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半妖と星の礎  作者: かなでぃあん
1/3

1章

◆ 廃寺での決意と月夜の瞳


夜空には満月が浮かび、その光が静かな山里を銀色に染めていた。ひっそりと佇む廃寺は、長い年月を経て朽ち果てつつあった。瓦屋根は所々崩れ、苔むした壁が冷たい風に晒されている。軒下には虫食いの経巻が散らばり、古びた鐘楼はすでに役目を終えたかのように傾いていた。


廃寺の奥、荒れた畳が敷かれた小さな堂に、一人の少年が座り込んでいた。彼の名前は月影シン。夜風が衣を揺らす中、シンは膝を抱え込み、じっと月明かりが差し込む窓を見つめていた。


十四歳――だが、自分が本当にその歳なのか、自信はなかった。幼い頃から身寄りがなく、ここでただ流れに身を任せるように育てられてきた。自分がどうやってここに来たのか、どこから来たのか。記憶は曖昧で、過去を語る術はほとんどなかった。


廃寺の中を吹き抜ける風は冷たい。だが、シンはその冷気に慣れていた。ここでの日々は、寒さや空腹、孤独が当たり前だったのだ。


ふと、彼の手が背負った風呂敷包みを握りしめた。その中には替えの衣服と、木刀、そして少量の干したイモだけが入っている。どれも質素で貧しいものばかりだが、それがシンの全財産だった。


「……ここを出る日が、来るなんてな……」

ぽつりと呟いた自分の声が、廃寺の空間に吸い込まれるように響いた。寂しさや不安が胸に湧き上がる一方で、心の奥底には、これまで知らなかった世界への期待感が確かにあった。



シンが剣を握ったのは、物心つくかつかないかの頃だった。その頃から剣助は不意に現れては、廃寺の裏手に連れて行き、剣術の稽古をつけてくれるようになった。最初は竹刀だったが、シンが力をつけるにつれ、木刀に替わり、振り方や立ち方、呼吸法を教えられた。


「剣はただ振るものではない。剣を振る者自身が、剣そのものにならねばならぬ。」

剣助の教えは簡潔でありながら、奥深いものばかりだった。シンにはその意味がよく分からなかったが、目の前で剣を握る剣助の動きは、あまりにも洗練されていて目を奪われた。


ある日、剣助が静かに型を見せる様子をじっと見つめながら、シンはふと口を開いた。

「師匠、どうしてそんなに正確で、強いんですか?」


剣助は少し動きを止め、シンの方に顔を向けた。その目は一瞬、遠い昔を思い出すかのような、わずかな哀愁を帯びていた。

「強さは己を知ることから始まる。だが、真の強さを知るには、己を超える何かを知る必要がある。」

「己を超える何か……?」

「そうだ。お前もいずれ分かるだろう。」


それ以上の説明はなく、剣助は再び木刀を振り始めた。その横顔には、何か深い秘密を秘めているように見えたが、シンは聞き返せず、ただ彼の動きを真似するように体を動かした。


稽古の合間、剣助が時折語る言葉は、シンにとって謎めいていた。


「お前にはあやかしの血が混じっている。それがどういう意味か、いずれ分かる。」

その言葉を聞くたびに、シンは胸がざわついた。


確かに彼は、普通の人間とは少し違うのかもしれない。月夜には瞳が金色に揺れ、耳には人には聞こえないはずの囁きが届くことがある。それを「妖の血」と呼ぶ剣助の言葉には、どこか重みがあった。


「僕は普通じゃないんですか?」

ある時、シンは剣助に問いかけた。


剣助はしばらく黙り、やがて静かに答えた。「普通かどうかを決めるのは、お前自身だ。だが、この力が人を救うのか、滅ぼすのか――それはお前の選択にかかっている。」



◆ 師弟の夜稽古


ある夜、満月が雲間から顔を覗かせ、廃寺の裏手に柔らかな月光が差し込んでいた。普段は穏やかな剣助が、その夜ばかりはどこか厳しい眼差しをしていた。いつもの稽古とは違う緊張感が漂っている。


「今日は少し本気でやってみよう。」


剣助の低い声が静寂を切り裂くように響く。シンは驚き、思わず木刀を握り直した。


「えっ、本気で? どういう意味ですか?」

彼の問いに剣助は答えず、無言のまま地面に落ちていた小石を足先で蹴り上げた。そして、見事なタイミングで木刀を振ると、その石が音もなく宙を舞い、数メートル先の木の幹に弧を描くように突き刺さった。


「これくらいは最低限の技術だ。お前もすぐにできるようになる。」


剣助が口にした「すぐに」という言葉が、シンには遠い目標のように感じられた。それでも彼は木刀を両手でしっかり握り、剣助の目を見つめた。


「……分かりました。やってみます。」


剣助は静かに歩み寄り、シンの構えをじっと見つめた。彼の瞳は、いつもの穏やかなものではなかった。鋭く、何か底知れない力を宿しているように見える。その視線に圧倒され、シンは無意識に背筋を伸ばした。


「構えが甘い。左足に力を入れすぎている。」

剣助の指摘に従い、シンは足の位置を修正した。しかし、その瞬間、背筋がぞわりとする感覚に襲われた。目の前に立つ剣助が、いつもの師匠ではないような威圧感を放っているのだ。


「……師匠、本気って、どこまでですか?」


「最後までだ。」

剣助は微かに微笑んだが、その笑みには冷ややかさが混じっていた。シンはその表情に、どこか人間離れした印象を抱いた。


「さあ、かかってこい。」

剣助が軽く構えると、シンは息を整え、全力で彼に向かって木刀を振り下ろした。しかし、その一撃は剣助に一歩も動かさせることなく受け流された。


「もっと意識を集中しろ。力だけでは勝てない。」


シンは再び体勢を立て直し、攻撃を続けた。剣助は軽々とそれをかわしながら、時折シンの動きを褒めるように頷いていた。しかし、ふとした瞬間、シンの瞳が金色に揺らめいた。その変化に剣助は気づいたが、何も言わずただ見守った。


「……っ!」

シンの次の一撃は、これまでとは違った速度と鋭さを持っていた。その木刀は剣助の防御を弾き飛ばし、わずかに彼の肩をかすめた。


剣助は微かに目を見開き、口元に薄い笑みを浮かべた。「いいぞ。その調子だ。」


しかし、次の瞬間、剣助の雰囲気が一変した。彼の木刀がまるで生き物のように動き、シンの動きを完全に封じ込めた。振り下ろされた木刀が、寸止めでシンの額の前で止まる。


「だが、まだ甘い。」

剣助の声は静かだったが、その背後に圧倒的な力を感じさせた。


シンは息を切らしながら膝をつき、木刀を地面に突き立てた。「……僕は、全然歯が立たないですね……。」


「歯が立たないのは当然だ。だが、お前は自分の中にある力の一部を引き出し始めた。」


「僕の中にある力……?」


剣助は少しだけ口元を引き締め、シンの目をじっと見つめた。「お前の力は、お前が認めたときに初めてその全貌を現す。今はまだ、その一部だ。」


その言葉の意味を深く考える余裕もないまま、シンは剣助に手を差し伸べられ、立ち上がった。


稽古が終わった後、剣助はしばらく木刀を眺めていた。そして、ふと遠くの月を見上げる。


「……お前には、この先もっと多くの壁が立ちはだかるだろう。」

「壁……?」


「その壁を乗り越えたとき、自分が何者かを知ることになる。そして、お前が自分を知るとき――俺が何者かも知ることになるだろう。」


シンはその言葉に戸惑いながらも、「俺」という言葉の中に隠された何かに気づいた。その時には理解できなかったが、剣助が持つ秘密は、この夜の記憶として心に深く刻まれることとなる。


その夜、稽古を終えた後の廃寺の裏手には、月明かりが柔らかく降り注いでいた。シンは地面に座り込み、木刀を脇に置いて大きく息を吐いた。体は汗でびっしょりだが、冷たい夜風がその熱を冷ましていく。剣助は近くの石に腰を下ろし、無言で夜空を見上げていた。


しばらく沈黙が続いた後、シンは恐る恐る口を開いた。

「師匠……一つ聞いてもいいですか?」


剣助は視線を月からシンに移した。その目は穏やかで、シンが質問するのを待っているようだった。


「妖の血って……一体、どんなものなんですか?」

シンの声には、どこか怯えと好奇心が混じっていた。「僕だけじゃなくて、師匠にも……それがあるんですか?」


剣助はその言葉にわずかに反応を見せた。その鋭い瞳が一瞬だけ曇る。それは一瞬の出来事だったが、シンはその表情の変化を見逃さなかった。


「妖の血……」剣助は静かに呟いた。そして、その言葉を繰り返すように口の中で転がしてから、ゆっくりと話し始めた。「人の心には、どんな者にも何かしらの『異質』が混ざり込んでいる。それが妖の血かどうかは……実際のところ重要ではない。」


「でも……」シンは言葉を選びながら続けた。「僕の瞳が金色になることも、風の声が聞こえることも……普通じゃないですよね? 他の人には、そんなこと起きませんよね?」


剣助はしばらく黙ったままだった。その沈黙が重く、シンは自分が何か触れてはいけないことを聞いてしまったのではないかと不安になる。だが、剣助はやがてゆっくりと微笑んだ。その微笑みは、どこか寂しさを含んでいるようにも見えた。


「普通かどうかを決めるのは、自分自身だ。」剣助はシンをじっと見つめた。「瞳の色がどうであれ、風の声が聞こえようと聞こえまいと……それはお前が何者かを決める要素ではない。」


「でも、師匠も……そうなんですか?」シンはその微笑みに隠された何かを見抜こうとするように問い詰めた。「師匠にも、妖の血が混じっているんですか?」


剣助の微笑みがふと消えた。彼は視線を再び月に戻し、まるでその問いを避けるかのように口を閉ざした。その姿にシンは戸惑ったが、師匠が何かを隠していることだけは確信した。


「今は剣を学べ。」剣助は突然そう言って立ち上がり、シンの肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。「それが、お前が己を知る第一歩だ。」


剣助の言葉はそれ以上続かなかった。その背中を見送りながら、シンの胸の中には小さな疑念が生まれていた。「師匠は何かを隠している。もしかしたら、僕のことを……いや、それ以上のことを知っているのかもしれない。」


彼は木刀を握り直し、空を見上げた。月の光が目に入ると、その瞬間、自分の瞳がわずかに金色に揺れる感覚がした。それを意識するたびに、胸の奥で不安と同時に奇妙な安堵感も湧き上がる。


「僕は、何なんだろう……」


その問いは剣助にも届かないまま、夜空の彼方へと消えていった。


その夜遅く、シンが廃寺で眠りについた頃、剣助は一人で剣を握り、廃寺の裏手に立っていた。夜風が外套を揺らし、彼の瞳もまた金色に輝いていた。


「……お前が本当にその力を目覚めさせた時、俺はどうするべきだろうな。」

誰に語るでもなく、剣助はぽつりと呟いた。


彼の中にはいくつもの葛藤が渦巻いていた。シンの中に眠る力、それが彼を守るものになるのか、それとも災いを呼ぶものになるのか――それは、剣助自身にも分からなかった。



---


◆ 秘術学校への誘い


夕暮れの廃寺。剣助がシンの稽古を終えた後、珍しく話を切り出した。

「シン……今までお前に言わなかったことがある。」


剣助がこんな真剣な顔を見せるのは珍しいことだった。いつもは稽古で失敗をしても穏やかに「焦るな」と言ってくれる師匠の目が、その時ばかりは鋭く光っていた。


「言わなかった?」シンは首を傾げた。「何のことですか?」


剣助は黙ったまましばらく間を置いた後、静かに言葉を紡いだ。

「お前の中には、人ではない血が混ざっている。それを『妖の血』と呼ぶ。」


その言葉に、シンの胸がざわついた。妖の血――それは、稽古中や日常の会話で、剣助が時折口にしていた言葉だった。しかし、今までそれがどういう意味を持つのか、詳しく聞かされたことはなかった。


「妖の血って……僕が普通じゃないってことですか?」

シンの声には、わずかに怯えが混じっていた。


剣助は彼をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「お前は、ただの人間ではない。お前の父か母、あるいはさらに遡る血筋のどこかで、あやかしと呼ばれる存在の血が混ざった。それゆえに、お前は『半妖』だ。」


その言葉を聞いた瞬間、シンの頭にいくつもの疑問が浮かんだ。なぜ自分が半妖なのか、妖とは何なのか――そして、それが自分の生き方にどんな意味を持つのか。


「……僕が半妖……?」

呆然とするシンを前に、剣助はさらに言葉を続けた。


「お前の瞳が月夜に金色に輝くのも、人には聞こえぬ風の声が聞こえるのも、その血の影響だ。」

「じゃあ、僕は……普通の人と違うってことですか?」

「違う。それは確かだ。だが、それが悪いことかどうかは、お前自身が決めることだ。」


剣助の言葉は静かだったが、その一言一言に重みがあった。それでもシンはまだ混乱していた。自分の中に流れる血が、ただの人間のものではないという事実。その事実が、自分に何をもたらすのかを考えようとすればするほど、頭の中がぐるぐると回った。




それから数日後の夕暮れ。剣助は懐から一つの巻物を取り出した。シンに渡されたそれは古びていて、縁が擦り切れた羊皮紙でできていた。


「影廻の秘術学校」と記されたその巻物を見たシンは、自然と眉をひそめた。

「これ、なんですか?」


「お前が行くべき場所だ。」剣助は簡潔に答えた。「そこは侍や忍者、陰陽術士が集い、それぞれの力を磨くために学ぶ場所だ。そして、お前のような半妖も、その力を制御する術を学べる場所だ。」


「でも、どうして僕がそこに行かないといけないんですか? ここで稽古してれば十分じゃないですか?」


シンは思わず口を尖らせた。自分が半妖であるという事実を受け入れる余裕もないまま、急に未知の場所へ行けと言われたのだ。戸惑うのも無理はなかった。


剣助はシンの反応を予想していたのか、静かに首を振った。

「ここでの稽古だけでは、いずれお前の力が暴走するだろう。」


「暴走……?」

「そうだ。妖の血は強い力をもたらすが、それを制御できなければ、お前自身を傷つけることになる。そして、お前の周囲の者たちもな。」


シンはその言葉に息を飲んだ。自分が暴走してしまう――それは想像したこともなかったが、剣助の真剣な表情から、それが現実であることを理解した。


「学校で学べば、その力を制御できるようになる。そうすれば、お前は自分の力を怖がることなく生きられるだろう。


シンは巻物を握りしめたまま、しばらく黙って考えていた。自分の力を怖がることなく生きられる――その言葉が胸に響いた。いつか自分が暴走してしまうかもしれないという恐怖、それを取り除くことができるのならば、行く価値はあるのかもしれない。


「……分かりました。」

シンは小さく頷いた。「行ってみます。その学校に。」


剣助はその答えに満足そうに頷いた。そして、彼の目はどこか遠くを見ているようだった。

「お前がそこに行けば、自分が何者かを知ることになるだろう。そして、俺が何者かもな。」


シンはその言葉に引っかかりを覚えたが、深く考える間もなく、剣助は話を切り上げるように立ち上がった。


「さあ、準備をしろ。旅は長くなる。」


こうして、シンの新たな旅路が始まることとなった――。



夜が明ける少し前、廃寺の周囲は霧が立ち込め、冷たい空気が辺りを覆っていた。シンは昨晩の荷物を風呂敷にまとめ、剣助とともに廃寺の門前に立っていた。まだ暗い空には星が瞬き、かすかな月明かりが二人の影を長く引き伸ばしている。


「シン、行くぞ。」

剣助の低い声が静寂を切り裂いた。シンは頷き、風呂敷を背負い直した。中には替えの衣服、木刀、少量の干しイモ――それが自分の全財産だ。


道なき道を進む中、森の木々がざわざわと風に揺れ、まるで何かを告げようとしているかのようだった。シンは不安と期待が入り混じった気持ちで剣助の背中を追った。


夜が明け始めた頃、山を抜けた先に小さな集落が見えた。かつて交易で賑わったらしいが、今は大半が空き家だという。その一角に古井戸があり、そのそばで一人の少女が腰を下ろしているのが見えた。遠目には年端もいかぬ娘で、黒髪を短く刈り、裾の短い忍装束を羽織っている。背には小さな包みを背負い、何やら巻物を読んでいるようだ。

廃村に足を踏み入れると、そこにはかつて交易で賑わった面影が残っていた。空き家の窓は壊れ、苔むした道端には崩れた石垣が散らばっている。古井戸のそばには一人の少女が腰を下ろしていた。短い黒髪に忍装束をまとい、手に巻物を握りしめている。彼女の視線は巻物に注がれているようで、こちらには気づいていないかのようだった。

「師匠、本当にこの道で大丈夫なんですか?」

シンは不安そうに剣助に問いかけた。「僕……月影シンとして、この学校に受け入れてもらえるでしょうか?」

剣助は振り返らずに言った。「心配するな。お前はもう一人前だ。」

その会話に耳を立てた少女は、ほんの一瞬だけシンの顔をちらりと見た。

「月影シン……変わった名前ね。」

カエデは呟くと、再び巻物に目を戻した。名前にどこか引っかかりを覚えながらも、それを深く考えようとはしなかった。



ふと、遠くからかすかな音が聞こえてきた。それは、人の声のようでもあり、風の音のようでもあった。シンは思わず足を止めた。


「師匠、今の音……?」

「気にするな。ただの風だ。」


剣助の声は冷静だったが、その瞳は鋭く森の奥を見据えていた。まるで何かを警戒しているかのようだ。シンはそれに気づきながらも、追及することができなかった。


さらに歩みを進めると、霧が濃くなり、視界がほとんど遮られるようになった。シンは剣助の後ろを慎重に歩いていたが、ふと、霧の向こうに動く影が見えた気がした。


「師匠……誰かいます。」

シンの声に剣助は一瞬立ち止まり、周囲を見渡した。だが、何も答えず、再び歩き出す。


「気にするな。」

その一言に促され、シンもまた歩を進めるが、胸の中のざわつきが止まらなかった。背後から微かな気配が追いかけてきているような感覚があったのだ。


突然、霧の中から低い唸り声が響いた。次の瞬間、闇の中から何かが飛び出してきた。それは大きな四足の獣のようだったが、目は赤く光り、全身が影のようにぼやけている。


「下がれ!」

剣助が鋭い声で叫び、木刀を振るった。その一撃は空気を切り裂き、獣のようなものを霧の中へと消し去った。


「な、なんですか、今の……!」

シンは震える声で問いかけたが、剣助は答えなかった。代わりに、木刀を握り直しながら周囲を警戒していた。


「霧の影だ。」剣助が低く呟いた。「この辺りは秘術学校の結界の影響で、時折こうした妖が現れる。」


「妖……!」

シンは驚きながらも、恐怖が全身を駆け巡った。自分がこれから向かう世界が、どれだけ危険な場所であるかを思い知らされた気がした。


「次に来たらお前も動け。」剣助はそう言うと、シンに木刀を差し出した。


「で、でも、僕にそんな力……!」

「言い訳をしている時間はない。」剣助はシンの目をじっと見つめた。その瞳は冷静だが、どこか厳しさが滲んでいる。「お前がその血を受け入れない限り、この先は生きていけない。」


シンは言葉を失いながらも、木刀を握り直した。そして、その瞬間、再び霧の中から影が現れた。剣助が先陣を切り、シンはその後ろに控えていたが、影が二手に分かれて攻撃を仕掛けてきた。


「シン、左だ!」剣助の声が響いた。


咄嗟に木刀を振り下ろしたシンの手には、今まで感じたことのない力が込められていた。その一撃は、影のような獣を一瞬で吹き飛ばした。


「やった……?」シンは驚きで自分の手を見つめた。だが、剣助は一言だけ言った。

「これが、お前の中に眠る力だ。」


影を退けた後、二人は再び歩き始めた。シンの胸の中には、恐怖と同時に奇妙な興奮が渦巻いていた。自分にこんな力があるとは思いもしなかった。


「師匠、あれは……」

「質問は学校で学べ。」剣助が短く答える。


霧が晴れると、目の前に広がるのは月明かりに照らされた細い山道だった。旅はまだ始まったばかり――だが、シンはその先に待つ世界が自分にとってただの冒険ではないことを感じ始めていた。



しばらく山道を歩いた後、小さな茶店が見えてきた。辺りはすっかり暗くなり、茶店の軒先にぽつんと灯る行灯が温かな光を放っている。店先では、髭を長く垂らした老人が串ざしの団子を炭火で焼いていた。その香ばしい匂いに、シンの腹が思わず鳴った。


「腹ごしらえをしておけ。」

剣助が短く言い、シンに銅貨を手渡す。


「団子を二串、ください。」

シンがそう言うと、老人は微笑みながら団子を手際よく焼き上げ、味噌だれをたっぷり絡めて差し出した。


「どちらへ行くんで?」老人が気さくに尋ねる。


「北の方へ。」剣助が簡潔に答える。


「北かい……。」老人は目を細め、何かを思い出すような表情を浮かべた。「噂じゃ、あっちの方には妙な学校があるとかないとか。侍や忍者、それに陰陽師まで一緒に学ぶっていう、不思議な場所だ。」


シンは驚きながら剣助を見たが、剣助は特に反応を見せず団子を口に運んでいた。


「まさか、あんたら、そこへ行くんじゃないだろうね。」

老人の目が剣助を鋭く見据える。その目には一瞬、尋常ならざる光が宿ったように見えた。


「かもしれんな。」剣助はそう答えると、団子の串を静かに置いた。


「へえ……それなら、気をつけることだねぇ。」老人は不気味な笑みを浮かべた。「北の道はただの山道じゃない。時々、妖が彷徨うなんて話も聞くからさ。」


「妖……?」シンが呟くと、老人はにやりと笑いながら言葉を続けた。


「ま、旅人の噂話だよ。けど、あんた――」老人がシンを指差し、「お前さんは……他とはちょいと違う匂いがするね。」


「違う……匂い?」


シンが戸惑っていると、剣助が立ち上がり、老人に軽く頭を下げた。「団子をありがとう。行くぞ、シン。」


急かされるようにしてシンは剣助の後を追った。茶店を離れる直前、振り返ると、老人が微笑みながら彼らを見送っているのが見えた。だが、その目はまるでシンを試すような光を宿していた。


◆ 旅路の先にあるもの


夜が明けて、冷えた朝の空気が廃寺を包んでいた。シンと剣助は山道を進んでいく。夜露に濡れた笹の葉が足元でさらさらと音を立てる中、二人の足音だけが静かに響いていた。


しばらく歩いた後、シンがふと口を開いた。

「師匠、秘術学校ってどんなところなんですか?」


剣助は前を歩きながら一瞬だけ足を止めると、淡々と答えた。

「広い場所だ。侍や忍者、陰陽術士が共に学ぶ学校だと言っただろう。」


「うん、そうだけど……具体的にはどんな授業があるんですか? 剣術とか、忍術とか?」


「授業の内容か……」剣助は少し考えるような仕草をして、答えた。「例えば、妖を呼び寄せる術式の作り方を学ぶかもしれないな。」


「妖を呼び寄せる!? 怖いじゃないですか!」

シンが驚いて声を上げると、剣助は微かに笑った。

「嘘だ。」


「ええっ!」シンは思わず立ち止まり、剣助を睨みつけた。「そんな嘘、つく必要ありますか!?」


「お前の反応を試しただけだ。」剣助は振り返りもせずに歩を進めた。その背中はいつもと変わらず堂々としているが、どこか余裕が漂っている。


「もう、師匠って本当に……」

シンは呆れながらも木刀を握り直し、再びその背中を追いかけた。



山道を進むうち、周囲の雰囲気が徐々に変わっていく。木々が高くなり、葉が密集して日光を遮り始めた。辺りはひんやりとした空気に包まれ、薄暗い森の中を歩いているような感覚に陥る。


シンはその不気味さに思わず足を止めた。「師匠、この道で本当に合ってるんですか?」


「心配するな。」剣助はさらりと言い切る。「俺は何度もこの道を通ったことがある。」


「そうなんですか?」

「そうだ。」


その言葉を信じて歩き出したシンだったが、剣助の言葉には何か引っかかるものを感じていた。師匠が「本当にこの道を知っているのだろうか?」という疑念が頭をよぎる。


しばらく進むと、霧が立ち込め始め、周囲の木々が白い幕に飲み込まれていく。足元の道も徐々に見えにくくなり、シンは不安げに剣助に声をかけた。


「師匠、この霧、大丈夫なんですか?」


剣助は平然と頷いた。「問題ない。この先には茶屋がある。」


「えっ、こんなところに茶屋が?」


「そうだ。そこで休憩できる。」


その言葉に少し安心したシンは、剣助の後ろをついていく。しかし、歩き続けても茶屋らしきものは一向に見えてこない。霧はますます濃くなり、ついに視界は数歩先しか見えなくなった。


「師匠、本当に茶屋があるんですか?」シンが疑いの目を向けると、剣助は小さく笑いながら言った。

「嘘だ。」


「また嘘!?」

シンは思わず叫んだが、剣助はまるで気にする様子もなく前を向いている。


「道中、少しでも気を抜かせようと思ってな。」剣助はさらりと答えたが、その言葉にシンは違和感を覚えた。気を抜かせようとする理由が、ただの親心だけではないような気がしたからだ。


その後も霧の中を進み、やがて目の前にぼんやりと鳥居が現れた。剣助は振り返り、真剣な表情で言った。


「この先が秘術学校への裏道だ。」


「今度は本当ですか?」シンが念を押すように尋ねると、剣助は微かに微笑んだだけで何も答えなかった。その沈黙が、逆に本当のことを語っているようにも、また嘘を含んでいるようにも感じられた。


シンは不安と期待を胸に、剣助の後を追い、鳥居の下をくぐった。霧が薄れ、少しずつ視界が開けていく。その先には、秘術学校への道が続いているようだった。だが、その道の先に待つものが、シンにとってどんな運命をもたらすのかは、この時まだ分からなかった。


霧の中を進む中、空気が徐々に重くなっていくのをシンは感じた。周囲は静まり返り、風の音も鳥のさえずりも消え失せている。足元の道は草に覆われ、獣道のような荒れた状態になっていた。


「師匠、本当にこの先に学校があるんですか?」

シンが不安げに尋ねると、剣助は答えずにただ前を歩き続ける。その背中にはいつも以上の緊張感が漂っていた。


やがて道が開けると、目の前に古びた鳥居が現れた。その鳥居は赤く塗られているはずだったが、塗料の大半は剥がれ落ち、苔がびっしりと生えている。両脇には奇妙な模様を刻まれた石像が一対置かれていた。それは狐にも犬にも見えるが、どこか異様な存在感を放っていた。


「これが……秘術学校の入り口?」

シンは無意識に呟いた。剣助は一歩前に進み、鳥居の下で立ち止まった。



霧の中を進む中、空気が徐々に重くなっていくのをシンは感じた。周囲は静まり返り、風の音も鳥のさえずりも消え失せている。足元の道は草に覆われ、獣道のような荒れた状態になっていた。


「師匠、本当にこの先に学校があるんですか?」

シンが不安げに尋ねると、剣助は答えずにただ前を歩き続ける。その背中にはいつも以上の緊張感が漂っていた。


やがて道が開けると、目の前に古びた鳥居が現れた。その鳥居は赤く塗られているはずだったが、塗料の大半は剥がれ落ち、苔がびっしりと生えている。両脇には奇妙な模様を刻まれた石像が一対置かれていた。それは狐にも犬にも見えるが、どこか異様な存在感を放っていた。


「これが……秘術学校の入り口?」

シンは無意識に呟いた。剣助は一歩前に進み、鳥居の下で立ち止まった。


「ここから先は、学校の結界領域だ。」剣助の声は低く、厳粛だった。「この鳥居を通れる者だけが、学校への道を進むことを許される。」


シンが鳥居に近づくと、足元に微かな震動を感じた。鳥居の下から立ち上る薄青い光が、足元の草を揺らしているように見える。


「通れなかったら、どうなるんですか?」

「……試してみればわかる。」剣助は短く答えたが、その声には僅かに緊張が滲んでいた。


シンは深呼吸をし、鳥居の前に立った。その瞬間、まるで目に見えない壁に阻まれるような抵抗感を感じた。空気が重く、肌にじんわりとした圧力がかかる。


「うっ……!」

思わず足がすくむシンに、剣助が静かに声をかけた。

「力に逆らわず、受け入れろ。お前自身の存在をこの結界に認めさせるんだ。」


シンは剣助の言葉を思い出し、もう一度足を踏み出した。目を閉じ、心を落ち着ける。自分が半妖であること、普通の人間とは違う存在であることを受け入れる瞬間だった。


鳥居をくぐり抜けると同時に、周囲がぱっと明るくなり、結界が青白い光を放った。その光は柔らかく、包み込むようにシンの体を暖めた。


「通れた……?」

シンが振り返ると、剣助がゆっくりと頷いていた。


「お前を受け入れたようだな。」


剣助も鳥居をくぐると、光は次第に消えていき、再び静寂が戻った。シンは胸を撫で下ろしながら鳥居の向こうを見た。そこには新たな道が続いていた。


「この道の先に、学校があるんですね?」

シンが確認するように尋ねると、剣助は淡々と答えた。

「その通りだ。ただし、学校にたどり着くまでの道は容易ではない。結界はあくまで最初の試練にすぎない。」


その言葉に、シンは背筋が少し伸びる思いがした。自分が認められたことへの安堵と同時に、これからの旅路に待ち受ける困難への緊張感が胸を締め付けた。

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