部は…… 亀頭は切り取られ、陰嚢は切り裂かれていた。多分睾丸を抜き取るためだろう。人間の悪意を…… 異常な性欲をぶつけられた幼児。身元が判らないように全裸で捨てられた泣き声一つ立てられないほど衰弱した幼児をキミカゲが抱き上げ抱きしめ泣き出した。
抱きしめて泣くしか出来ないキミカゲを幼児ごと抱き上げて土手上まで駆け上がったスギナはその勢いのまま自分の屋敷、この屋敷まで走って戻った。後から「あんなことは二度と出来ない」とスギナが語っていたが、それほどの勢いでスギナは幼児とキミカゲを抱いて屋敷に戻り、その場にいた配下の者に命じ医者を呼び、綺麗な水を沸かし、肉塊を抱きしめて離さないキミカゲの腕から無理矢理幼児を取り上げ治療をし。
なんとか生きている幼児を抱きしめて離さないキミカゲの為にスギナは幼児を助けようと噂を集め、金をかけた。幼児のためではなくキミカゲのために。エードに銀貨一枚で望みを叶えてくれる精霊魔法使いがいると聞き何度その精霊術士に通ったことだろう。それまでの記憶を消し、爛れてくっついた手足の指を剥がし独立させ、括約筋が切れて垂れ流すようになった肛門と尿道を戻した。
その幼児が育ってこうやって成人の口上を唱えられるようになるほど大きく育った。確かに幼児のうちに去勢されたせいで声変わりはなかった。身長も伸びなかった。髪の毛はほとんど生えなかったし、眉毛も睫も生えなかった。切り取られた唇は魔法で治療し再建していたが本人の意思で治療を中断したために完全に再建されていない。それでもここまで育って自分の前に立っている。
キミカゲはイラクサに袴を履かせる。細帯を締める。これで大人になった。あのキミカゲが抱きしめて離さなかった肉塊がここまで育った。自分の配下の者になると宣言している。これ以上の喜びがあるものか。
しかし…… スギナの配下の者になるためにはイラクサは体力が無さ過ぎた。小さい身体はもう少し大きくなるだろうが、筋肉はつかないだろう。シザリオン下下地区自警団道草組の組頭スギナの後を継ぐなど夢物語以前の話。だから身体が小さい代わりに知恵がつくようにと読み書きを教えた。イラクサはスギナの思いが判っているのか勉学に励み、スギナの配下の者の中で一番読み書き計算が出来ると自他共に認めるまでになった。その知恵故に魔法使いにならないか? と魔法使い協会からスカウトされている。『小賢しい』が褒め言葉になる。それが今のイラクサだった。行く行くは誰か腕のたつ者を道草組組頭の座を譲りイラクサは補佐として道草組に尽くしてくれればそれでいいとスギナは思う。ここに集まっている配下の者達も同じ事を考えているだろう。そうなった暁には紋の入った羽織と袴を仕立てなければならないだろう。紋は自分の紋がいいかそれともキミカゲの花紋の方が良いか。イラクサが子供が作れない事は町中の者が知っている。男紋より女紋の方が良いかもしれない。だからといって素直にキミカゲの紋の花紋で羽織袴を作るのはなんとなく気に入らない。自分の紋で改めて花紋を作るのが良いのかもしれないが、そうなるとイラクサを「娘」扱いしている事になってしまう。子供が作れなくても子供のまま自立する事が難しくてもイラクサはスギナにとっては「息子」なのだが……
スギナとキミカゲの間に子供は生まれなかった。イラクサがいるからとセーブした訳ではない。確かにイラクサを拾った時はギリギリ新婚と言われる時期だったので、子作りが遅れた、といわれると否定は出来ない。否定は出来ないがイラクサが落ち着いてからはそれなりに努力をした。それどころか「イラクサのような子供を我が子として育てるなら、きちんとした跡継ぎを作れ、そうすればイラクサを認めよう」と周りの者達に言われ必死に子作りをした。子供が出来なすぎてスギナが何人かの他の女を囲い試したが子供は出来なかった。誰も口に出さなかったが、この結果はスギナの子種に問題があるという事実を物語っていた。
だから今のところスギナとキミカゲの子供はイラクサ。イラクサただ一人。途中でこのままではいけないと思ったイラクサが自分以外の子供を引き取るようにと家出をした事があるが「お前が気にする必要はない」とスギナの鉄拳制裁を受けて家出は終わった。
袴の帯を結びながらスギナの頭に走馬灯のように今までにイラクサが起こした事件がくるくると回っていく。イラクサ以外の養子を見つけた方が良いとはっきり言われた時にスギナとキミカゲより先に大きく頷いたのはイラクサだった。そのせいでスギナに怒られたイラクサはふて腐れていた。イラクサは自分以外の養子をとった方が良いと本気で思っていたし、勉学所で同門で自分より優れていると思った子供をそれとなく勧めて怒られた時もふて腐れていた。それで何度自分から鉄拳制裁を受けたことか。
弟や妹が欲しいと言えばキミカゲの負担になると判る歳になってからは兄が欲しい、それが無理なら姉が欲しいと言うようになった。そんなことも思い出す。その時はさすがに知恵がついたとキミカゲと笑い合った。イラクサの思い出はキミカゲとの思い出でもある。イラクサの一挙手一投足に泣いて笑ったキミカゲが一緒に思い出す。
単衣の着物に袴に細帯。真顔で成人の正装になったイラクサがスギナの足元に正座し深々と頭を下げる。さぞかし練習したとキミカゲが思うほど綺麗な土下座のイラクサを上から眺めたキミカゲが大きく頷いて手を打ち、それを合図に両側に並んだ道草組の幹部、部門長達が拍手をし、イラクサが顔を上げると慣れた調子で立ち上がりぺこりとスギナに頭を下げ廊下に飛び出し、部屋の中にいた全員が無言でそれを見送る。
成人の儀は普通であれば成人した者が主役になる。その後、道草組の使い走り扱いになろうとも、成人の儀の当日…… 成人の儀の間は主役になる。その主役が廊下に飛び出す。それは誰も考えていなかった。
「イラちゃん! あんた今日は主役何だから料理なんか運ばなくって良いから!」
成人の儀を飛び出さなければいけない理由はそんな台所からの怒鳴り声で判った。
「そんな事よりハコべ姐さんは里芋煮をこさえてくれよ。姐さんの里芋煮がなくちゃあ酒が進まない」
言い返すイラクサの声を聞いて堪えきれずにスギナが笑い出し、釣られて部屋の中の幹部も笑い出す。
「かーか、じゃあなくてキミカゲ姐さんは膳を運ばないで良いから、俺が運ぶから。違うったら。かーかはかーかだけど俺は今日から一人前になったから、かーかじゃあなくて姐さん何だってばぁ」
イラクサの怒鳴り声に座敷の男達は身を折って笑い続ける。
「姐さん…… 無理難題……」
「さすがに…… イーラが可哀想……だろ……」
笑いながら幹部達が口々に言いつのる。
今日から『我が子』から『配下の小者』に変わる。それは団長のイラクサの直下の者達、ほとんどの者が体験している。自分の息子達が成人しそれまでの坊ちゃんから小者として一人前になるように修行をする。
勿論、全員が全員道草組に入る訳ではない。荒事は無理だと飯屋や居酒屋の主人になった者もいれば、勉強が好きすぎて学問所の先生になった者もいる。お嬢様に一目惚れされて呉服屋に婿入りした者もいる。ただ、坊ちゃんから小者になり修行の期間は個人差はあれど親の後を継ぐ者が多い。
ただキミカゲにとっては初めてのたった一人の息子。「かーか」から「姐さん」に呼び名が変わるのにまだついて行けないのだろう。大体、「かーか」「とーと」から「お袋」「親父」に変えようとしたイラクサを泣いて止めたという過去があるのがキミカゲだった。イラクサが「かーか」から「姐さん」呼びに変えられるのは当分先になるだろう。
襖が開き5つほど積み上げた膳を持った女達が部屋に入り男達の前に膳を配っていく。その最後にイラクサが続き持ってきた膳をスギナの前とその隣に置く。
「おい」
そしてすぐに台所に戻ろうとしたイラクサをスギナが呼び止め、立ち止まったイラクサが振り返る。
「この膳はお前の物だよな?」
お頭付きの鯛の焼き物が乗った膳をスギナが指し
「うん、とーと…… じゃあなくて親父殿と俺……じゃあなくて私の膳だけど 、それが?」
本気でスギナの質問が判らないイラクサが聞き返しスギナが深い深いため息をつく。それを見てイラクサが首を傾げる。
この場はイラクサをスギナとキミクサの正式な息子と宣言する場になる予定だった。そしてイラクサは下下地区の自治団の長にはならず、長の補佐につくと宣言する場だった。それなのに……
スギナの無言の意味を読めなかったイラクサは台所に走っていく。
「坊はまだまだですね」
呆れ顔で見送ったスギナに一番そばにいた側近であり横にいる息子のフタバがイラクサの後見人第一候補のカタバミがスギナに話しかけ、苦笑いを浮かべたスギナが盃に口をつける。